「水俣の教訓を後生に」没後10年 原田正純さんが託した思い
- 2022年06月29日
「公害の原点」と言われる水俣病。水俣病研究の第一人者として、患者の救済に半生をささげたのが、鹿児島県出身の医師、原田正純さんです。原田さんが亡くなってから6月11日で10年となります。亡くなる直前まで患者の診察にあたり、「水俣の教訓を後世に生かさなければならない」と訴えてきた原田さん。今に生きる私たちに託した思いとは何なのか。取材しました。
(熊本局 西村雄介 鹿児島局 西崎奈央)
弱者側に立った医師・原田正純とは
医師・原田正純さん
「弱い人をね、いじめていく社会というのは、私は成熟した近代国家じゃないと。水俣病というのは、そういうのを非常に残酷に映して見せてくれたんじゃないかと思うんですね」
医師の原田正純さんが生前、NHKのインタビューに残した言葉です。昭和9年に鹿児島県に生まれ、およそ50年にわたって、水俣病の患者の診察と研究を続けました。
昭和31年に公式確認された水俣病。化学メーカー・チッソの水銀による海の汚染は、熊本だけでなく鹿児島県にも及びます。
医学部の大学院生だった原田さんは、調査チームの一員として水俣を訪れ、多くの人たちを診察しました。健康な体を奪われただけでなく、周囲からの差別や偏見にさらされた人たちの苦しみを目の当たりにしました。
「病気と言うよりも、人間が作った犯罪、殺人。自身に対して、病気とはなんだ、それに対して、われわれは何をすればいいのかという厳しい問題を突きつけてきた」
原田正純さんが残した功績
17年前、原田さんが設立した熊本学園大学の「水俣学研究センター」に原田さんの患者への向き合い方がうかがえる資料が残されています。
残されていたのは、症状や生活歴をほかの医師とともに細かく聞き取った膨大なカルテ、そして、みずからが証言した裁判の記録です。
センター長の花田昌宣さんは熊本大学を退官した原田さんを招き、センターの設立にたずさわりました。
熊本学園大学 水俣学研究センター 花田昌宣センター長
「1個1個が、原田正純さんの足跡を示している資料です。水俣病の事件史と、原田先生の足跡は切っても切り離せません」
中には、これまで公開されてこなかった貴重なフィルムも残されていました。病院ではなく、患者の家を一軒一軒訪ねて診察する原田さん。
映像からは、診察室ではわからない、症状が生活に及ぼす影響に目を向けていたことが分かります。
「敷物、畳がひいてありますけど、歩くのを見てると、畳のへりでつまずいたりするんですよ。そういう日常生活の支障をとらえていくというのは、やっぱり医者のすることだろうと」
さらに、症状や出生地、食生活などを総合的に分析。「母親の胎盤は毒物を通さない」という医学の定説を覆し「胎児性患者」の存在を発表。見落としかねなかった被害の広がりを世界で初めて明らかにしました。
「胎児性水俣病は、小児まひが多発しただけの話だということで片づけられてしまって、医学統計上は、ちょっと変わった地区かなというぐらいで終わっていたかもしれない」
一方で「患者に寄りすぎている」などと学内から批判も受けてきた原田さん。それでも、一貫して患者の側に立ち続けました。
「医者が患者の側に立たなければ、誰が患者の理解をしてくれるんだと。被害者に寄り添うことが、つまり力のある人たちから離れることが中立だと原田さんは言っていました」
「寄り添う」姿勢を見つめた教え子
原田さんの思いを継いで、患者のもとに通い続ける教え子がいます。センターの研究員、田㞍雅美さんです。
大学の講義で行われた水俣でのフィールドワークで、原田さんと出会った田㞍さん。現地で当事者の声を聞き、浮かび上がった課題を社会に伝えるよう教わったと言います。
熊本学園大学 水俣学研究センター研究員 田㞍雅美さん
「仏様みたいな優しいお顔の人だったので、これがあの水俣病の本を書かれた原田正純さんなんだっていうふうに思ったのが第1印象です。
原田先生が最初に水俣に来たときに『見てしまった者の責任』と言われましたけど、やはり最後まで何らかの形で関わっていこうと思っていた」
田㞍さんは、公式確認のきっかけとなった患者、田中実子さんの元に通い続けています。
原田さんは、2歳で発病して、60年以上、体の自由を奪われた実子さんのことを、亡くなる直前に寄せた原稿でも気にかけていました。
2012年5月11日に熊本日日新聞に掲載された寄稿には「公式確認の契機となった第1号患者がひっそりと生き続けていることを何人が意識しているだろうか。問題は忘却されている」と記されています。
