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長崎 令和の被爆者証言 木戸季市さん”ウィーンに向けて”

  • 2022年06月14日

令和の被爆者証言 木戸季市さん

「令和の被爆者証言」シリーズの2回目は、日本被団協=日本原水爆被害者団体協議会の事務局長を務める木戸季市さんです。木戸さんは6月21日からオーストリアの首都ウィーンで開かれる核兵器禁止条約の初めての締約国会議への参加を予定しています。ウィーンへの出発を前にした「思い」を聞きました。

NHK長崎放送局 記者 小島萌衣

そうめん配給へ ”まさにピカドン”

木戸さんは1940年、長崎で生まれました。被爆したのは5歳の時、長崎市旭町の自宅前でした。

「被爆したのは2キロメートルのここ」
8月9日の夏の日、そうめんが配給されるという話がありました。食べ物に不自由した当時、そうめんはごちそうです。木戸さんは「久しぶりのごちそうだ」と喜んで、母親とともに自宅を出たところでした。

原爆がさく裂する直前、木戸さんは航空機が飛来するような音を聞いたと言います。

木戸季市さん
「僕は飛行機は見てないんだけど、音はした方を見上げたのよ。その瞬間『ピカドン、まさにピカドン』。ドーンというので爆風で飛ばされた。私は母親に抱かれて稲佐岳の中腹の防空ごうに逃げた」

”みんな無事でよかった”

木戸さんと母親は幸い一命を取りとめましたが、木戸さんは顔の左半分にやけどを負いました。母親は、顔一面と胸にやけどを負い、防空ごうにたどり着いた後、動けなくなりました。その後、運よく父親らほかの家族と防空ごうで合流することができましたが、そのとき、父親が語ったことばが今も忘れられないと言います。

木戸季市さん
「(父親は)ああ、『みんな無事でよかった』と言ったんですよ。(私は)顔にやけどしてるわけでしょ、お袋はもう動けないような状態。それでも、それが『無事』ということばになるわけ。生きていて良かったっていう言い方じゃなくてね。だから、そういう状態になっても生きてるってことを『無事』って表現するということは、その間、何を見てきたのかと」

原爆が投下された翌日、家族は避難先を求めて長崎市内の道ノ尾に移動しました。
当時はどこが爆心地なのか分かりませんでしたが、移動途中に目撃した爆心地周辺は、この世のものとは思えない情景に変わり果てていました。

木戸季市さん
町はとにかく真っ黒、黒いという記憶しか残ってない。爆心地に近づくにつれて死体がゴロゴロしてる。それから『水をくれ』と言う人がいるわけ。どんどんそれが増えていく。こんなことは起こったらいかんと強く思った」

木戸さんは被爆直後のみずからの状況について「非常に運が良かった」と話します。
原爆投下直後、「アメリカの進駐軍に女子どもが狙われて悪さをされる」とのうさわが広がっていました。そのとき木戸さんの家族のもとには、3人の姉も一緒にいました。そこで、5歳の木戸さんと3人の姉は鹿児島の田舎に疎開させることになり、子ども4人だけで鹿児島に向かう汽車に乗りました。
ところが、汽車は長崎から逃げようとする人であふれかえっていました。汽車は全く進まず、このままでは鹿児島に着くまでに、だれかが死んでしまうと考えた4人は、途中で鹿児島行きをあきらめ、長崎に引き返す汽車に乗り換えました。
すると、引き返す汽車の中で、海外から引き揚げてきた海軍の軍医と乗り合わせたのです。木戸さんたち姉妹は、軍医からやけどの薬をもらうことができ、母親と合流。木戸さんはもらった薬を母親と2人で塗りました。この薬のおかげで、2人とも顔のやけどの傷は癒え、痕が残らなかったと言います。

木戸季市さん
「その薬が手に入らなかったら、傷は残っていたかもしれない。被爆した翌日に道ノ尾に疎開したおかげで屋根があって畳のところで寝ることができ、薬も手に入った。恵まれてるでしょう」

”被爆した話をしてはいけない”

その後、木戸さんは高校まで長崎の学校に通いました。
当時「被爆者からは奇形児が生まれる」といった流言が飛び交っていて、被爆者に向けられた視線は冷たいものだったと木戸さんは言います。
中でも、高校時代に聞かされた、長崎県外で働いた経験がある被爆者の女性教員の話には強い衝撃を受けました

