平成改元 30年へて新証言
元メンバー語ったこと 全文

「元号に関する懇談会」のメンバーだった元早稲田大学総長西原春夫さんへのインタビューの全文は次のとおりです。
(記者)有識者からなる「元号に関する懇談会」への参加について。いつどのように声をかけられたのか。
(西原)今思い返すと、昭和天皇が亡くなられる前の年、昭和63年の2月に、当時早稲田大学の総長をやっていたんですが、入学試験の真っ最中で学内立ち入り禁止という状況の中、当時の小渕官房長官に仕えていた古川さんがわざわざ大学にお見えになったんです。手帳を見ると、古川さんが2月22日の午後1時半に早稲田大学に来られた。こんな方が来られたということは、ここで私は懇談会の委員に委嘱されたと言っていいだろうと思うんですね。当時は「すべてを秘密にしてほしい」、「委員に委嘱されたことも秘密にしてほしい」と言われたので、私は普通だったら色んなことを手帳に書くのですが、ところが全部書いていないんです。こういうことを見ても、2月22日に委嘱されたということは間違いないんだろうと思います。
(記者)古川さんからは他に何を言われたのか。
(西原)なるべく忘れるように努力したものですから、よく思い出せないんですが、確か「あなたが元号の候補を探さなくてもよい」ということだったんじゃないかと。もうしそうだったら、大変なことですからね。そうでなかったということは、おそらく「政府の中から案が出るからその中から選んでほしい」ということの依頼だったんじゃないかと思います。その後、例えば私が中国の「詩経」だとか「史記」だとかそういうもので一生懸命になって候補を探したという記憶がありませんから、まあそういうことだったろうということなんですね。その後、私は総長ですから、海外にも何回も行っているし、国内の旅行も随分多かったんですけども、それは初めのころは全然問題がなかった。天皇の病気が大変重くなられたころ、どなたから言われたか記憶していないんですけど、「(総理大臣官邸まで)3時間以上かかる所には行って欲しくない」と、こういう要請が出てきたのを記憶をしております。それが、12月の半ばごろだったんじゃないかなと記憶をしています。家族にも秘密と言い
ますから、少し遠くに出かける時にはスーツケースの下に、ちゃん
とワイシャツとネクタイをしのばせて出かけたっていう記憶があります。
(記者)依頼された時、どのような思いを持ったか。
(西原)事がやはり重大ですからね、私もこれは大変なことを仰せつかったという気持ちはありました。ただ、私は当時、日本私立大学団体連合会という、日本の私立大学が全部加盟している団体連合会の会長や、幼稚園から大学までのすべての私立学校の団体の代表を兼ねていました。従って、いわば私学の代表者っていう立場にありますから、政府として私学を重んじてくれたということになるわけですから、私はご要請に応えるべきだと思いました。ただ、これは大変な仕事を仰せつかったなという意識はあります。ですから、かれこれ10か月ほど、大変緊張した気持ちでいたということです。
(記者)日々の生活面で変化したことはあるか。
(西原)特にありません。ただやはりそういう状況ですから、陛下のご病状についての報道などは非常に関心を持って聞いて追いかけていました。
(記者)こういう場所に行かないようにというのもあったのか。
(西原)3時間という時間の制約だけですね。12月の末に(すえ)20年ぐらい毎年苗場のスキー場に行ってたんです。苗場は急いで帰ると2時間半ぐらいで帰れるんですね。従って、3時間以内ということは良いんだろうと思って。しかし他の誰にも言わないで、それこそワイシャツ、ネクタイ、スーツをトランクにしのばせて。家族も後から聞いてびっくりしたそうですよ。そんなことがあるとはゆめにも思っていなかったと。スキーやっていたんですから私は。でも、常に放送に気をつけていました。どこかから電話がかかってくるんじゃないか、天皇が亡くなられたっていう放送がゲレンデで流れる可能性もあるでしょう。そういうことを気にしながら滑っていたということはあるんです。特に1月になってからは大変ご病状が重くなりましたので、緊張した毎日を過ごしていたということです。
