推しと出会って病気を乗り越えたハナシ
人物やキャラクターなど、熱く情熱を注いで応援しているものを指す「推し」。中には、人生をあきらめかけていた人が、「推し」のおかげで元気になったということも。壮絶な人生を歩む女性が、「推し」である林遣都さんから受け取ったパワーとは?
(#教えて推しライフ 取材班 ディレクター イノウエ/筆者も推し活中)
※この記事は、あさイチ『#教えて推しライフ』の放送をもとに作成しています。
推しは人気ドラマのあの俳優
去年、私が訪ねたのは、首都圏に住む、ジュンコさん(仮名)です。
普段のお仕事は、妊婦のお腹に安産祈願をこめてイラストを描く「マタニティーペイント」。
ということで、ジュンコさんの推しをお得意のペイントでご自身の腕に書いてもらいました。
推しは…
俳優 林遣都さんです!
『バッテリー』(2007年)、『荒川アンダーザブリッジ』(2012年)、『おっさんずラブ』(2018年)、『HiGH&LOW』(2016年)、『火花』(2017年)など、数々の映画やドラマに出演。
朝ドラ『スカーレット』(2019年)では、ヒロインの夫・八郎の良き理解者、信作を演じました。ユーモアたっぷりで、みんなから愛されるキャラクターを好演し、ファンの心をつかんできました。
ジュンコさんは、役に入り込んで演じきる林さんの姿に、魅力を感じるといいます。
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ジュンコさん(仮名)
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「ドラマとかつくりものを超えたように役を生きてくれるところが、ほかの役者さんにはない、すごい魅力だなと思います。その役柄の人物が、お母さんのおなかから出てきて、小さい幼少期を経て成長したその姿、人生の姿の一部を、今を切り取って見せてもらっているような感覚になるんですよね。ドラマが終わった後も、私と同じ地球上に役柄の人物が今も存在していて、どこかで生活しているような錯覚に陥るので、演じられた役の人物もすごく好きになってしまって、事あるごとにふと思い出しています。まだ生き残り続けるっていう感覚が、ほかにはない感じがするんだと思います」
林遣都さんの虜(とりこ)になったジュンコさん、これまで集めたグッズは数知れず…。
作品DVDに写真集、公式グッズに、雑誌、出演した作品の原作本まで…筋金入りのコレクターです。書籍の重みで保管している机の天板がゆがんでいるんだとか…。
特にお気に入りは、林さんが30歳の節目に発売された「作品集」。
「ベッドサイドに置く用」、「鑑賞用」、「保管用」の計4冊も購入。
ベッドサイドにおいておけば、夢に出てきてくれるのではないかと期待しつつも、そう簡単には実現しないようです。
予期せぬ病…推しとは闘病中に出会いました
ジュンコさんが林遣都さん推しになったのは、3年前のこと。
当時、大きな病に侵されていました。
「脳脊髄液減少症」。
強い衝撃を受けることなどで、脳や脊髄の周りの髄液が漏れ出る病気です。
発症の原因が特定できないことも多いといいます。
頭を少しでも動かすと、頭痛、首の痛み、めまい、耳鳴り、吐き気が起こるため、寝たきりの生活に。有効な治療法が見つからず、自宅療養するしかありませんでした。
大好きだったマタニティーペイントの仕事も一切できず、休業することに。
当然、家事もできず、布団に横たわり、ただひたすら天井ばかり見ている毎日だったといいます。
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ジュンコさん(仮名)
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「症状が強いときは聴覚過敏と光過敏も発症しているので、テレビを見たり本を読んだりすることもできないので、もうほんとに常夜灯の暗い部屋の中で、ただひたすら横たわる。襲われる吐き気と頭痛と闘いながら、何もできないでただ寝ているしかないっていうその状況が、いつまで続くかわからないってなると、頑張って治そうっていう気持ちから、もう駄目だって。もうずっとこのままなんだって。これから先、どうして生きていけばいいんだろうって悲観していました」
時に症状が治まり、回復の兆しが見えたと思っても、まったく起きられない日が3日ぐらい続いたり、何も食事をとることができない日も続くこともあったといいます。
当時、中学2年生だった息子さんも、母親の病状に戸惑いを隠せなかったといいます。
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息子
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「めちゃくちゃお笑いが好きな明るいお母さんだったので、精神的にも見た目的にも弱くなってしまって、これは大変だと思いました。
