品井沼干拓について、"元禄潜穴(せんけつ)"と"ずり出し穴"のことを教えてほしい!
今回のみやぎUP-DATEでは、こちらの投稿にお応えします!
馴染みのない言葉ばかりで難しそうですが、1つずつ説明します。
まず「品井沼」というのは…
松島町の北、星印のあたりに昔あった沼です。
そして「元禄潜穴(せんけつ)」の「潜穴」とは、トンネルのことで、この品井沼の干拓に使われました。
松島町に残る、江戸時代から始まった大工事の名残をたどってきました。
現地に行ってみよう!
さっそく松島町の吉田川へやって来ました。
今回お話を伺うのは、元禄潜穴に詳しい松島町教育委員会の森田 義史さんです。
安藤さん 「品井沼というのはどのあたりにあった沼なんでしょうか?」 |
森田さん 「見える範囲全てですね。 右側の方の堤防があるあたりから品井沼ですし、(川も含め)土になっているところ全てですね。」 |
こんなに大きな沼だったんですね…!
昔の品井沼は?
こちらは藩政時代の地図です。
中央付近に品井沼が描かれています。
東西およそ6.5キロ、南北およそ3キロと言われ、相当大きな沼だったことがうかがえます。
安藤さん 「これだけ広い沼があったということは水害も起きていたんですか?」 |
森田さん 「そうなんです。 たくさんの川が流れ込む一方で、流れ出るところが少ないので水害がかなり多かったと聞いています。」 |
画像は当時の状況を表す地図です。
多くの支流が品井沼へと流れていきますが、流れ出る川は一つ。
そのため増水期になるとたびたび氾濫していたそうです。
品井沼の水を松島湾に流し、氾濫を抑えるとともに土地を有効に活用しようと、1693年(元禄6年)、4代藩主・伊達綱村公のもと作られたトンネルが「元禄潜穴」です。
品井沼から松島湾までおよそ7.4キロ。
そのうちおよそ2.6キロに2本のトンネルを掘り沼の水を流すという大工事で、5年の歳月が費やされました。
名残を訪ねてみよう
今も残る「元禄潜穴」へ案内してもらいました。
水が2本のトンネルに流れ込む、元禄潜穴の入り口「穴頭(あながしら)」です。
明治の補強工事によって周りはレンガなどで囲まれていますが、古いものであることは一目で分かります。
重機もない江戸時代にどのようにしてトンネルは掘られたのか、穴頭のそばにある品井沼干拓資料館で知ることができました。
森田さん 「特徴的なのは『ずり出し穴』というすり鉢状の縦穴を掘るというところで、縦穴と縦穴の間をつなぐように(横穴を)掘っていったということが、今残されている遺構から分かります。」 |
安藤さん 「トンネルで出た土をこの穴から出しているわけですね。」 |
町内にはトンネルを掘るために設けられた縦穴、「ずり出し穴」の跡も残されています。
安藤さん 「ここからトンネル工事で出た土を掘りだして上に運んできていたわけですね。 この穴だけでもものすごい規模の大きさが分かりますね。」 |
さらに今回、貴重な資料も見ることができました。
代々この地区に住む、武山さんのお宅で所有する古文書です。
4代藩主・綱村公が潜穴工事の視察に訪れ、この家で食事をしたことが書かれています。
安藤さん 「当時の藩主が来るほど肝いりの事業だったということですよね。」 |
森田さん 「そうですね。殿様が視察に来るぐらいってことは力を入れていた事業だったと思いますね。」 |
武山さん 「だって全部手作業でしょう。 重機があるわけではないので、ちょっと言葉では表せないぐらい苦労されたんだろうなって。 だから(お殿様が)ここまでいらして鼓舞されたんだろうなぁ、と感じました。 本当に苦労された方の土台の上に私たちが立っているんだなと、生活させていただいているっていうのはありがたいことなんだなぁと思いました。」 |
品井沼の干拓は、明治時代には別のトンネルが作られるなどして長く続けられ、昭和25年に県の干拓事業が終了しています。
安藤のひとこと。
安藤さん 「水害を抑えて豊かな土地にするために、今では本当に考えられないような方法と労力を使って行われたのがこの品井沼干拓でした。 元禄潜穴、どなたでも今も見に行くことができますので、ぜひ実際に訪れて先人たちに思いを馳せてほしいなと思います。」 |
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