鹿児島が生んだ政治家 山中貞則 知られざる剛腕の真実~後編~
- 2023年05月02日
曽於市末吉町出身の政治家、山中貞則。前編では地元の畜産を守るため剛腕の陰で繰り広げたしたたかな戦いや、沖縄の犠牲を胸に刻み、その発展に生涯を捧げた姿を振り返りました。いまの時代、山中はどう評価できるのか。専門家や関係者に話を聞きました。
(鹿児島局記者 松尾誠悟・小林育大)
勉強家だった“族議員”山中貞則
アメリカの牛肉がいずれ入ってくることは避けられないとわかりつつ、その先の対策を練っていたしたたかさ。言いかえると、中長期的なビジョンを持って、将来の地元の利益につながるように取り組んできたということで、いわゆる“族議員”として本領を発揮したエピソードともいえます。
族議員とは、特定の政策分野に精通し、特定の業界の意見を聞くような、いわば代弁者のような議員のことです。利権が生まれ、汚職の温床につながるとして、問題視されるようになりました。ただ実は、このような政治姿勢が、今の政治に教訓を得られるものになっていると、指摘する専門家もいます。
戦後政治史を専門とする東京大学先端科学技術研究センターの牧原出教授は、山中について「勉強家だった」と話します。
山中は少年時代からリーダーシップを発揮するような人だったわけです。それだったら、山中はただの院外団というか、腕力だけの議員だったと思うのですが、まったくそうではないんですよね。彼は勉強家なんですよね。
最初に鹿児島県議会の議員になったときには決算委員会の委員長報告書を自分で書くと。財政の勉強をしっかりする。国会議員になったあとも財政・税制を勉強するんですよね。法案作成でもよく役所に尋ねたり、自民党としてはこういう考えなんだぞと強く役所に言いに行ったり、押し引きもあります。いわば、胆力と交渉能力と政策力に優れていたというのが山中の特長ですね。
いまなおモデルになる政治家
さらに牧原教授は、山中がいまなおモデルになる政治家だと話します。
こういうタイプの政治家はいまでも私は必要だと思うんですよね。たしかに、山中が活躍した時代は首相官邸が大きくない。官邸がいろんなことをできる力がいまのようにないから、その部分を党が引き受けるということはありました。それが族議員が非常に活躍したということでもあるのですが、じゃあ官邸ですべてのことができるかというと、案外、官邸っていろんなことをやり過ぎてできないんですよね。
与党の役割というのがやや最近、官邸主導とか官邸1強というなかで軽視されている部分があるんですけども、もちろん官邸主導でできる部分はあるんですけど、全部が全部そうじゃないんですよね。
政権が長くなればなるほど、党の利害調整の役割が増えてくるわけです。官邸主導はこうなってくると、そこは党に任せてとならざるをえない。日本は政権交代を終えて10何年も経つということがこれまでなかったんですね。その状態の中で、官邸が自分の役割を果たしながら、任せるべきところは党とか各省に任せていくことが必要な段階にきていますね。
力量がある人がさまざまな方に目配りしながら多角的に政策を立案したり、法案をつくったりすることができる。そういう人材はこれから与野党もですね、かなりほんとに分厚く必要になっていくと思います。
山中はなぜ沖縄を愛したか
2人目は、山中を政治の師として仕えてきた下地幹郎さんです。自身、沖縄選出の衆議院議員でもあった下地さんは、初当選のときに山中から次のように言葉をかけられたと振り返ります。
最初に言われたことばは「沖縄を愛せ」でした。山中先生は「国を愛せ」と言わずに「沖縄を愛せ」と言った。ここには大きな山中先生の哲学みたいなものがおありになったと思うんですよね。沖縄がよくなれば、日本はよくなる。そういう風な思いを持たれていたんです。
