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Road to Rio特別編 ~パラリンピック、かかわる人々。Vol.5 写真家・越智貴雄さん~

2016年06月22日(水)

NHKではリオデジャネイロパラリンピックに向け、たくさんの情報を発信していきます。その際に、「識者が見てきた、“パラリンピックの面白さ”を伝えていかなくてはいけない!」と、半年以上前から強く主張していた某プロデューサーが・・・。準備を重ね、ようやくこの時を迎えることができました。今回、10年以上パラリンピックに夢中になっているお二人のメッセージを、6月24日から9月19日のリオ大会最終日までお伝えします。

一人は、2014年のソチパラリンピックで開会式の生中継の解説や、コラムを記載いただいていた宮崎恵理さん。
もう一人は、2015年のドーハ障害者陸上・世界選手権やバリバラでもご紹介させていただいた、写真家の越智貴雄さんです。

連載を始める前に、越智貴雄さんの“パラリンピックのかかわりかた”についてお話を伺いました。


成功の裏に一つ残る“引っかかり”。


アスリートの魅力的な一瞬を切り取り続けてきた写真家の越智貴雄さんがパラリンピックにかかわり始めたのは、2000年のシドニー大会でした。もともと芸術系の大学で、風景写真に取り組んでいた越智さん。大学のゼミで先生に「オリンピックはいいぞ!」と何度も言われ、休学してシドニーに渡ります。その時、オリンピックの写真を持ち込んでいた新聞社の方から「パラリンピックもやらない?」と誘われます。喜んで引き受けたものの、“障害のある人”と接することがほぼ初めてのため、イメージが湧かず、カメラをどのように向けて良いか悩む日々でした。しかし、ある出来事がきっかけで距離が縮まっていくことになります。

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シドニーで、最初に僕が見たのは、車いすバスケットボールの練習だったんです。…びっくりしましたね。「何だ、この動きは」って。僕の中での車いすのイメージは、1回足を骨折して入院した時の感じだったんですけど、車いすバスケの選手たちは、クルクルクルクル回って「ええーっ!何が起こっているの?」って思って。その時のことは鮮明に覚えています。ロストボールが僕の所にポンポンポンって転がってきて、それを掴んでパッと戻した時に、「ありがとう」って言われたのも。障害のある方にそこまで鮮明に、「ありがとう」って言われたことも、接したこともなかったということが大きいと思うんですけど、それが開会式当日のお昼の話です。 

 

それから夜、開会式になって入場行進になるじゃないですか。そこで選手たちは逆立ちしたり、笑顔で行進している。「笑顔?何だ?笑顔?!」って、笑顔が僕の中では衝撃的でした。そこから、自分の持ってた“概念”は何だったんだろうって、ぐるぐるぐるぐる考え出して、そして大会が始まって。

やっぱり「障害のある人を助けてあげなきゃ」っていうのは最初の一日目、二日目はあったんですけど、走り高跳びで片足切断の選手がベリーロールで跳ぶところとか、義足の選手が100mを走るところとか、すごい迫力のシーンを見ていくうちに、自分の持っていた“壁”みたいなものが、障害者という言葉のイメージみたいなものがどんどん壊れていく。で、後半くらいになるともうオリンピックの時と全く一緒の感情を持っていて、「おおーっ、すげー早い!」みたいな。

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とはいえ、“見た目”でわからない知的障害のクラスと、脳性麻痺のクラスは、まだシドニーの時でもどう見て良いかわからなかったです。今なら、脳性麻痺のクラスの陸上は「こういう器具をつけるとこういう推進力が動いて」と知っているので、工夫もそれなりにわかるんですけど、その時はまだわからなくて義足、車いすの選手を中心に見ていました。

大会の中盤、新聞社の人からの取材希望があって、現地で遠足で来ている子どもたちの話を聞きに行ったんです。その時にはっきり覚えているんですけど、100mを走っている義足の選手を見て子どもが「ちょーかっけー!」「将来僕もああいうふうになりたい!」と言っていて。素直な感動で、さらに周りの意見もあって、自分の持っていた“変な感覚”が柔らかくなっていった。それがシドニーの“きっかけ”です。

 

――シドニー後は「オリンピックも、パラリンピックも」みたいな感じで見ていったんですか?

