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鹿児島が生んだ政治家 山中貞則 知られざる剛腕の真実~前編~

  • 2023年05月01日
山中貞則(1921~2004)

曽於市末吉町出身の政治家、山中貞則。消費税の生みの親で「税の神様」とも呼ばれています。その剛腕で名をはせましたが、新たに見つかった資料で、時代のうねりの中、外国の圧力に苦闘する姿も見えてきました。山中の実像に前編・後編の2回にわたって迫ります(後編はコチラ)。

(鹿児島局記者 松尾誠悟・小林育大)

“剛腕”山中貞則の素顔は

山中の自宅はいま「山中貞則顕彰館」として改装され、さまざまな資料が展示されています。

中に入って、まず目にとまるのは「国士無双」と書かれた書です。「国に2人といない秀でた人物」という意味です。

元秘書 中村和浩さん

山中先生の大好きな言葉です。沖縄の宮古島の書家にお願いしたものなのですが、日本の政治家の中で、政策は誰にも負けないという気持ち、特に日本の税制、沖縄の問題、また、農業とりわけ畜産に関しては、その当時も、山中先生の右に出る方はいなかったわけですので、やはり「国士無双」の心構えで政治に取り組んでおられたということなんだと思います。

元秘書の中村さんは、山中は政治家として2つの哲学を持っていたと話します。

1つは、政治は最高の道徳でなくてはならないということ。そしてもう1つは、政治は弱い立場の人に光を当てなくてはならないということです。

道徳面では、私利私欲のない、大変清潔な政治家でした。そして、弱い立場の人に対しては、地方が良くならないと日本が良くならないという考え、信念を持っていらっしゃいましたので、地方のことを一生懸命、いろいろ政策をつくり、やってこられました。特に農業問題、とりわけ畜産に関してはやはり、この地域は疲弊した農家が多かったわけですので、そういった意味では、農家の背骨になる産業なんだということで、肉用牛を含めて、畜産の導入にはすごく力を入れられていました。

秘蔵資料から見えてきた新たな姿

鹿児島が自立するため、とりわけ畜産に力を入れていた政治家、山中貞則。今回、私たちは、山中が残した資料が眠る倉庫の取材を特別に許されました。

資料を確認する松尾記者

うずたかく積まれた段ボール箱に入った、外交にかかわる機密文書などの資料。その中に、剛腕で知られたイメージからかけ離れた行動も記録されていました。1978年にアメリカの議員団が畜産の視察にきたときの資料です。

すでに当選9回のベテラン議員だった山中は、地元大隅の畜産現場にアメリカの下院議員ら9人を招き、みずから案内して回っていました。さらに議員団を自宅にも招待し、母アキノさんにも同席してもらいながら、すき焼きと焼酎でもてなしました。

自宅に招きすき焼きと焼酎でもてなす

「先生自身が矢面に立って一生懸命戦っていらっしゃいました」と元秘書の中村さんが振り返る、この視察の狙いは何だったのか。

当時、日本は、牛肉の輸入自由化を迫るアメリカと、交渉を始めたばかり。アメリカは貿易赤字を背景に、市場開放への要求を強めていました。その対立のさなかに視察したのは、全国でもトップレベルの農場でした。視察現場で牛を引いた、柳谷正光さんに話を聞きました。

視察現場で牛を引いた柳谷正光さん

それでもこれぐらいの規模なんだと。だから輸入してもらうと困ると。零細な規模で家族でやっているんだというその実態をつぶさに見てもらって自由化には反対という声を大きくされたと思うんです。他の家畜の餌を含めて、飼料は全部アメリカから買っているわけですから、牛肉までも入ってきたら困ると、つぶれてしまうということで、一生懸命だったと思うんですよね。

山中は、自由化すれば日本の農家が立ちゆかなくなると、情に訴えていたのです。

大隅半島の発展に光が

山中はなぜ、地元の畜産を懸命に守ろうとしたのか。

2003年の演説

大隅半島の田舎に住んでいても日本人として受けるべき立場、喜び、そういうものは、東京、大阪と変わりないものを要求する。これが政治であります。

山中の生前のことばです。

大隅半島は、シラス台地で農業に適さず、経済発展も遅れていました。そうした苦境を打開しようと山中が取り組んだのが、畜産の振興でした。

山中は畜産の振興に取り組んだ

昭和30年代、家畜は生きたまま都市部の市場まで鉄道で出荷していました。輸送中に死んだり衰弱したりして商品価値が下がり、畜産農家の所得も安定しませんでした。そこで山中が政府に積極的に働きかけて、産地で食肉加工を行う日本初の工場を誘致。

