高齢者ワクチン 7月末で終わる?

「7月末を念頭に、希望するすべての高齢者に」
3回目の緊急事態宣言を出した4月、菅総理大臣はワクチン接種の目標を打ち出した。
接種を担う自治体からは「気合いでできるものではない」という声も聞こえる。
7月31日までの接種は本当に可能なのか。
(稲田清、田村佑輔)

「7月末」の衝撃

4月23日。
総理大臣の菅義偉は、東京や大阪など4都府県に緊急事態宣言を出すことを決めた。
宣言の発出は去年4月、ことし1月に続いて3回目だ。
菅は記者会見で「再び多くの皆さま方にご迷惑をおかけすることになり、心からおわびを申し上げる」と頭を下げた。

そして感染対策の「決め手」と位置づけるワクチン接種で、新たな目標を打ち出したのだ。

「希望する高齢者に7月末を念頭に、各自治体が2回の接種を終えることができるよう、政府を挙げて取り組んでいく」

突然とも言える表明だった。
全国知事会など要路への根回しが行われたのは会見直前の夕方だったという。

果たして目標は達成できるのか。
3600万人の高齢者に2回打ち終えるためには、7200万回の接種が必要だ。
国のシステムに記録されている、この日までの高齢者などへの接種回数は10万1512回。必要な回数の0.14%にとどまっていた。

菅の会見直後から、ワクチン接種で自治体との調整を担う内閣府の担当者のスマホは鳴り続けた。

「できるわけがない」
繰り返し聞こえてきたのは、判で押したように同じことばだった。

政府関係者の1人は、「3回目となる宣言で国民に不便をかけるため、明るい話題を提示したかったのではないか」という見方を示した。

総理周辺は、菅みずからの政治決断だったと明かした。
「反対勢力はいたけど、総理がぶち上げた数字なんだからトップダウンでやっていく」

ワクチン接種の担当大臣である河野太郎は、どう捉えているのか。


「変異株がこれだけ急速に拡大している中、7月末までに重症化の確率の高い高齢者に2回の接種を終わらせるのは『命を守る』という意味から必達だ」

「別に菅総理大臣が言ったからとかではなく、今の現状に鑑みて、やらざるを得ないものだ。『8月、9月までかかる』と言っていては命を守れない」

スピードアップの“ネジ巻き役”

「7月末」を記者会見で打ち出す2日前。
菅は布石を打っていた。

この日、菅は、総理大臣官邸に総務大臣の武田良太を呼んだ。
そしてワクチン接種を担う自治体の支援に万全を期すよう指示した。
全国の自治体に対応する主力を厚生労働省から総務省に切り替えたのだ。

政権幹部の1人は、次のように解説する。
「厚労省は、それほど自治体とのパイプがあるとは言えないが、総務省なら、副知事や副市長など自治体全体を動かせるポストに人を出しているし、市町村長とも日頃からつきあいがある。自治体を動かすなら総務省だ」

菅からの指示を受けた武田は、みずからをトップとする支援本部を総務省に設置。


幹部も含め、連日、自治体に電話をかけ始めた。
接種をスピードアップするため、総務省が“ネジ巻き役”になった。

さらに総理大臣官邸では、菅の懐刀である総理大臣補佐官の和泉洋人をトップに、総務省や厚生労働省の審議官らが連日、会議を開いて情報の共有を図った。

「『7月末までに終わらせる。総務省が自治体の尻をたたき、進捗を管理して、遅れが出たら催促しろ』の繰り返しだ。トップダウンで振り回されて、嫌気がさすね」(政府関係者)

「総務省が助言という名のもとに『7月末までにやれるんだろうな』と迫っているようにも見え、半ば脅しだ」(立憲民主党安住国会対策委員長)

「菅総理大臣のひと言で、日本中が振り回されている。でも、それで接種が早まれば、それでいいんじゃないか」(東日本の市長)

戸惑いや愚痴、それに期待。
トップダウンの判断に対し、さまざまな反応が漏れ聞こえてくる中、接種の加速化に向けた調整は進められていった。

市区町村 1000 ⇨ 1616

政府は全国に1741ある市区町村の進捗状況を確認するため、高齢者向け接種の終了時期の見通しを繰り返し調査した。

「7月末までに終えられる」と回答したのは、4月下旬の時点では、およそ1000にとどまっていた。
それが5月12日に公表された結果では1490と86%に増え、5月21日には1616と93%にのぼった。

