ムネオ氏は
地獄”で何を見た

「政界一寸先は闇」
永田町では、政局やスキャンダルで、老壮青を問わず幾多の議員が失脚してきました。
なかでも、ここ最近で、突出した“波乱万丈ぶり”を見せるのが、鈴木宗男元衆議院議員です。鈴木さんは、自民党の有力議員として政界中枢で活動していた平成14年に、あっせん収賄の疑いで逮捕され、権力の座から転落。無罪を主張して法廷で争うも、実刑が確定し、刑務所に収監され、出所後も「公民権停止」で選挙権を失いました。
しかし、4月30日に公民権停止期間が終わり、長いトンネルからようやく抜け出した鈴木さん。その時を待ちわびていたかのように、再び政治に挑戦する意欲を示しました。
15年間の経験はどんなものだったのか。今、何を思うのか。密着取材しました。
(政治部・加藤雄一郎記者)

足かせから解かれた日

4月30日の朝、札幌市の事務所で、鈴木宗男元衆議院議員は、神棚の前でかしわ手を打っていました。この日の午前0時に、5年間続いた公民権停止の期間が終わり、再び選挙権を手にしたのです。

私は事務所を訪ね、心境を聞くと、力強い言葉で語りました。

「新しい気持ちで、国家、国民のために、少しでも汗をかいていきたい。そう思っています。『鈴木宗男』には意地がある。まだまだ、こんな所では死ねませんよ」

立身出世を夢見て

鈴木さんは、昭和23年、北海道足寄町の農家に、次男として生まれました。裕福とは言えない家庭を顧みて、地元の高校卒業後、いったんは炭鉱への就職を決めていましたが、どうしても東京での立身出世に挑みたいと、父親に申し出ます。

父親は、仕事の要である“馬”を売って、なんとかお金を工面してくれ、鈴木さんは東京の大学進学を実現しました。

在学中に、同郷の故・中川一郎元農林水産大臣の秘書になるチャンスをつかむと、持ち前の行動力を生かして頭角をあらわし、卒業後も名物秘書として鳴らし、昭和58年、中川氏の急逝を受けて衆議院選挙に立候補し、初当選を果たしました。

その後も、順調に当選を重ねた鈴木さんは、5期目で迎えた平成9年、橋本政権のもとで北海道開発庁長官として初入閣。

翌年の小渕政権では、野中官房長官の腹心として内閣官房副長官に起用され、絵に描いたような、たたき上げのサクセスストーリーを歩んでいました。

鈴木さんは、当時を次のように振り返ります。

「平成8年に橋本龍太郎先生が、その2年半後に小渕恵三先生が総理大臣になられました。2人とも私が入っていた派閥の実力者でした。平成8年、9年、10年、11年、12年、13年の6年間、『鈴木宗男』は権力のど真ん中にいました。まさに“ブイブイ”言わせていた状況でしたね」

突然の転落劇

順調に出世階段を駆け上がっていくかに見えたやさきの平成14年。
政界の中枢で存在感を発揮するようになっていく一方で、「政治手法が強引だ」などと批判も出始めていた頃でした。突然の転落劇に見舞われます。

国会では、共産党議員から、国後島に建設された施設について、「現地では『ムネオハウス』と呼ばれている」と指摘されました。
また、北海道開発庁長官を務めていた当時、公共工事の受注をめぐって建設会社から賄賂を受け取ったという疑惑も浮上し、国会は紛糾。

鈴木さんは、国会で証人喚問を受け、入札への関与を否定しましたが、その後、第一秘書が逮捕されます。結局、鈴木さん自身も、逮捕許諾請求が議決され、東京地検特捜部に逮捕されました。

まさに、ジェットコースターのような絶頂からの転落。どういう心境だったのか。

「3月に証人喚問を受けて以降は、『鈴木宗男のXデーはいつだ』と連日メディアで騒がれていましたし、私としては、『来るものは、来る』という心構えでいましたから、そこはもう淡々と受け止めましたね」

法廷闘争の末、収監へ

ここから、鈴木さんの長く厳しい道のりが始まります。

鈴木さんは、逮捕・起訴された後も、一貫して、「賄賂は受け取ってない」などと無罪を主張しました。保釈された後も、現職議員として活動を続けながら検察との法廷闘争を繰り広げました。闘いはおよそ8年にも及びました。

「当時は、『雨が降っても、雪が降っても、鈴木宗男が悪い』という風潮でしたね。しかし、私は政治家として、やましいことはしてないという自信と信念がありましたから、絶えず『負けてたまるか』と常に自分に言い聞かせていました」