(記者)1月7日、昭和天皇が亡くなった。西原さんはいつどこで連絡を受けたのか。
(西原)自宅におりました。当時は総長で公用車がありましたので、電話があってすぐに大学の運転室に連絡して、何時までに来てくれということで。その日は、記録によると家を出たのが午前9時半。午後0時半までに総理官邸に来て欲しいという要請があったと思うんですね。従って、私は一度家から大学に行って、午前11時半に大学を出ています。それで、本当は1時間かからないんだけども、時間をたっぷり取って官邸に向かい、そして午後1時から会議が始まったということですね。
(記者)電話は誰からかかってきて、どのような内容だったのか。
(西原)ちょっとそれが、まさに記録していないから忘れてしまったんです。古川さんだったかどうだったか分かりませんけど、その辺からだったと思います。とにかく、「陛下がお亡くなりになった。会議を開催するので、何時までにここに来て欲しい」と、こういうことだったと思います。
(記者)電話を受けた時の西原さんのお気持ちは。
(西原)非常に、天皇の逝去を大変悼むとともに、これは今日は大変な1日だなということで緊張しました。本当に一生にいっぺんという気持ちですよね。
(記者)官邸に到着された時のことを覚えているか。
(西原)やっぱりマスコミがいるんですね。だからマスコミに対してはひと言も物を言わないでザッと中に入ったということですね。
(記者)その時まで他のメンバーが誰なのかは知らなかったのか。
(西原)知らなかったんです。全然知らなかった。そこに行って初めてお目にかかった。
(記者)どういう部屋だったのか。
(西原)官邸の会議室、大会議室と書いてある。大会議室といっても、そんなに大きい部屋ではないですが、メンバーが8人ですけど、事務局がいますから、ほどほどの大きさの部屋だったという記憶がありますね。
(記者)ほかの皆さんの表情を見た時の印象は。
(西原)中には存じ上げている方も、例えば国立大学協会の会長は当時、東大の総長の森亘先生で普段からお付き合いがありましたから。緊張していました、皆さんね。皆さん一流の方々だったので場慣れしてますけど、非常に厳粛かつ静粛で、やや緊張した雰囲気という感じでした。
(記者)新元号の3つの案はどのように知ったのか。
(西原)後から配られたのか、そこにあったのか記憶がややはっきりしないですね。私の印象というか、記憶は平成が一番先だっていう記憶があるんですよ。ですからなんとなく平成が政府側の第一候補なのかなという印象を持ったところからすると、平成を表にする3枚の紙だったのか、それとも右から順序で3つ並んでいて、右側が平成だったか、その辺がちょっと記憶していません。
(記者)政府側からまず説明があったのか。
(西原)そうです、説明がありました。私の記憶では、この3つの案の前に、歴史学者あるいは中国古典の学者などの方々に、いくつもの候補を出して頂いて、その中から、「官邸が」と言ったかどうかははっきりしていませんけど、3つを選んだので、この中の1つをお選び頂きたい、こういう要請だったと思います。
(記者)懇談会は、元号を選ぶ、という会議だったのか。
(西原)そうです。決定して下さいという会議。事務局からそういうことで、この中で、1つを決めてほしいと、こういう感じだった。ですから、懇談会でまさに決める。その後どういう手続きなのかは、おそらく説明があったかもしれませんけども。とにかくこの懇談会で1つにして、1つを決定してほしいという要請がありました。
(記者)それはその場で司会から説明があったのか。
(西原)そうですね。むしろ、中身の説明はあまりなかったように思いますね。
(記者)中身というのは?