オリンピックもパラリンピックも両方、すごくいい経験できたと思って「これだけ撮れたんだから、写真展でもやってみよう」と恐れ多くも思ったんです。どうせやるんだったらそれなりに名前があるところでやりたいなと思って、銀座にある写真メーカーのサロンに思い切って応募したんですよ、僕の夢だったんです。

審査がものすごく厳しくて、学生でその当時やった人っていうのは過去一人か二人しかいないから、周りも「無理だよ、応募なんてするな恥ずかしいよ」って止めたぐらい。でも、受かったんです。2001年の5月に写真展を実際に一週間開催することに…。

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――すごいじゃないですか!

写真を40点飾って。シドニーでお世話になったメディアの方々にもお声をかけたら、新聞などで取り上げていただきました。それなりに沢山の方に来ていただいたんですけどまあ、やはり銀座なので上品なお客さんたちが多くて。その時、何人かに「障害がある人にこんな激しそうなスポーツなんかさせて可哀想じゃないの」って言われたんです。

それが僕の中で無茶苦茶悔しくて。実際他にも、いろんな良い反応もたくさんあったんですけど、「何でスポーツをさせるの?」ていう言葉ばっかり頭に残っちゃって。何か“自分が感じたことを伝えられていない”と思ったんです。選手に申し訳ないって。悔しくて悔しくて、悔しさしか残らなかったんです、その写真展。

「じゃあ!」と、思い立ったら居てもたってもいられなくなっちゃうタイプなので、次の年のソルトレイクに行きたいですって、同じ新聞社にお願いして行きました。そういえば一回、1面にも使ってもらいました。

 

――それも、すごいじゃないですか!

当時のスタッフに何回もかけあって、載せましょうよ載せましょうよって言ったことを覚えています。

ただ、ソルトレイクも、撮影してそれなりに満足はしてたんですけど、選手と話していたときかな?「新聞とかに載ることによって、競技環境とか良くなるんですか?何か変わりますか?」って聞いた時に「いや、特にないねえ」って言われたんですよ。

ソルトレイクが終わるころにはそうやって選手と話をするようになっていきました。そこから今に至る…。

 

 

何をやったら“伝わる”のか…迷いながらも徹底的にこだわることがある。

 

――今に至る(笑)。最初のころ、選手とはどんなかかわりかたを?

選手と仲良くなっていったことによって、伝えたいこともどんどん増えていったんです。その中で、僕自身もそうだったのですが、多くのメディアは「何のメダルを取った」ということしか伝えていなかったのでそこに不満を感じるようになっていって。自分でもどんどん、選手を、見てきたことを伝えなきゃと。

まず自分のWEBメディアを作ったのが2004年だったんです。そんな偉そうなこと言っておきながら、そこでも実際、超人列伝というコーナーを作って、ドキュメンタリーという形でずーっと写真を出し続けていったけれど、なかなか伝わっていないなと思い続けていました。
「どうしたら伝わるんだろう、何をやったら伝わるんだろう」って試行錯誤…。そうして一つの結論として出て来たのは「選手の声を聞く。それを徹底的にやって行こう」ということ。いろんなことをやってきました。いくつか例として挙げていくと、一つは切断ヴィーナス(※1)もそれに近い部分はあるんですけど。

※1:切断ヴィーナス
義足の女性モデルを、彼女たちのアイデアを元に撮影したプロジェクト。写真集が発売されたり、ファッションショーが行われたりしている。

 

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例えば、選手が取り上げられる時にはどうしても“いいところ”だけしか取り上げられない。そういうところばっかりじゃないんだとある選手と話をしていて。その選手は交通事故で足を失ったんですね。相手方の過失で、事故現場にこれまで一回も行ってないと。「どうしたらいい?」って話をしているうちに、「じゃあ僕が一緒に事故現場に行って写真を撮ろう」と話をしてみました。でも自分もその場に行ったらどうなるかわからないって。そこからその選手と何度も話し合って、ようやくその現場に行って写真を撮って、写真展をしたんです。