ただ、総務省内からは次のような声も。
「総務省に聞かれたら、自治体が前向きに答えてしまう面もある。実態を正確に把握しているとは言えず、本当にやれるのか、丁寧に確認する必要がある」

あの手この手で目標達成

自治体側はどのように目標を達成しようとしているのか。

長野県は、総務省が5月12日に公表した調査では、県内77の市町村のうち9つの自治体が「終了時期が8月以降になる」と回答した。
接種を担う医師や看護師のほか、予約などの事務の要員が足りないことなどが理由だった。

県は市町村会と対応を協議し、8月以降と回答した自治体に医師や看護師などを派遣する方針を示した。
医師などの募集も行うとして、県全体で7月末までに高齢者への接種を終えることで県と市町村会が合意した。

独自の取り組みで円滑に接種を行い、高齢者への接種を6月末までに終えるとする計画をまとめた自治体もある。
福島県相馬市は、予約の電話が殺到するといった混乱を避けるため予約制をとらず、市が、接種を希望する市民の住所ごとに日時を指定。
必要に応じて、会場までの移動手段も提供する。


相馬市長の立谷秀清は、「ワクチンが予定通り供給されることが前提になるが、高齢者だけでなく、市全体での希望者への接種を8月中旬までに終える見通しだ」と胸を張る。

間に合わない自治体は?

一方、7月末までに終えられないとしている自治体には、どういった事情があるのか。
北海道釧路市は、5月上旬の総務省調査で「10月中の予定(検討中)」と回答した。
接種を担う医療従事者が足りないのが主な理由だった。

国からは、7月末までに終えるよう求める「通達」が異例の頻度で届いた。
中には、総務大臣名で出された文書まであったという。


5月に入ると、市長の蝦名大也のもとに総務省の課長から直接催促の電話が入った。
「7月中に完了してほしい。なんとか早める手法はないだろうか」

釧路市で接種対象となる高齢者は、およそ5万8000人。
6月上旬から、基幹病院や特設会場での集団接種と、医療機関での個別接種を併用して行うことにしている。

市内39の医療機関が協力し、1週間におよそ4500回の接種を行い、10月中に終える計画を立てた。しかし7月末までに前倒しするとなると、単純計算で1週間に1万回と、2倍以上の能力をひねり出さなければならない。

市の担当者は、医師会や医療機関に電話をかけ、足を運び、接種回数を上積みできないか重ねて協力を求めたが、色よい返事がもらえないところもあった。

通常診療との両立は?

「大幅に増やすのは難しい」と回答した内科医院では、医師2人で、日々100人以上の患者を診察している。それに加え、月曜から金曜まで1日12人、5日で60人にワクチン接種を行うことにしている。副反応が出た場合に適切に対応できるよう、余裕を持たせておく必要もある。

院長の杉元重治は、地域に密着した「かかりつけ医」として通常診療はおろそかにできないとして、両立させるギリギリの人数だと説明する。


「コロナの収束に向け協力したい気持ちはもちろんあるが、通常診療も大切なので苦渋の判断だ」

「数さえ稼げばいい」という姿勢には、健康を預かるものとして違和感を感じるともいう。

杉元は、日曜日には、市の集団接種会場に赴いて接種に協力することにしている。

“気合いでできるものではない”

釧路市では、粘り強く働きかけた結果、協力する医療機関が39から41に増えた。
これにより1週間の接種回数は、当初の計画から3割近く多い5800回となった。
菅が「7月末」を打ち出してから、およそ1か月後、市長の蝦名は記者会見で、接種が完了する見通しを「10月中」から「9月上旬」に前倒しすると発表した。


今後、歯科医師や、資格を持ちながら職場を離れた「潜在看護師」にも協力を求め、さらなる前倒しを目指すことにしている。

しかし、現時点で大幅に接種回数を増やせる見通しは立っておらず、7月末までの完了は困難だとしている。

国からのプレッシャーもある中、蝦名は嘆いた。
「気合いでできるものではない」

“脇目も振らず走れ”