(西原)平成とはとか、修文とはとか、その中身はこういう意味ですという説明はなかったように思うんですね。ただ漢字が出てきたという感じですね。
(記者)3つの候補の説明は。
(西原)1つひとつの説明はなかったと思いますね。ですから、3つの候補が出たというだけだという記憶です。
(記者)候補を見た時の先生の第1印象は。
(西原)第1印象は、一番先に出ている平成がおそらく第1候補と官邸は考えているんだな、という印象を持ったぐらいですね。
(記者)ほかに官邸が平成を第1候補と考えていると感じた場面はあったか。
(西原)順番ですね。それだけですね。
(記者)3つの候補に対して、どういう意見を述べたのか。
(西原)会議の中身をどれだけ話をしていいのか、分からないのですが、当時は秘密ということですから、私も話をしていないんですけど、次の世代、時代まで移り変わりましたから、その辺のことは話してもいいのかなという思いで話しますけどね。最初は、どっちかというと皆さんわりと遠慮して口火を切る方がなかなかいらっしゃらなかったです。しかし皆さん名士の方々で、そういう場には慣れている方ですよね。なんとなく最初に、平成が良いんじゃないかなという風な感想が数人から出てきて、そういう流れがある程度出来たなと。あまり時間をかけることはなく。その時に、私が実は、これは反対ということではないと、だけど1つの問題提起をしてみたいということで、1つの意見を申し上げた。これが例えば反対があったという報道がなされたことがあるんですが、反対は誰もしていません。反対は出ていません。ですから、私としては皆さんが考えて頂く問題を提起したいということで1つの発言をしました。反対ではないということを申した上でですね。私たちは昭和というも
のに60年間慣れてきたわけですね、それで歴史を振り返ってみる
と、明治という大変な時代があった、戦争の時代という面もあるけど歴史的な大変な時代だった。昭和というのも戦争があって大変な時代だった。もちろん元号というものが社会意識に直接影響を及ぼすものかどうかこれは分からないわけですが、なんとなく大正という時代が明治と昭和の間に挟まれてどちらかというと特色があまりなくて、しかも短い時間で終わってしまった、そういう感じがあると。平成という言葉が、例えば明治とか昭和というのがピシッと音が締まるのに対して、平成というのは音が流れていく。そこである意味で大正を連想することになってしまったんだけど、なんとなく特色のない時代で、短い時代になってしまうような感じを持つが、そういうことは考えなくてもいいんだろうか、とこんなような意見を述べたんですね。それに対して、たしか1人の方がそういう問題もあるなという意見を述べられたことを記憶しています。だから、2人の反対があったというふうに報道するとしたら、それは間違いです。私の考えをサポートする人からそれも1つの考えだなという
感じのサポートがあったのが事実ですね。しかしこれに対して、そ
んなことはないよ、こういう理由でそういうことは考えなくていいんだっていう積極的な反論があったわけではなかったんです。でも、まあ平成でいいじゃないでしょうかね、というふうな意見が相次いで、結局全体の雰囲気としては、私の考え方ではなくて、全体として平成でいいんじゃないか、平らかにして成るというそういう平成の元号がいいんじゃないかというふうに流れていきました。そして最終的にこれは多数決で手をあげたりして決まってはおりません。懇談会としては平成でよろしいですね、という閉め方をして。だから私もそこで反対の意思表示をしたことはありません。大体懇談会として、平成に落ち着いて、まとめとして懇談会として平成に決定したということです。
(記者)なぜ、多くの有識者が平成を推したのか。
(西原)やっぱり、私は戦争ということがあったと思うんですよね。明治の場合もそうだし、大正の場合も、第一次世界大戦に参戦していますし、昭和にはまさに敗戦まで経験した。そうした戦争の時代というのがあって、確かに戦後すでに40年の平和が続いたけれども、そういう時代であってほしくないというので、平成という、平らかにして成るという、戦争のない平和な時代という内容を持っていますから、これが合うんじゃないかという感じを、皆さん持たれたんじゃないかという雰囲気でしたね。平らかにして成るですから、国内的にも平和で、国際的にも戦争のない、そういう時代が望ましいから、それにあった元号だというこういう感じだったと思う。
(記者)そういう意見を述べた方がいたのか。