でもそこまでたどり着くのは大変でした。親の話も聞いたり、まだ若い学生のアスリートで、当時義足の選手の日本記録保持者だったんですけど、撮るっていってもなかなか。アイデアは浮かぶんですが、形にするところまではなかなかたどり着かなくて。ずっと寝食ともにして、一緒のアパートで起きて、朝から晩までずっと密着して撮って。
その人が一番最初に密着した人。そこからは僕の中でもだいぶ“とにかく聞く”っていうスタイルが出来ました。彼はまた文章も上手かったので、写真展では彼の言葉と写真を併せて展示しました。

他にも、アスリートが車道を走っている映像をとってカフェでライブをやったり。それでも「どうしたらいいんだろう、どうしたらいいんだろう」って、ずっと。今だったらどこの大会に行っても、いろんなメディアの人たちがいますが、昔はもう、多くの国際大会行っても自分一人しかいない状況で、「何したらいいんだろう、どうしたらいいんだろう」って。何か、豆腐に釘打っているような。自分のやっていることは正しいのかな?自分の満足だけでいいのか?選手の事を伝えられているのか?ずうーっとです。「何やってるんだろう、何やってんだろう」って。

 

 

――何かこう、ふとした瞬間に、“変わったな”と思ったことはありますか?

今も、「何しよう、どうしよう」っていうのは変わらないけれど、一つだけ、切断ヴィーナスの時だけははっきりと“被写体本人の声を聞く”ことを徹底したんです。自分の気持ちとか思いを極力排除して、とにかく取材をして話を聞いて。“何を撮りたいのか”、そこだけに徹底してフォーカスしたので、ひとつの形として、取材の仕方として確立…確立とまで偉そうなものではないんですけどできたかなと。それ以外のところでははっきりと自分の中で変化があって成長したというものはないんです。ただ嬉しかったことが一つあるんです。去年スイスに行った時のこと、お話しましたっけ?

 

 

――いえ、聞いていないです。

スイスのパラプレジックセンターというところは、病院なのに毎年、陸上のグランプリシリーズや自転車の国際大会が開かれているんです。ハインツ・フライさんという車いすマラソン大会の世界記録保持者の方と、ドクターの二人が、その病院を作って。そこがとても素晴らしくて。みんな目がキラキラしていて、働いている人たちも「ここで働けるだけで幸せだ」と言うんですよ。病院内には民間なのに、研究所や、車いすでも市販の車に乗れるようにする工場、車を改造する技師や、義肢装具士が集まる場所があったり。何よりすごいのはスポーツする場所が山ほどあります。アーチェリーや卓球も…大方のパラスポーツが出来るんです。そこからパラリンピアンも何人も輩出していて、マルセル・フグ(※2)も、マニュエラ・シャー(※3)も。

 

※2:マルセル・フグ…車いすの男性陸上選手。アテネ・北京・ロンドンとメダルを獲得

※3:マニュエラ・シャー…車いすの女性陸上選手。アテネ・北京でメダルを獲得

――ああ、そうなんですか、すごいですね!

本当にすごいと思ったので、大会後にその病院を取材するって決めました。ただ通訳の方が必要で。チューリッヒから100㎞くらい離れている場所なので困って、大分車いすマラソンでお世話になった「通訳ボランティアCan-do」代表の後藤恵子さんに話をしたら、チューリッヒ在住の日本人で、日本語と英語とドイツ語が堪能な方がいると。「通訳料がどのくらいだろう」というのがちょっと心配だったんですけど、メールではノリのいい人のような感じでした。そうしてお会いしたら、涙目でうるうるした感じで。「越智です」って話をしたら、泣かれちゃって。えっ?!って。

何のことだろうと思ったのですが、打ち合わせでその理由がわかったんです。いい話ではないんですけど、お子さんが小学校低学年で交通事故に遭って、脚を切断しなくてはならないかもという話に。数か月経って集中治療室から一般病棟に移ることになって、家族もみんな落ち込んでいて、もう途方に暮れていたらしくて。その時、「義足」「切断」のように検索で調べていたら越智の写真が最初に引っかかってきて、それを見た時に「こんな世界があるんだ」って。お子さんに見せたら「かっこいい!」ってなって、それからパラリンピックの動画などを調べだして「こういう世界があるんだ!」と、どんどんどんどん元気になったそうです。