こうした状況を、どう見ているのか。
担当大臣の河野に尋ねた。

「まずは7月末までに打つための計画を作ってもらわないと作業は進まない。その上で『7月末に終わらせるためには、お医者さんが1日あたり何人足りない』『看護師さんが1日あたり何人足りない』となる。『北海道でまずやってみて、それでも足りなければ国に言ってください』という状況になる」

期限ありきで自治体に無理を迫っているのではないか。そんな批判も出ている。

「『できません、できません』と言ってるんじゃ、できない。みんな、住民の命を守ろうという思いを持っているわけだから、どれだけ実現に向けてプランニングできるか、リソースを割り振れるか、リーダーの強い思いが必要で、マネージメントをしっかりやってもらいたい」

ただ、自治体によって違いは生じている。
命を平等に守っていくため、国は「護送船団方式」をとらないのか。
河野の答えは「NO」だった。

「感染が拡大する中で、とにかく7月末に終わらせて次に行かないと、どうなるか分からない。10月とか9月とか言っている自治体はリーダーの危機感がどうなっているのか問われるんだと思う。徒競走みたいなもので、行ける自治体はどんどん先に行っている。そうしないと変異株には対応できない」

菅が打ち出した「7月末」の目標を、すべての自治体で完了できなかった場合の国の責任を問うてみた。

「7月末は、ひとつの区切りではあるが何かが終わっているわけではない。そこで感慨にふけっているよりも早く現役世代にいって、打ち終わって、そこで、おそらくコロナ全体やこの国のワクチン全体を見直していこうということになる。そこまでは『脇目も振らずに走れ』ということだと思う」

カネを積んででも…

「7月末」を打ち出してから、およそ1か月後。
接種を加速させるため、菅は、河野ら関係閣僚を総理大臣官邸に呼び集め、次の手を打った。
医師や看護師などに加えて、救急救命士や臨床検査技師による接種も認められないか、検討を進めることにした。また、予診や接種後の経過観察などで、薬剤師や診療放射線技師にも協力を求めることとし、接種体制の強化を図る。

さらに接種にあたる医療機関への新たな財政支援を決めた。
支援策をまとめたペーパーには、多く接種すれば支払い額を上積みするとした項目が並んだ。

「7月末までに1週間に100回以上の接種を4週間以上行った場合は2000円を国が支払う接種費用に上乗せ」
「150回以上の場合は3000円を上乗せ」
「1日に50回以上のまとまった規模の接種を行った場合、1日あたり10万円を医療機関に交付し、7月末までに一定の日数以上行えば、医師には1時間あたり7500円、看護師などには2760円を医療機関に交付」

政府高官は、担い手の確保が最大の課題だとして「金を積むことで診療所の協力を得られるなら、しかたない」とつぶやいた。

成否は政権浮沈左右も

政治の世界で、政策実現の期限を設けることは期待感の醸成につながる。
その分、実現できなかった場合は大きなダメージとなって政権に跳ね返る。

政府・与党内には「ワクチン接種が円滑に進めば、東京オリンピック・パラリンピックも、衆議院の解散・総選挙も、抱える問題は、すべて解決する」という声がある。一方で、「強気な見立てを発信し、失望に変わるケースにもなりかねない」と不安視する見方も聞かれる。

菅は、感染対策の切り札と位置づけるワクチン接種で、みずから期限を設けた。
さらに、河野らの慎重論を押し切って1日100万回の接種を目標とすると踏み込んだ。

市区町村が実施している接種に加え、5月24日からは政府が東京と大阪に開設した大規模接種センターなどでも接種が始まっている。

5月24日時点で、国のシステムに記録されている高齢者などへの接種回数は、累計で269万7947回。高齢者に2回打ち終えるために必要な回数の3.7%だ。
まだゴールまでの道のりは長い。

ワクチン接種は、菅の掲げた目標に向けて、順調に進むのか。
そして感染の収束につなげていけるのか。

その成否は政権の浮沈を左右することにもなりそうだ。
(文中敬称略)

政治部記者
稲田 清
2004年入局。与野党や外務・防衛担当を経て、官邸クラブに。
河野大臣の特集執筆は4本目。
釧路局記者
田村 佑輔
2015年入局。静岡局を経て2019年より釧路局。
行政や漁業、地域の新型コロナウイルス対策などを幅広く取材。