(西原)そういう雰囲気の、具体的な言葉は覚えていませんけども、そういう感じの発言をされていました。それが割と皆さんの気持ちを代弁していたという気がしますね。
(記者)政府が平成に誘導したのでは、という議論もあるが。
(西原)それはありません。そういう感じはまったくありません。懇談会で自主的に決めた、ということです。ただ、一番上に、というか先に出ていたということだけです。誘導したという感じはありません。
(記者)皆の意見がちょうど平成にまとまっていったということか。
(西原)私自身もね、音が流れる年号が気になったとすれば、音が締まる元号、正化が締まる元号ですが、それが良いかというと私個人としてもあまりぴったりしなかったということもあるんです。あれが私個人にぴったりはまる元号案だったら、私はそれを推したかもしれないけども、そういうことがありましたね。そういう意味では3つの比較、考慮を皆さんしているんだと思うんですよ。
(記者)修文、正化を推す声は。
(西原)修文、正化を推す意見はありませんでした。議論もありませんでした。現に、懇談会の進め方として、1つひとつの案についてこれをどう思いますか、これをどう思いますか、という議論の進め方はしていない。全体として3つを並べて選んで下さいという感じだった。これは間違いありません。従って、1人ひとりが修文についてどう思うか、正化についてどう思うかという発言をしているわけではまったくありません。
(記者)会議の前後に政府の関係者と話すような場面はあったのか。
(西原)それはありません。わりと淡々と進んでいったっていう感じですね。
(記者)厳粛な雰囲気だったということだが、先生個人や他の有識者はどういった気持ちで懇談会に臨んだのか。
(西原)私個人と皆さんが同じかどうか分からないんですけど、私は昭和3年生まれなんですよ。昭和3年というと、昭和は60何年続いたんだから、本当に昭和のはじめに生まれたわけですね。当時私の子供時代に、昭和10年代ですけど、「昭和の子供」という歌があったんですよ。いまは歌集に載っていないから覚えている人はほとんどいないと思うんですけど。それを私は歌って育った。だから、私が昭和の子供というのはまさに、自他共に認めてきたわけですね、考えてみますと、天皇が亡くなられたということよりも、昭和という元号に幕を閉じる役割を私はやったんだなという気持ちがありましたね。昭和という、私は昭和の子なのに、その昭和の元号に自ら幕を閉じる役割を果たしたんだなという思いがあった。これをいまでも記憶している。それを、いま平成という元号を、多数の人と一緒だけども、最終的に決定した。その平成が終わるわけでしょう。これは私にとって一つの感慨ですよね、二重の感慨を覚えました、元号について。これは長生きしたことのひとつの現れですが
、元号の制定について、二重の感慨を覚えたのは珍しい体験じゃな
いかと思うんです。
(記者)最後に平成に集約する場面について詳しく教えてほしい。
(西原)これは、忘れよう、忘れようということにしていましたから。たしか「皆さんのご意見をお受けしたところ平成ということで考えがまとまってきたように思いますけど、そのように理解して宜しいでしょうか」、「それではこの懇談会としては、平成に決定ということで宜しいでございましょうか」というまとめ方だったろうと記憶しています。だから、多数決で手を挙げて決めたっていう記憶はありません。聞かれて、皆さんががうなずいたということです。
(記者)平成に決まった時に感じたことは。
(西原)問題意思を持ったから、100%賛成という感じではないんだけども、皆さんがそう言うのももっともだしということで、最終的には賛成してるんですね。わたしは平成という候補をはじめて見たときの印象、考えを持ってその後の平成の時代の成り行きを見てきているということは、間違いなくと言えると思うんです。
(記者)その西原さんは平成という時代を振り返り、何を思うか。
(西原)私の当時の会議の席上におけるある種の予測は、ある面で間違っていたけども、ある意味で正しかったという気がしてるんです。ある面で違ったというのは、暗い時代、つまり大正というのは地味な、大正の文化というものが生まれているが、どちらかと言うと、天皇が健康をずっと害しておられたということもあってなんとなく暗い、どちらかと言うと、生き生きとした時代ではなかったという、そして短かったという印象があるわけです。それが大正という流れる言葉の印象からきているような気もしたので、そういうふうに思ったんですが、そういう平成が短く終わってしまったのではなかった。天皇がお元気で、たいへん天皇らしい象徴天皇らしいお仕事をされたということで、短く終わってしまうんじゃないかという予測は違ったというふうに思う。それに、なんとなく暗いという感じではない。色んな自然災害が非常に多い時代だったということは言えるけども、暗い時代ではなかった。その点では違ったと思うんですね。しかし、私がある種の予感を持った個性のある時代では