木戸季市さん
「その教員に『広島と長崎では話してもいいけれども、よそでは絶対に『被爆した』話をしてはいけない』と言われたわけよ。そのころ原水禁の運動が始まったり、被爆体験を話すというようなそういう時期だったと思うんですけど、(女性教員は)全部縁談はだめになったし、結局結婚できなかったと。とにかくしゃべってはいけないということを言われてね、ものすごい説得力があった

木戸さんは長崎で高校を卒業した後、長崎県外の大学に進学します。卒業後は長崎には戻らず、29歳からは岐阜で日本史などを教える大学教員として働き始めました。
当時の心境について、木戸さんは被爆者運動には積極的に関わろうという気持ちではなかったと言います。

木戸季市さん
「いろいろな人が(被爆者運動を)やっているから(自分は)当面は被爆者問題については何もしなくても許されるだろうと。ただ『あの日』の記憶を話すことができる最後の世代だという感じがあったわけ、大学の時に。だから、いずれ何かをしなければならないときが来るかもしれない。という思いはあった

”自分がやらなければならない”

そんな木戸さんが被爆者運動に参加する転機となったのは1990年、50歳の時でした。
その日、木戸さんが暮らす岐阜県で日本被団協が県と合同で被爆者向けの健康相談会を開きました。当時、岐阜県には全国で唯一、被爆者の相談・援護活動を行う被爆者団体がありませんでした。木戸さんは健康相談会の会場を訪れたところ、被爆者100人以上が詰めかけている様子を目の当たりにしました。そのとき「自分がやらなければならない」と決意を固めたと言います。

木戸季市さん
ああ、何かをしなければならない時が来たということで。そのときは被団協がどういうものであるか具体的には知らずにね。とにかく何かしなければならない時が来たんだからやるしかないと

このときから、木戸さんは被爆者運動に積極的に参加するようになりました。

2009年に開かれた、NPT=核拡散防止条約の準備委員会では自らの被爆体験を語り、核兵器廃絶を訴えました。

木戸季市さん(会議での発言の一部)
「ノーモア・ヒロシマ、ノーモア・ナガサキ、ノーモア・ヒバクシャ、ノーモア・ウォー」

2017年には、木戸さんたちの日本被団協も後押しした核兵器禁止条約が成立しました。そして、木戸さんは6月21日からウィーンで開かれる条約の初めての締約国会議の参加するため、現地を訪れます。

ウィーンへ "核廃絶が唯一の道"

木戸さんはウィーンで77年前の被爆体験と、核兵器の廃絶を国際社会に訴える考えです。

木戸季市さん
「(ウィーンで訴えたいことは)原爆は人間に何をもたらしたかという『あの日』の話を中心にどのように命を奪ったかということが1つ。2つめは、原爆というのはいかに非人道的かということ。(条約は)核兵器廃絶が唯一の道だと言ってるし、その方向に一歩でも進めれば

取材後記

木戸さんが語ってくれた被爆体験は生々しく、とくに被爆直後に父親が傷ついた家族を見て「無事でよかった」と話したことにはインタビューをしながら、強い衝撃を受けました。被爆者が「あの日」見た情景は、戦後生まれの私には想像を絶する情景なのだと感じました。
木戸さんは、惨状をもたらした核兵器を全面的に禁止する初めての国際条約、核兵器禁止条約の締約国会議に参加するため、ウィーンに発ちました。現地では、締約国会議の前に開かれる「核兵器の非人道性に関する国際会議」では、政府代表団の一員として出席するほか、若者向けのイベントに招かれ、被爆体験や核兵器廃絶の思いを話すことになっています。
被爆者の高齢化が進み「被爆者なき時代」が目前に迫る中、被爆者はウィーンで何を訴えるのか。被爆者の訴えは世界の人々にどのように受け止められるのだろうか。さらに取材していきたいと思います。

  • 小島萌衣

    NHK長崎放送局 記者

    小島萌衣

    平成27年入局 沖縄局、佐世保支局を経て
     現在は長崎局で 原爆・平和関連の取材担当

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