未来への証言 「後悔」しながら生きてゆく

(初回放送日:2022年3月11日)

※NHK仙台放送局では震災伝承のため被災者の証言の音源を保存・公開しています。

名取市閖上の丹野祐子さんの証言です。
丹野さんは震災の津波で、中学1年生だった息子の公太さんと夫の両親を亡くしました。
その日は中学3年生だった長女の卒業式のあと、公民館で先生たちとの懇親会に出席していました。
地震のあとグラウンドに飛び出しましたが、大津波警報が出てもその場に留まっていたといいます。

▽証言はこちらから(音声が再生されます)▽

丹野さん)津波って言葉は耳では知っていたけど、一体何が津波かってことを私は全く頭で理解していませんでした。友達の家に遊びに行っていた息子がちょっと離れた所でボール蹴って遊んでいたんですよ。近所の奥さん方や同じ謝恩会に出ていた仲のいい友達同士がみんなで集まっているから、まあここにいれば安心だろうと。今私のいる場所までは水は来ないだろうなとか、都合のいいことだけを考えていたんです。
何気なく東の空を見たんです。家と家の間に黒い煙がもくもくもくもくっと湧き上がっているのが見えたんですね。てっきり火事の煙だと思って、すぐ隣にいたやはり仲のいい友達に「ちょっとちょっと大変!火事じゃない?」って教えようとしたかしないかその声に「津波だー!」っていう大きな声がかぶさってきたんです。たまたま私はコンクリートの2階建て、本当についさっきまで謝恩会を開いていたその場所に逃げ込むことができました。上までだーっと上がって、2階で「はぁっ」と一息をついた時、足元に真っ黒な水が流れてきたんです。油がギラギラ浮いてて、ザラザラでベタベタで、何とも言い表すことが出来ない、真っ黒な水でした。これは何事だと思い慌ててベランダに駆け寄ったとき、私の目線の先に船が流れていくんですよ。私がさっき見た黒い砂煙っていうのは津波によって家と家がドミノのように押しつぶされていったときの砂ぼこりだったんだそうです。
建物に登るとき一瞬だけ、さっきまでボールを蹴って遊んでいた息子がいる方をちょっと見たんです。「公太―!」って大きな声で叫びました。でも私が一瞬ふり返った時に、もう息子の姿はそこにはなかったんですね。たぶん私の声も届いていないと思います。あとで聞かされましたが、私が逃げた方角ではない反対の閖上中学校方面に走ったっていう目撃情報を最後に、2週間後、がれきの中から息子は発見されました

丹野さんは震災後、仲間とともに、津波被害の伝承を目的とした資料館「閖上の記憶」を立ち上げ、語り部として、訪れた人たちに自らの経験を伝えています。

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丹野さん)私は当時を語るということで歩いてくることができたような気がするんです。なので、語れる人間から順番であの日を語ることがもしかしたら次につながるのではないかなと。「東日本の時はこんな過ちがあったから、次また同じことが起きそうな時はこうなってはだめだよ」とか「こんなものが役に立ったよ」という経験が次の世代にもしつながるのであれば、これがあの日を語る意味の一つになるんじゃないかなと今はそう考えています。
今の私が生かされているのは、あの日の後悔が後押ししてくれているからであって、あの日と向き合ったからこそ、あの日を後悔し続けながら生きていこうって決めたんです。
だってね、親である私が「早く逃げろ」ってさえ、そうひと言さえ告げていれば、息子は命を失うことはなかったはずなんです。助けてやれなかった後悔が今の私を動かしています。