時間がたってから症状が悪化し、日常生活への支障が大きくなることもある水俣病。田㞍さんは、患者が望む生活の実現に向けた研究を続けています。
「原田先生が言われていたのは、もちろん未認定の方もそうだけど認定された方も苦しんでいる。認定されたから解決じゃないってことは伝えたいですね。
そこから先がね、本当はまだまだね、何十年ってあるのにね。家族だけが苦労してね」
遺志継いで、水俣病を伝え続ける
現場に足を運び続けてきた原田さんが提唱したのが「水俣学」でした。過ちを繰り返さないためにはどうすればよいのか。患者や家族の声に専門分野の垣根を越えて耳を傾けました。
“文明の病”と呼ばれた水俣病から、現代社会を生きる人たちへの道しるべを示したい。田㞍さんたちは、原田さんが亡くなったあとも「水俣学」の講義を続けています。
「他のもの、沖縄の問題であるとか戦争の問題であるとか、福島の問題であるとかの見方に通じる。最終的にはそれぞれが生きるときの物事の見方とか、判断するとき、考えるとき、自分がどう行動していくんだろうと迷ったときに、役立つものになったらいいなって思います」
水俣病を「負の遺産」だけで終わらせていないか。原田さんが残した言葉は、今も、私たちに問いかけ続けています。
原田正純さん
「してはいけなかったこと、間違っていたこと、それをね、発信しないと何の教訓にもならないですね。閉じ込めさせない、むしろ水俣病は一地方の問題じゃないんだよというね、広げていく作業。いうなれば“水俣学”とはそれかもしれないね。だから決してこれは水俣地方に起こった気の毒な特別な事件じゃない」
終わらない水俣病
水俣病は公式確認から66年となりましたが、患者として認めてほしいと申請をする人はいまも絶えません。ことし5月末現在で熊本県・鹿児島県あわせて1400人以上が申請をしていますが、国の厳しい認定基準に基づいて審査が行われ、ほとんどが棄却されています。
過去10年の申請者で患者と認められたのはわずか11人で全体の1%以下、被害の拡大を防止しなかった責任がある国が設けた基準について、妥当性を問う声もあがっています。患者の掘り起こしを行えば補償をしなければならないと行政は調査を怠り、今なお被害の全体像がつかめていません。
特に、原田さんがその存在を明らかにした胎児性患者と同じ世代の人たちのどれだけが被害を受けたかのデータはほとんどありません。行政が積極的に潜在的な被害を捉えようとしないために、被害を受けたという人がみずから手をあげて、症状と水銀の因果関係を証明しなければなりません。
こうしたなか胎児性患者と同じ世代の熊本県や鹿児島県の60代の男女、あわせて7人が裁判を続けていますが、ことし3月の熊本地方裁判所の判決では全員の訴えが退けられ、司法の判断にも翻弄されている現状です。
水銀の被害がどの範囲まで広がっているのか、母親の胎内で水銀の影響を受けた人がどれだけいるのか、行政、原因企業・チッソが真摯に全体像の解明に取り組み、謝罪と償いをしなければ、水俣病に終わりはありません。
取材を終えて
鹿児島放送局・西崎奈央
原田さんが残した「水俣病は一地方の問題じゃない」という言葉を聞き、水俣病に関して鹿児島から取材できることは限られているのではないかとこれまで思っていた自分を省みました。「水俣病は世界を映し出す鏡」ともいった原田正純さん。今、社会で起きている多くの問題において、様々な立場からの正義を突きつけられた時に、私たちが思いを寄せて考えなければいけないのは誰なのか。原田さんの「中立」への考えを、記者として大切にして取材を続けていきたいと思います。
熊本放送局・西村雄介
ちょうど1年前の21年6月。水俣湾に向かって患者たちがバラを投げ込む姿を目にしました。
話を聞いてみると、原田さんのお骨は水俣湾に散骨され、毎年、命日にあわせて、好きだったバラを献花するということでした。
亡くなった2年後にNHKに入局した私は、原田さんに会ったことがありませんが、その光景は、原田さんがいかに患者と向き合い続けたか、感じるに足るものでした。その日以来、交流のあった人たちに、原田さんとの思い出や、心に残っている言葉を聞いてまわりました。共通していたのは、常に笑顔で、被害を受けた人に寄り添った原田さんの姿でした。「怒ったところを見たことがありますか?」という質問には、みな「見たことがない」と答えた一方で、国や県、チッソに対しては、厳しい口調をみせていたといいます。
「中立」の考えは、医師だけでなく、私たちジャーナリスト、そして、あらゆる立場の人にあてはまります。10年、そして、これから何年たっても消えることのない原田さんの志が、この節目に1人でも多くの人に伝わることを、強く願います。