しかし、逮捕から2年後の平成16年の東京地方裁判所の1審判決と、平成20年の東京高等裁判所の2審判決ともに、懲役2年の実刑判決。
そして、平成22年9月の最高裁判決でも、鈴木さんの主張は全面的に退けられ、有罪が確定し、刑務所に収監されることになりました。

「ただただ、驚きました。というのは、政治家の裁判というのは、だいたい10年は続くんです。それが、急に8年で打ち切られたわけですから、何か大きな力が働いていると受け止めざるをえない。あと2年あれば、自分も、まだ勝負ができると思っていたんですが」

病魔も追い打ち

そんな鈴木さんを、病魔も襲いました。

15か月の拘置所生活を終えた平成15年には胃がんが、そして、平成22年に刑務所への収監が決まった9月には食道がんが見つかりました。
手術によって一命は取りとめたものの、精神的に追い詰められたと言います。

「人生、終わったと思いましたね。なんて世の中、無情なものかと、ただ涙が出ました。『人の倍に感じるぐらいの人生は歩んできた』と、自分を励まそうとしましたが、やっぱり、涙が出ましたね」

食道がんを乗り切って、収監の時を迎えた鈴木さん。前夜に、久しぶりに一家がそろい、食事を共にしました。
家族につらい思いをさせたことを痛感し、今も、このひとときのことが忘れられないと言います。

「長男がね、『ふだん忙しくて集まれない家族が、この事件をきっかけに、集まることができただけでも良しとしよう』と言葉をかけてくれたんですけどね…。当時4歳だった孫が、『これは、ただ事じゃないぞ』という雰囲気を察するんですね。家族が顔を引きつらせた場面を覚えていますね」

刑務所での生活は?

栃木県の刑務所で始まった服役の日々。鈴木さんに任されたのは「衛生係」という務めでした。
平日は朝6時50分、土日祝日は7時半に、ほかの受刑者より早く起床して、朝、昼、晩の食事の配膳、廊下の掃除、洗濯物の収集、それに、病気や高齢の受刑者の入浴の介助などを担当しました。
夕食後は、午後9時に就寝する毎日を送りました。

毎晩のように遅くまで政財界の関係者と会合を重ねていた有力議員としての日々と、「衛生係」という受刑者としての日々。
当初は、その落差を受け入れられず、打ちひしがれる毎日が続き、もう二度と立ち上がれないのではないかという焦りや恐怖感を強く感じていたと言います。

「表現のしようがない落差ですよね。悶々としてましたね。なんで私がここにいなければいけないのかという、納得のいかない思い。我々、政治家は、やっぱり情報が一番。人と会えないわけですから、情報も入ってこない。また、完璧に自由がない。自分が、世の中から取り残されるという恐怖感がありました」

刑務所での転機

現実をなかなか受け入れられない鈴木さんの気持ちを、ある出来事が変えました。東日本大震災です。 6年前の発生直後、ラジオを通じて、甚大な被害が出たことを知りました。 そして、2日後には、刑務所の配慮で、ふだんのように録画したものではない、ニュース番組がテレビで流され、受刑者に被害の様子が伝えられました。

「何とも言いようがない光景で、それを見た瞬間、自分たちだけ安全な場所にいて申し訳ないと思いました。しかも、『自分は何もできない。一日も早く社会に復帰して、復興支援や社会貢献をしなければいけない』と痛感し、それまで続いていた、悶々とした気持ちが吹っ切れましたね」。

これがきっかけとなり、刑務所での過ごし方も少しずつ変化したと言います。
その1つが、徹底した健康管理でした。

「いつか来る社会復帰の日に備え、心身ともに万全な状態を整えたい」

そう考えた鈴木さんは、毎日のスケジュールで与えられている30分の運動時間に、ハードな筋トレをこなし、毎日の食事や運動量をノートに記録し始めました。

「この30分間を目いっぱい使いました。腕立て伏せ200回や腹筋200回をこなしました。それと駆け足です。20分間、駆け足をやるとか。だから、刑務所に入った時と、出た時の体重は変わらなかったんです」

出所後の公民権停止

収監からちょうど1年後、鈴木さんは仮釈放されました。

刑務所の中で誓った、震災復興や社会貢献への取り組み。
鈴木さんは、ほどなく、みずからが代表を務める地域政党「新党大地」に5人の国会議員を加え、国政政党を立ち上げます。しかし、ことはなかなか思うように進みません。それは、5年間、立候補はもちろん、投票も許されない、公民権停止の措置でした。
手足が縛られ、気持ちばかり先行する状態に心を痛める日が続いたと振り返る鈴木さん。