なかったということは言えるのではないか。特色ある個性ある。つ
まり、後から平成ってどういう時代なんだって振り返った時に、明治は明治、昭和は昭和でこういう時代だったっていうのはずばりと出てくるけども、平成ってどういう時代だったかというと自然災害が多かった時代だという記憶なるんじゃないかと気がするんですね。たしかに、阪神・淡路大震災、東日本大震災、さらには北海道、九州の大震災とか、広島の大雨とか洪水とかそういう自然災害が非常に多かった時代だと言えるだろうと。ただそれを除けるとあまりこういう時代だっていう記憶がしない、そういう時代だったという点では私の予感が当たったんだなと思うんです。つまり個性のある時代ではなかったというふうに思う。
これをさらに突き詰めて考えてみますと、その個性のない時代が不幸だったかというとそうではなかったんだと思うんです。これは天皇陛下がご在位30年の式典のご挨拶の中にも述べられたように、近現代の歴史の中ではなかった戦争のない時代をおくることができた。これは大変なことなんですね。天皇は数か月前には戦争がなく安堵したという気持ちを述べられた。あれはまさに実感だったろうと思うんです。これは考えてみると大変な特色なわけですよ。明治、大正、昭和いずれも戦争が日本人を不幸にし、まわりの人々に災害をもたらしたわけですから。それに比べると戦争がなかったというのは大変なことだったということが言える。しかも私が特色がない、だから平成というのがどういう時代だったか、後から見ると記憶に残らないという理由は一体なんだろうかと考えると、自然災害にあわれた方には大変失礼な話なんですけど、自然災害はごく限られた地域であって、一般の国民はわたしは一口で言って、毎日毎日がいつも通りだった。自然災害にあわれた人を除いてはですね。一
般国民は毎日毎日がいつも通りだった。そういう時代だった。そう
すると、毎日毎日がいつも通りだと、記憶に残らないわけです。いつも同じですから。ところが、ひるがえって考えてみると、いつもどおりということがいかに幸せかということなんですよ。私なんか今でも、警戒警報が鳴り、空襲警報が鳴った戦争中のことを記憶しているわけですよ。当時はあまり、そういうことについて恐怖感とかそういうことはなかったんだけども、やはりこれは大変なことですよね。つまり戦争を経験した者としてはいつも通りというのは大変幸せなんです。まして、どなたも身内が急に病気になったり、亡くなったりする経験をするわけでしょう。突如襲ってくるわけです。そう考えると、平成は自然災害以外特色がない、つまりどういう時代だったか思い出せない時代であったということがいかに幸せな時代だったかということの表れだといま私は強く感じているところなんですよね。そういう意味で言うと、平成というのがいつも通り平らかにして成る、ちょっと流れていくわけですよ。時代の成り行きに流れていくその平成という時代にやはりあった元号だったんだ
なというのが私の総括です。
(記者)今回の懇談会、新たな時代に期待することは。
(西原)自分はそこまで頭が回らないです。前回、文化人の団体の長を選んだっていうのは、ある意味で相当だったという気がするんですね。でも最近はひょっとすると若い人を選ぶかもしれませんね。考えてみると平成を付けた人たちは皆当時60歳以上ぐらいですから。これからの時代に生きる人の代表的な人を入れるという考え方になるかもしれないなと思って。それも1つやり方かなと思うんです。
(記者)なぜ今回、取材に応じてくれたのか。
(西原)次の時代が来るからですね。平成の時代を総括できる時期に来たから、その総括と自分の当時の思いとを比較するようなことができる時期になったからです。平成の真っ盛りにいまの話はしないほうがよかったでしょうね。ですから私はしていない。いまはしてもいいんじゃないかという気がするんです。皆さんのご参考になるならね。平成の真っ盛りにしてしまうと、この時代は違うんじゃないかとかね、そういう感じになって良くないんじゃないですかね。