お母さんが自分のことをできなくなってしまったので、歯磨きとか手伝えることは手伝って。お風呂に入れなかったので、お母さんの体を拭くとかそういうことも僕がよくしていました。不安もあるし、自分でやらなきゃいけない大変さもあって、いろいろな感情がぐちゃぐちゃしていましたね」
ジュンコさんの夫は、朝5時に起きて、出勤前に息子のお弁当をつくり、帰宅後には洗濯機を回して乾燥機をかけて、朝にまた洗濯物をたたんで、またお弁当つくってと、フル稼働。
家族ひとりひとりがやれることをしながら、ジュンコさんのサポートに回っていました。
それでも、回復の兆しは見えず、「自分が何のために生きているのか―」と、自らに問い続ける日々が続いたといいます。
次第に、心と体はむしばまれていきました。
当時の気持ちを綴(つづ)った日記です。
「家族がいながらも死にたいと思ってしまうほど辛いですー」
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ジュンコさん(仮名)
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「地獄の苦しみ」っていう感じでしたね。
ただただ横たわって時が過ぎるのを待つのが、苦痛以外のなにものでもなかった。
仕事どころか、日常生活がもう送れないんじゃないか。私、寝たきりで家族にずっと介護してもらわなきゃいけない生活を送るんじゃないかっていう不安と恐怖がすごくて、生きていることが拷問だなって」
発症から半年後。
ただ時間が過ぎる日々を送っていたジュンコさんに、運命的な出会いが訪れます。
その日も、リビングのテレビの前に布団を引いて、横たわっていたジュンコさん。少し調子もよく、ネット配信のドラマでも見ようと、番組を物色していたといいます。
その時、トップページのオススメに出てきたのが、林遣都さんが出演していたテレビ朝日系列のドラマ『おっさんずラブ』。
「じゃあ、見てみるか…」となにげなく選んだ1時間後には…
林さん演じるキャラクター「牧凌太」に一瞬で沼落ちしていたのです。
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ジュンコさん(仮名)
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「1話の一番最後には、もう思いっきり沼にダイブっていう感じで、目がパチって開いた感じで、「何これ。面白―い!」みたいな、「楽しいー!」っていう感じでした。
そのときはつらさとか将来の不安とか、自分の体に対する恐怖とかそういうものは全くなく、何か新しいエネルギーが注入された感じだったんです」
なぜ、この瞬間、彼に落ちたのかー
それはジュンコさん自身もわからないといいます。
ただ、2話以降を見続けても、その熱量は増していく一方だったといいます。
推しの姿を映画館で見たい
「林遣都さん」という推しに出会ったジュンコさんは、その後の生活が一変します。
病気の影響から、夜眠れないときも「林遣都さんの情報検索タイムだ!」と考え方を転換。
「寝られなくてもいいじゃないか、私の知らない林さん情報がいっぱいあるから、それを吸収する時間なんだ」とひたすら携帯で情報収集。
不眠の夜をポジティブに過ごしたといいます。
そして、ある目標が生まれました。
それが、上映が決まった『劇場版 おっさんずラブ』を映画館で見ることです。
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ジュンコさん(仮名)
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「最初はもう当然映画館に行くのなんて無理だから、もう考えもしなかったんです。
配信されるまで待つのが当たり前だった。それを受け入れていたのが、その状況が受け入れられなくなったんですね。もう絶対見にいきたい。上映されているなら行かないわけにはいかない。行けない状態だったら、行ける状態にしない限りは行けないんだから、じゃあ、行ける状態にしようと思考が変わった」
“推しリハビリ”を開始
寝たきりだったジュンコさんがリハビリをスタート。
まずは、掃除器具に寄りかかりながら、上半身だけ起こして体を慣らしていきます。
ほんの少し体を起こすだけでもつらく、体勢をキープすることからまず始めていきました。
上体を起こせるようになったら、杖を突いて一歩一歩、歩く練習も。
家の中を歩けるようになったら、近くの公園まで…歩く距離を少しずつ伸ばしていきました。
そして、猛練習の末、2か月後。
自分の足で映画館まで行き、2時間の上映時間中、一度も離脱することなく、映画を見終えることができたのです。
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ジュンコさん(仮名)
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「私、映画を見られた。2時間座れた」っていう気持ちで、「映画館で春田と牧の続きが見られた!」、劇場版の物語で泣いたのもあるし、自分がここまで来たんだなっていう、「よくやった、自分」っていう気持ちでも泣きました。