山中先生の心の中には、沖縄戦で沖縄県民が20万人近い尊い命を亡くしながらアメリカ軍と壮絶な戦いをしたことで、結果的にその後に計画されていたアメリカ軍の鹿児島上陸が行われなかった。鹿児島はそれで助けられたんだという思いがあるんですね。
その前の思いは薩摩と琉球の歴史があって、薩摩が侵攻後に琉球へ課した十五カ条という非常に厳しい掟みたいなものがあって、薩摩が江戸幕府と明治維新をつくる段階において、イギリスから大砲を買うためなどの財源は琉球でつくられたと言われていますよね。そういう風な薩摩と琉球の関係、鹿児島に米軍が上陸できないほど壮絶に戦ったという気持ち、屋良朝苗との出会いというさまざまな要因があって、沖縄に対する愛情があったのだと思います。
いまの政治家にはない
下地さんは、山中の沖縄へ向き合い方は、いまの政治家にはないものだとも話します。
山中先生は沖縄と駆け引きしないんですよ。沖縄の政治を尊重する。沖縄県民が選んだ人を尊重する。だから自分たちと違う勢力が選ばれたからといって、予算をカットするとか、制度を変えるとか、そういうことはいっさいやらず、沖縄の政治を尊重するということを哲学としておやりになっていたと思います。
基地問題においても、基地と振興予算を絶対にリンクさせませんでした。基地問題は基地問題で解決させる。そして経済政策や振興策は振興策でやると。2つの思いがあられたわけなんですよね。それはなぜかというと、全国の国民のなかには誤解しているところがあって、沖縄は経済が成り立たないから基地をみずから受け入れて沖縄振興策をやっていると思われているところもありますし、実際にそういう政策も存在しています。
しかし、国の制度がなくなって沖縄の経済がしっかり自立できると、沖縄県が基地問題に対してももっと率直にものが言えるし決断ができる。ああこの基地は解決してもらいたいなと思っていたとしても、これと経済がリンクしているからちょっと我慢してもらおうかと、これは現実的にはあるんですよ。そういう風なものがなくなるんですね。沖縄が成長すればおのずと沖縄の基地問題が解決すると、山中先生は十二分に理解なされていたと思いますね。
政治が自分の意見だけ通そうと思うのは楽なんですよ。だけれども、その人の話を聞いて、自分も妥協しながらそれでいて物事を解決していく。そういうことのできる保守だったんですね。あらゆることについて、弱い立場の人たちのことを考えた結論を導き出していくという、強いタカですよ。強引そうで、一番人の話を聞く人が山中先生。一番怖そうで、一番涙もろいのが山中先生。両局面をもった政治家だったと思います。
魚よりも釣り具を
そして、最後は山中が名誉県民となったときの沖縄県知事、稲嶺惠一さんです。山中の思いを受けて、沖縄が自立へ向かうための決意を話してくれました。
山中先生が一番喜んでくれたのは「魚よりも釣り具をくれ」、つまり補助金ではなく、制度をください、自分の力で立ちたいんだと言ったら非常に喜ばれてね。「俺はそれを待っていた。今までいろいろと要望がくるけど、自分で立ちたいから魚じゃなくて釣り具をくれと言ったのは、お前が初めてだ」とだいぶ喜んでおられました。
100点満点ではないですけど、沖縄側としてもいろいろな形でチャレンジして、コロナの前はいろんな、例えば観光とか情報で、伸びている部分があるわけです。そういった意味では、山中先生が考えておられた沖縄に、全面的にとはいいませんけど、ある程度は報えるような状況に進んでいたと思います。これからもう一度、沖縄側としては仕切り直しをして、その方向に進んでいく可能性はあると思いますね。
1つの東南アジア、1つの東アジア、この結びつきを拠点として大きく発展する。地域性を生かしながら、過去の歴史を考慮しながら、生かして発展していくこと。これが山中先生に対する一番の報いだと思います。沖縄全体でもって山中先生の遺志を無にしないように頑張っていきたいと思いますし、頑張っていけるように努力したいと思います。