未来への証言 サッカー人生を変えた震災

(初回放送日:2022年3月14日)

※NHK仙台放送局では震災伝承のため被災者の証言の音源を保存・公開しています。

宮城県岩沼市出身のサッカー選手・大久保剛志さんの証言です。
震災当時24歳だった大久保さんはベガルタ仙台でプレーしていました。震災後、Jリーグは一時中断。自身も家族の面倒を見なければなりませんでした。そんな中、大久保さんは被災地の子どもたちのためボランティアでサッカー教室を始めます。その後、タイのプロリーグに渡ったあともサッカー教室の活動は続きました。

▽証言はこちらから(音声が再生されます)▽

深澤)すでにシーズンは始まっていたとは思うんですが、被災した時の大久保さんの状況を教えてください。

大久保さん)チーム練習が終わりまして、チームメイトとラーメン屋さんで昼食をとっている時でした。最初はすごく小さな地震だったので「揺れてるね」とか冗談言えるような空気ではあったんですけど、どんどんどんどん揺れが激しくなってきて、長かったのもあって「これちょっとまずいんじゃないか」っていう空気に一瞬でなりまして、そんな中ちゅう房にある食器棚が一気に全部崩れてしまって、煙だらけになったんですよね。店内が。「ちょっとここを抜け出さないと危険だね」って言って、すぐに入り口に向かいました。ただ自動ドアが作動しなくて開かない状況だったんで、自動ドアを割って外に出ることができて、とりあえず安心したっていうのを覚えています。

深澤)その後どのような形で過ごしていたんでしょうか?

大久保さん)妻のおじいちゃんとおばあちゃんが2人暮らしをしていたんですね。ヘルパーさんが基本的に毎日来てケアをしていただくということだったんですけども、ヘルパーさんが「伺えない」ということになってしまって、まあそれはそうだと思うんですね。大変なことなので。だったら僕たち夫婦がしばらくはおじいちゃんおばあちゃんのケアをするということは決まりまして、翌日からずっとケアをしながら過ごしていました。

深澤)サッカーどころじゃないというような、そんな状況だったんでしょうか?

大久保さん)そうですね。食料も全く手に入らなかったですし、その時におじいちゃんおばあちゃんが体調崩したらよけいに大変なことになるなって想像できたので、食料調達に一日中走り回りながらやっていたので、本当にサッカーどころじゃないというか、その一日一日をどうやって過ごすかというのに必死でしたね。

深澤)それだけの苦労もありながらボランティアでサッカー教室を行うという活動もされましたが、その経緯も教えてください。

大久保さん)最初の1週間は生活するのにいっぱいいっぱいで大変だったんですけども、大好きな故郷がこのようなことになってしまって、僕に何ができるかなっていうのを考えるようになっていったんですね。その中でベガルタ仙台のスタッフが中心になって被災地をめぐって活動していたのもあったので、そこに僕も連れて行ってもらって色々活動していく中で、やっぱり子どもたちが校庭だったりふだんサッカーができるような場所が自由に使えないというところも正直あったんですよね。もちろん学校も止まっていますし、僕にできることはやっぱりサッカーだなと思ってですね、3月26日にサッカースクールを地元の岩沼市多目的グラウンドで開催することを決めました。

深澤)サッカー教室をやることへの反発みたいなものはなかったですか?

大久保さん)正直ありました。「剛志、その思いはいいけども、今やるべきではないんじゃないか」っていうのは、たくさん開催前はいただきました。ただ僕の中では逆で、今だからこそできることなんじゃないかって。もちろん保護者の方には負担をかけてしまうことは多々あったと思うんですけど、子どもたちにとっては絶対いいことだと思ったのでやらせていただいたんですよね。150~200名ぐらい集まっていただいたんですけども、本当に楽しそうにサッカーしていて、開催後は保護者の方から「開いていただいてありがとう」というありがたい声をたくさんいただいて、ようやくその時にやって良かったなと思いました。やはり初期のことを振り返ると、つらいことの方が多いです。唯一あのことが起きて僕が大きく変わったことは、ベストを毎日尽くさないともったいないなっていうふうな気持ちにすごい切り替わりました。ポーンとタイに飛び出したっていうのもあのことがすごく僕は大きくて、このチャンスを逃しちゃいけないとか。それが結果、今もこうしてサッカー選手としていられるというのはすごい幸せなので、そういった意味ではすごい心境の変化を与えていただきました。