 

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はっきり言われたのが、「私、今、目の前でこういうことをお伝えできるのがとにかく嬉しくて…。他にも写真や映像を見て、私のように思う人はたくさんいると思います」というお話でした。

それまで、自分の中では「何やってるんだろう、何やってるんだろう」ってずっと思っていました。パラリンピックをやり続けて来て、負担ではないんですけど、お金の苦労とかはあるけれど、パラスポーツ以外の撮影の仕事をしながらそれなりに収入はあります。でも、その中でも、本当に何か絡まった糸のような感じをどうやってほどいていったらいいんだろうという感じだったので、そのお話を聞いて「伝えることって、パラリンピアンをそのまま見せればいいんだ」っていうのがすとんと落ちて。切断ヴィーナスなどでやってきた“徹底的に向き合う”ということ、あれでやり方はよかったんだっていうのが思えるようになった一つの出来事でした。

 

 

――今回のリオ大会では、NHKのパラリンピック放送はこれまで以上に充実する予定ですけれども、視聴者の皆さんに、パラリンピック放送をどうやって楽しんでもらうと良いかというメッセージをいただければと思います。

今の今ではとっかかりがなかなかないんじゃないかな、パラリンピックって。今はどうしても「障害を持っている人のスポーツ」ですよね。でも、この“障害”というのを取り払ったときに、競技の魅力とか選手個人のおもしろさが見えてくると思うんです。もちろん障害を全部排除するという理由は全くないと思うんですけど、ただ、 “障害”という言葉が薄く薄くなっていけば楽しめるんじゃないかなって。

それには何が大事かなって考えたときに、選手が表現しているものを、例えば選手の強みみたいなところにフォーカスするのもそうだし、選手のそれまで生きてきた人生であったり、どんどんそういった見方みたいなものが。頑張ってる人、かわいそうの一辺倒ではなくて、いろいろな見方が出てくれば、楽しみ方もどんどん増えるんじゃないかなと思うんです。

なのでNHKで長時間放送されるというのはものすごい意味があるというか、それで楽しみ方を知る、良いきっかけになるんじゃないかなと思います。


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越智さんのかかわりかた。

 

“パラリンピック”を取り巻く環境が急激に変化する中でも変わらないもの、それは「選手が生きている証」。越智さんはそこに真摯に、ある意味愚直に向き合い続けています。越智さんの歩みは、時にまっすぐ勢いよく、時にぐるぐるぐるぐる回り…でもその迷いがある部分に私はどこか安心していたのだ、と、過去の大会での越智さんの写真を探していて気付きました。

きっと、今後も 新たな“迷い”はあると思いますが、越智さんが選手たちに導かれて夢中でカメラをのぞきこんでいる姿を見るたびに、心から「向き合うこと」の大切さを実感するのだと思います。

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写真家 越智貴雄(おち・たかお)

1979年、大阪生まれ。大阪芸術大学芸術学部写真学科卒業。2000年のシドニーパラリンピックから国内外のパラスポーツの撮影取材活動を続けている。2004年パラリンピックスポーツ専門ウェブサイト「カンパラプレス」を設立。2012年パラリンピック義足アスリートの競技資金集めの為にカレンダーを1万部出版し国内外で話題となる。2013年9月のブエノスアイレスでの2020東京オリンピック・パラリンピック招致最終プレゼンテーションで佐藤真海さんのスピーチ時に映し出された「跳躍の写真」が話題になる。2014年義足で前向きに輝く女性を撮影した写真集「切断ヴィーナス」を出版。撮影取材の他にも写真展や義足女性によるファッションショーなどを多数開催している。

 

このコラムでは、パラリンピックの周辺にいる人たちの、日々積み重ねられる人間ぽさ、迷い、嬉しさなど、パラ競技との“かかわりかた”をお伝えすることで、みなさんが障害のある方々と共に生きていく時間をリアルに感じ、それぞれひとりひとりの想像の可能性がより拡がるきっかけになることを願っています。

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