いまナンチク本社となっているこの工場が完成し、生産から流通まで一貫して行うことで生産性が向上。農家の所得も安定し、大隅半島の発展にも光が差そうとしていました。

ナンチク元取締役 諸留貢さん

ナンチク元取締役の諸留貢さんは「安心して自分たちは生産そのものに専念できたということですよね。「畜産で鹿児島、宮崎、南九州を盛り上げていこう。鹿児島が日本の一大畜産基地になるんだからね」と山中先生は話していました」と振り返ります。

輸入自由化圧力で深まる苦悩

そうした中で強まった牛肉輸入自由化の圧力。取材を進めると、当時の山中の苦悩が見えてきました。

自由民主党元職員 吉田修さん

自民党で長年、政策調査会の農林分野を担当してきた吉田修さんは、1978年のアメリカの議員団の視察にも同行。日米交渉が行われていた当時、山中を間近で見ていました。

交渉には外務省や通産省など、さまざまな省庁が関与します。政府も一枚岩ではなく、山中は厳しい局面に立たされていたといいます。

吉田修さん

やっぱり外交交渉というのはね、外務省も入るし、それから通産省も入るし、農林省は孤軍奮闘な状況になるんです。それを支えるというのが政治家の仕事なわけでしょ。やっと南九州を中心に和牛という畜産がですね、いまこうやって地に着いてきたというところだから、この畜産をね、輸入自由化によって、衰退させるわけにはいかないんだよと。

山中は自民党の畜産振興議員連盟会長として自由化に反対するよう総理大臣などへ繰り返し要請しました。しかし、アメリカは最終的に国際機関に提訴。10年に及ぶ交渉の末、日本側は自由化を余儀なくされました。

山中が繰り広げたしたたかな戦い

ただ山中は、アメリカの圧力に一方的に屈したわけではないと吉田さんは言います。

吉田修さん

いずれにしても市場開放という問題からは避けられないとしたら時間を稼いだということ。それで日本の畜産農業の構造を変えていく時間というものを、やはり取りたかったわけですよ。

輸入自由化を見越して、次善の策も打っていました。

農林水産省元職員の西山信雄さんは、山中の号令のもと、省内では農家の所得補償対策が練られていたと振り返ります。そして山中みずからも大蔵省と折衝し、農家の所得安定のための財源を確保させていました。

農林水産省元職員 西山信雄さん

役所は知恵を出せと、金は俺が出すということを常々言っていらっしゃいましたから。5年、10年、20年先に、ちゃんとそれが生きるような各種施策をですね、講じてくれと。自由化になってもこういう制度があるから生きれる、あの制度が創設されて、当時の肥育農家は生き残ったと私は確信していますね。

この間、日本の畜産は着実に変革を遂げてきました。小規模零細から規模拡大へ。海外の安い牛肉と差別化するため牛たち高品質化も進みました。輸出が拡大し、いまや世界に知られる存在となった「WAGYU」。その背景には、山中の剛腕と、その陰で繰り広げたしたたかな戦いがあったのです。

沖縄県民斯ク戦ヘリ

そして、山中がもっとも力を入れたのが、沖縄の問題でした。

沖縄本島南部にある豊見城市。丘の中腹に掘られた海軍司令部壕からは2900通の電報が打たれています。昭和20年6月6日。この司令部から、本土に向け、沖縄戦の実情を伝える電報が打たれました。

伝えられたのは、県民の4人に1人が犠牲になった沖縄の惨状でした。

若い女性が、負傷兵の看護、炊事、資料火炎放射砲弾運びまで志願

老人、子ども、女性が、資料爆破爆撃の下でさまよい、資料米軍兵士草木の一本さえ残らない焦土と化す

そして最後は、こう結ばれていました。

沖縄県民斯ク戦ヘリ県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ

山中はこの電報を胸に、本土の捨て石となった沖縄に生涯をかけて向き合おうとしたのです。

集団自決が起きた座間味島の平和之塔で頭を下げる

手腕発揮は本土復帰前から

およそ30年にわたって山中と親交のあった安里文雄さんは、山中の沖縄にかける思いにはただならぬものがあったといいます。

左:安里文雄さん 右:山中貞則
安里文雄さん

俺がやれることは何だろうっていうことを絶えず意識されていたと思います。どんな小さいことでもね、全部とりあげててね、この先生、小さいことから大きいのも全部こなした人なんです。