「公民権停止の期間に、政治活動はできるとは言え、選挙活動はできません。選挙が行われても、期間中、街頭でマイクも握れません。情けなかったし、言うに言えぬ気持ちでしたね」

ライフワークで力蓄える

それでも、さまざまな政治課題の研究や人脈の構築などを続けた鈴木さん。

とりわけ、外交問題では、長く親交のある、ロシア情勢に詳しい元外務省主任分析官で現在は作家として活動する佐藤優さんと、平成22年11月から月に1回、ライフワークに位置づける、北方領土問題や日ロ関係の勉強会を行ってきました。

こうした取り組みは、徐々に、明るい兆しをもたらし始めます。

おととし12月に総理大臣官邸で行われた、内閣制度が始まって130年を迎えた記念式典の懇親会。
鈴木さんは、安倍総理大臣から、ロシア問題で話を聞きたいと直接声をかけられました。それ以降、総理大臣官邸などに何度となく呼ばれ、安倍総理大臣と北方領土交渉などをめぐって意見を交わしています。
4月にはロシアを訪問し、ロシア外務省次官や大統領府の高官と会談するなど、存在感を高めつつあります。

鈴木さんは、逮捕・起訴される前の自身について、次のように語りました。

「当時は、前しか見てなかったなと。これは、素直に反省しなきゃいけないと思いました。横を見る、後ろを見る。声なき声を受け止める。それが足りなかったんではないかなと。それが、何となく、『宗男はギラついている』という印象を与え、世の中の反発を受け、事件の元になったんではないかなと、今は感じています」。

一方、佐藤さんは、刑務所での経験が鈴木さんを変えたと言います。

「鈴木さんとは26年のつきあいになります。事件までの鈴木さんは強面で、人をどなるやり方でしたが、どなられた人間に、オリがたまって、反発を呼んでしまうということがわかったんでしょうかね。今は、全然、どならなくなりました。そういう意味では、獄中の経験が鈴木さんを変化させていると思います」

根強い批判も どう向き合う?

公民権停止の期間を終え、選挙権を再び手にした鈴木さん。
その前日4月29日、札幌市で開かれた「新党大地」のセミナーで、再び政界にチャレンジすることへの意欲をにじませました。

「私には、まだやり残したことがある。それは北方領土問題の解決であるし、日ロ両国による平和条約の締結であります。何よりも生を受けたこの北海道を、あすの日本を形作る北海道にする。まだまだ道半ばであり、きたるべきときに、最善の判断をしたい」

こうした鈴木さんの姿勢を有権者はどう受け止めるのか。
札幌市の大通公園で、道行く有権者に、直接聞いてみました。
「北海道の発展に熱心な政治家だから頑張ってほしい」といった期待も聞かれましたが、「有罪判決を受けた人が再び議員になるのは賛成できない」など批判も根強いというのが実感でした。なかでも、女性からの批判が目立ちました。

これを鈴木さんにぶつけると、こう答えました。

「私は今も、自分は無罪だと考えています。当然、再審請求もしています。そうした中でも、現実には、社会的制裁も受け、いわんや、裁判の判決に従い、責任は果たしてきた。そうした人間がカムバックできない世の中は、真の民主主義の社会とは言えないと思うんです」

そして、振り絞るように語りました。

「私は、天国と地獄を経験し、表現しようがないぐらい、異常で波乱万丈な人生経験をしたと思っているんです。社会には、自分の計算どおりにいかず、つらく悲しい思いをしている人がたくさんいます。私は、そうした人たちに、『権力のど真ん中にいた鈴木宗男も、1度地獄に落ちたけれども、また頑張っている。だから負けずに頑張れ。生きていればいいこともあるし、逆転もあるぞ』と、勇気を与えたいんです。自分の姿を見て、1人でも2人でも、『また頑張ろう』という思いを持ってくれたら、日本のための貢献につながるんじゃないかと思っています」

取材後記

鈴木氏と向き合って最も印象に残ったのは、想像を絶する困難な状況でも、折れずに前に進もうとする姿です。
事件をめぐる価値判断抜きに語れば、そのバイタリティーは、取材者としても脱帽のひと言です。
一方で、法律的には、罪を犯したという事実が消えていないのも事実です。
政界で再び活動したいという鈴木さんの意思を、有権者はどう評価するのか。引き続き、注目していきたいと思います。

政治部記者
加藤 雄一郎
平成18年入局。鳥取局、広島局を経て政治部。現在、自民党麻生派を担当。この夏の課題図書は「ジョゼフ・フーシェ」。