【出演者】
松村邦洋さん
堀口茉純さん
川久保秀一さん


2023年3月12日(日)放送の<DJ日本史>、テーマは『話が違うぞ!さあ、どうする?』。いざ実際に行ってみたら聞いてた話と大違い、思っていたのと正反対! そんな経験ありませんか? このようなとき、昔の人は自分の置かれた状況にどう向き合ったのでしょうか?

人にはしごを外されちゃった、という武将の話をご紹介しましょう。

西暦1600年の関ケ原の戦い直前のこと。
関ケ原の戦いはご存じ豊臣秀吉子飼いの武将石田三成たちと徳川家康との戦いですが、その端緒になったのが会津の上杉征伐でした。徳川家康が会津の上杉家を攻撃するため東北地方に向かったそのすきに、石田三成が挙兵したわけです。
このとき、家康としては上杉征伐に向かう前に決めておかなければならないことがありました。それは、重要拠点だった京都の伏見城を誰に任せるか、ということです。
そこで白羽の矢を立てたのが、薩摩の武将、島津義弘(しまづよしひろ)でした。

島津義弘は家康が大坂を出発する1か月半前にじきじきに会って、上杉征伐のときには伏見城の留守番をしてほしい、と家康から伝えられます。
ところが島津義弘、家康から言われた通りに行動するのですが、聞いてた話と大違い!
はしごを外された形になってしまいました。


家康に言われた通り、伏見城へ入ろうとした島津義弘。
ところがなんと、伏見城にいた家康の家来に断られてしまいました。
「島津殿が城に入るなど、聞いておらぬ」 そう言うのです。
二度にわたって申し入れしますが、らちがあきません。
連絡もれか、はたまた家康の心変わりか。理由はわかりませんが、島津義弘、当初の心積もりが大きく変わってしまいました。

誤算はそれだけではありません。
このとき上方にいた島津義弘の兵力は、わずか200。戦乱が近づく中、国元の島津家当主・義久にもっと兵を送るよう求めますが、反応はなし。
実はその直前、薩摩で有力家臣の反乱もあり兵を出すゆとりがない状況でした。

行き場はない、兵も集まらない。島津義弘、さあ、どうする?

義弘に残された道はただ一つ、「流れに身を任せること」でした。
ほどなくして京・大坂は石田三成率いる西軍であふれたため、島津義弘は西軍につきます。
ただ兵が少ないため、西軍の中で強い立場に立てません。

それでも島津軍、関ケ原では時に独自の動きもとろうとします。
石田三成からの攻撃要請をはねつけ、「きょうはそれぞれの軍がめいめいに戦いたい」と言い返す場面もありました。
そして西軍が敗れるや島津軍単独で前の敵陣を中央突破、薩摩へ落ち延びていくのです。

話が違って誤算続きだった島津義弘。苦難まみれの、関ケ原の戦いでした。

DJ日本史「話が違うぞ!さあ、どうする?」①

DJ日本史「話が違うぞ!さあ、どうする?」③