その後、ジュンコさんは映画館に行くのもリハビリと心に決め、上映期間中、映画館で15回も鑑賞したそうです。
病は気から…いや、病は推しから!推しの言葉で再起
そして、休業していたマタニティーペイントの仕事。
その復帰を後押ししたのも林遣都さんでした。
おっさんずラブの役、牧凌太の言葉、「夢を追いかける人であってほしい」。
この言葉に突き動かされます。
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ジュンコさん(仮名)
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「無理だ、無理だって言っているだけで、ちゃんとやろうと思っていなかったのかなと自分の中で思いが芽生えて。ほんとにやりたいんだったら、一回、ダメでもいいからやってみよう。努力できるだけしてみようと。「牧凌太、私、仕事復帰する。絶対する」って心の中で誓いを立てて、病気になる前の技術力に戻れるまでは練習するって決めていました。家族にも『仕事復帰する!』って宣言をして、仕事のリハビリを開始しました」
病気の影響から指が震えて絵が描けなかったジュンコさんでしたが、自らの体を画材にし、猛特訓。
指の置き位置を模索したり、呼吸を止めて震えを抑える工夫も。
そして、闘病から1年後、仕事にも完全復帰を果たすことができました。
この回復ぶりには主治医も家族もみんな驚いたといいます。
最後に私が聞いた質問は…「ジュンコさんにとって推しとはどんな存在ですか?」
その答えは…
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ジュンコさん(仮名)
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「林遣都さんは、私にとって命の恩人で、私の命に色を取り戻してくれた人です。
色のない真っ黒な世界に突然放り出されて、光もなくて、何の色もない絶望の中にいた私に、明るさ、光と、カラフルな色を取り戻してくれた人です。これからも自分自身も努力したり、生き生きと生きながら、林遣都さんの新しい作品を見守っていきたいと思っています」
取材から1年 ジュンコさんの推しライフは…?
最初の取材から、1年。
ことし6月、近況が聞きたくて、再び私はジュンコさんの元を訪ねました。
「推し活はどうですか?」と聞くと、
「もう生活の一部になっています」と満面の笑みで語ってくれました。
1年前に比べ、体調がいい日も増え、外出して推し活ができる日も増えたとのことで、舞台鑑賞や映画の舞台挨拶にも参加できるようになり、熱量はさらにパワーアップしていました。
ジュンコさんが患っている「脳脊髄液減少症」は、完治することはないといいます。
多いときは7種類以上の薬を飲んでいましたが、いまは2種類を服用すればよくなりました。
いまは体調と相談しながら、大好きなマタニティーペイントの仕事も発症前と同じくらいやっています。
推し活には健康第一、ジュンコさんは「私は林遣都さんより年上なので、健康に気をつけて長生きして、1日も長く推しの活躍を目に焼き付けたいです」と語っていました。
取材を終えて
私自身もかれこれ通算26年ほど推し活をしている人間です。
取材を通して、ジュンコさんと共鳴できたのには理由があります。
私自身も大学4年生のときに交通事故にあい、首の骨を骨折し、長い間休養していました。
ジュンコさんと同じく、「これからどうなるんだろう、ちゃんと生活できるのかな」という漠然たる不安。企業からもらっていた内定は白紙になり、その後も就職活動ができずに悶々(もんもん)とする毎日でした。
そんな中、私を救ってくれたのは推しでした。
当時、とあるバンド推しだった私は、痛みでつらい時は、病室でイヤホンをつけながら、ひっそりと曲をきき、歌詞をかみしめ、生きる意味を模索し、手術前の不安な気持ちを落ち着かせるため、勝手に自分への応援歌だと思い込み、直前まで曲を聴きまくり、乗り越えました。
そして、療養中は、心の中で「絶対に元気になってライブに行くんだ」と念じ、一日一日を耐え忍んでいました。
そして、いまがあり、ジュンコさんを取材させてもらうことができています。
ジュンコさんと私はいつも推しの話と病状の話ばかりです(笑)
「推しが病気やけがを治してくれた」という医学的根拠は当然ありません。
でも、心の支えになってくれることは絶対にあります。
つらい時にそっと、隣にいて励ましてくれる存在です。
私もそれを実感したひとりです。
推しを思う気持ち、推しの作品を見たいという気持ち、その強い気持ちが、病気をいい方向へ導いてくれたのではないかと信じています。
再会を経て、ジュンコさんが私に語った最後の言葉です。
「病気になったことはつらかったけれど、病気になったから推しに出会えたんです。私が病気になった後の転機には必ず林遣都さんと牧凌太がいて、よい方向に導いてくれている、感謝の気持ちでいっぱいです」