山中の手腕は、1972年に沖縄が本土へ復帰する前から発揮されました。アメリカ軍が、1万トンを超える毒ガスを極秘に貯蔵していたことが判明。暮らしが脅かされる事態に、県民は猛烈に反発しました。

毒ガスを撤去するには、アメリカ軍が搬出するための新たなルートの建設が必要でした。当時の琉球政府のトップ、屋良朝苗は多額の建設費用の負担をアメリカ側に求めたものの拒否され、頭を悩ませていました。

屋良朝苗と握手する山中貞則

そこで屋良が頼ったのが、戦前、台湾の師範学校で共に過ごした山中でした。屋良の日誌には、山中が「強力な政治力を発揮」し費用はすべて日本政府が負担することになったと記されています。今では、政府が初めから費用の肩代わりを計画していたことをうかがわせる文書が明らかになっています。しかし屋良は当時、毒ガスを撤去できたのは、山中の「英断」によってだと記しました。

いつまでも人が住んで幸せに

沖縄の本土復帰後、初代沖縄開発庁長官となった山中は、振興策を次々と打ち出しました。沖縄のために作り替えた法律は、実に683本に上ります。

沖縄の象徴、首里城の復元を推進。数々の功績から、沖縄市の道路は「やまなか通り」と名付けられています。

そして、山中の目配りは、隅々の離島にまで及びました。沖縄本島からフェリーでおよそ1時間半の伊平屋島です。

島を見守るように山中の胸像が建てられているこの村で残した最大の功績は、隣の野甫島との間に橋を架けたことでした。橋はとりわけ、野甫島の住民にとって悲願だったと言います。かつて2つの島を行き来する手段は、木造の小さな渡し船だけ。荷物や郵便物、それに野甫島のこどもたちが給食で食べるパンも、この船で運んでいたからです。

野甫島で生まれ育った前田純一さんは「こっちから行く人も向こうから来る人もはしけに乗った。1日に何便と限ってでしたから、昔は潮が引いたら船が出せないで、そのまま止まった時もありました」と振り返ります。

伊平屋島と野甫島を結ぶ野甫大橋

橋の開通の日に招かれた山中。2つの島の住民とともに、喜びを表す「カチャーシー」を踊りました。伊平屋村元村長の西銘真助さんはそのとき、島に広がった笑顔が忘れられないといいます。

西銘真助さん

苦しかったことが一気に解決されて明るい希望が見えてくるわけです。いつまでも人が住んで幸せで残ってほしいなと。そういうことが、先生が望んだことじゃないかなと思っていますね。

沖縄県で初めての名誉県民に

山中の姿勢は、沖縄と本土の関係が険しくなる中でも、変わることはありませんでした。

1995年、アメリカ兵による少女暴行事件をきっかけに基地への反対運動が拡大。翌年、日米両政府は、普天間基地の移設で合意しますが、移設先をめぐり政府と沖縄県の対立が激化しました。

山中の墓に手を合わせる下地幹郎さん

山中を政治の師として間近で仕えてきた元衆議院議員の下地幹郎さんは、山中は、自民党の重鎮でありながら、保守と革新の対立から一線を画して沖縄の振興を進めたと話します。

下地幹郎さん

どちらかの勢力に加担するというのを決してよしとはしなかった。自民党の候補者を応援するためにマイクを持つということはなかったと思う。選挙でどっちの候補が選ばれたとしても、沖縄の未来については考えようなっていうそういうふうな姿勢が、山中先生だったんじゃないかと思いますね。

沖縄の犠牲を胸に刻み、その発展に生涯を捧げた山中。生前の功績が称えられ、沖縄県で初めての「名誉県民」となりました。

後編へ続く)

  • 松尾誠悟

    NHK鹿児島放送局 記者

    松尾誠悟

    2020年入局。災害担当のかたわらスポーツや医療など幅広く担当。大学時代は学生記者でアメフトなど8つのスポーツを取材してきた。ギョーザとビールを愛する25歳。

  • 小林育大

    NHK鹿児島放送局 記者

    小林育大

    沖縄局、社会部、ネットワーク報道部を経て鹿児島に赴任。温泉や釣りを楽しみつつ 子育てに奮闘中です。

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