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“満州柏崎村”の記憶 証言動画に込められた思い 新潟県柏崎市

  • 2023年08月19日

戦時中などに、農地拡大を目指す国策で全国からおよそ27万人が旧満州、今の中国東北部に渡った「満蒙開拓団」。
このうち、柏崎市から移住した人たちの開拓地は「満州柏崎村」と呼ばれました。

しかし、およそ200人の移住者は、ソ連の侵攻や敗戦による混乱で過酷な生活を強いられ、120人余りが命を落としました。

去年、こうした歴史を伝える動画を新潟県の大学に通っていた学生たちが作りました。
ベースになったのは、日本でただ1人となった体験者の証言です。
動画に込められたそれぞれの思いを取材しました。

(新潟放送局長岡支局 野尻陽菜)

「満州柏崎村」テーマの動画

満州柏崎村で亡くなった人たちのために、柏崎市に建てられた慰霊の塔。
この場所で行われた献花式から始まる15分の動画があります。

新潟県の大学に通っていた学生たちが制作した動画で、テーマは、かつて旧満州にあった開拓地「満州柏崎村」です。
戦時中などに、全国からおよそ27万人が旧満州へ移住した「満蒙開拓団」。
柏崎市でも農地拡大の国策のもと、不況下で仕事を失っていた中小商工業者らに市が積極的に移住を勧め、200人余りが海を渡りました。

動画では、移住にいたるいきさつや開拓地での生活だけでなく、敗戦前後の過酷な生活を伝えています。

「満州柏崎村の記憶 動画に残したい」

 

この動画を作ったメンバーの1人、岸田瑠々さん。
岸田さんは新潟県にある敬和学園大学の映像系のゼミに所属していました。
卒業を前にした4年生の時、「地域をテーマにした動画」というゼミの課題のテーマを探していた時に、「満州柏崎村」の存在を知りました。

岸田瑠々さん
「柏崎市はたまに行くことがあったけど戦争のにおいを感じさせない場所だったので、満州と関係していることを知ったときは驚きました」

自分に身近な地域に残された戦争の歴史を明らかにしたいと思った岸田さん。
しかし、いざ調べようとすると満州柏崎村に関する文献や資料は少なく、困っていたときにゼミの教授の紹介で知り合ったのが、満州柏崎村を体験した巻口弘さんでした。

「満州柏崎村」体験した証言者

柏崎市で暮らしている88歳の巻口さん。
家族と一緒に旧満州に渡ったのは1942年、8歳の時でした。

巻口さんの父親は、柏崎市で着物などの卸問屋を営んでいましたが、当時は着物に使われる金糸ですら供出するよう求められる時代でした。次第に商売が苦しくなる中、開拓団の募集が始まりました。

「満州に行けば地主になれる」。
そんな話を聞いた父親は旧満州に渡ることを決め、巻口さんは同級生たちから見送られ、柏崎市をあとにしました。

敗戦後の混乱、家族を失う

柏崎市から移住した人たちは、開拓地に着くと、慣れない農作業に苦労しながらも開墾を進めていったといいます。
しかし1945年8月、戦況の悪化で、開拓地の男性にも召集命令が届き、巻口さんの父親も戦地へ赴きました。開拓地には、長男だった巻口さんと母親、それに5人の幼いきょうだいが残されました。

その直後、旧ソ連の侵攻と敗戦の混乱のなか、満州柏崎村の日本人も開拓地を離れます。
巻口さんも、母親やきょうだいたちと近くの港町まで逃げますが、日本に帰る船はありませんでした。

母親が当時の心境を書き残した手記には、「何もかも日本から切り離された私たち、どうすることもできません」と記されています。

その後の生活は、極度の食料不足に加え、近くで銃撃戦が起きる死と隣り合わせのものでした。こうした混乱のなか、2人の弟が命を落としました。

巻口弘さん
「当時は食べるものが本当になく、ネズミや猫など、食べられるものは何でも食べましたね。弟に自分が重湯を作ってあげたんだけど、塩も与えてあげられず、栄養が足りなかった。ほかのことは覚えているのに、弟が死んだ時のことはあまり思い出せない。自分の身内が死んだときというのは無我夢中で」

日本に帰れなかった巻口さんたちは中国に残り、暮らすことになります。
その後、母親は現地の中国人と再婚し、巻口さんは農作業や土木作業をしながら家計を助けていました。その巻口さんのもとに国の引き揚げ事業の案内が届いたのは、終戦から8年後でした。
巻口さんは日本に帰ることを選びましたが、この時、母親やほかのきょうだいは帰国を選ばず、家族は離ればなれになりました。

帰国後、巻口さんは、柏崎市に旧満州で亡くなった人をまつる「満州柏崎村の塔」を建てる取り組みに携わり、講演会などで現地での体験を語ってきました。

しかし高齢になり、そうした機会も減る中、みずからの体験を記録として残して後世に引き継ぎたいと思うようになりました。
そうした中で、岸田さんから「満州柏崎村」の動画を作ることを聞き、当時の状況を証言したといいます。

巻口弘さん
「満州での経験を経て思ったのは、戦争は結局は殺し合いだと。人を殺して自分たちを守るものなんだということ。やっぱり悲しいものなんです」

悲惨な歴史、繰り返さないために

戦争と国策で家族を失い、その後の人生も大きく変わってしまった人たちがいる。
そして、そうした事実と記憶が、戦後の長い時間の中で失われつつあるのではないか。
巻口さんの話を聞いた岸田さんは、そう思ったと言います。

「満州柏崎村の塔」の前で 巻口さんと岸田さんたち

時代に翻弄されず、自分の人生を決められる社会であってほしい。
台本作りとナレーションを担当した岸田さんは、過去の悲惨な歴史を知ることで、それを繰り返さない大切さを改めて考えて欲しいという思いを動画に込めました。

(動画のワンシーン)
「(巻口さんは)消えゆく満州柏崎村の記憶を後世に伝えるため、家族と柏崎市、そして私たちに託す。塔は今日もこの場所で日本海の先にある過去を見つめている。私たちは、過去から学ぶことはできているだろうか」

岸田瑠々さん
「知ることで全くのひと事だった戦争が、こういう気持ちをした人がいて、つらい思いをしたことを知ってもらい、自分事として捉えられるようになってほしいです。そうすると、そのために自分たちが何をするべきか考えることにつながるのではないかと思います。まずは知る所から始まると思うので、満州柏崎村のことを覚えていてほしいです」

取材後記

取材のなかで、岸田さんに、巻口さんの証言のなかで印象に残った部分を尋ねました。
すると岸田さんは、「巻口さんが、弟を亡くした時の話でも、避難先での苦しい生活の話でも、『そういう時代だったからしかたがない』と付け加えていたことが印象に残りました」と答えました。
そして、「しかたがないと考えざるを得ない状況を強いられていたところに、戦争の怖さを感じました」と話しました。

私も今回の取材の中で、初めて満州柏崎村とその歴史を知りました。

世界は、ロシアによるウクライナへの侵攻などで、緊迫の度合いを高めています。

戦争の歴史を繰り返さないためには、その記憶を失わないこと、そして、そこで起きた事実を知ることが大切だということを忘れず、私自身も、戦争の歴史を埋もれさせずに伝えていけるように取材を続けていきたいと思いました。

 

  • 野尻陽菜

    新潟放送局 記者

    野尻陽菜

    2020年入局。2022年8月より長岡支局。長岡空襲を伝える語り部の取材など、戦争や原子力発電所などをテーマに取材。

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