邪馬台国はどこに~日本古代史“最大のミステリー”~
日本古代史最大のミステリー、邪馬台国はどこにあったのか?「近畿説」や「九州説」など論争が続く中、佐賀・吉野ヶ里遺跡で進められた発掘調査から、新たな“謎”が浮かび上がってきました。6月、弥生時代後期の有力者のものとみられる石棺墓のフタが外されました。土に付着していた赤の顔料は何を意味する?墓のフタにつけられた×や+の無数の線は誰が何のためにつけた?約1800年の時を超え、研究者たちが挑む“歴史の空白”に迫りました。
出演者
- 片岡 宏二さん (小郡市埋蔵文化財調査センター所長)
- 松木 武彦さん (国立歴史民俗博物館・教授)
- 桑子 真帆 (キャスター)
※放送から1週間はNHKプラスで「見逃し配信」がご覧になれます。
邪馬台国はどこに?日本古代“最大の謎”
桑子 真帆キャスター:
今の日本はどのように形づくられたのか。その手がかりは弥生時代にまでさかのぼります。
当時の日本の社会について詳しく知ることができる資料が中国で記された「魏志倭人伝」。そこに邪馬台国、そして卑弥呼の文字が記されています。
ただ、この邪馬台国が実際どこにあったのか、いまだに分かっていません。有力な候補とされるのが近畿説と九州説です。長年論争が続いてきました。そうした中で今回、吉野ヶ里遺跡の発掘調査に関心が集まっていたのです。
吉野ヶ里遺跡の一部を再現しました。弥生時代の集落跡としては国内最大規模です。今回調査が行われたのが「謎のエリア」と呼ばれてきた場所。ここには神社があり、長年発掘できなかったのですが、2022年に神社が移転したことで初めて調査できることになったのです。
日本の起源に迫る決定的な証拠は見つかるのか。奮闘する現場に密着しました。
吉野ヶ里遺跡 発掘調査に密着
6月5日。「謎のエリア」に多くの報道陣が詰めかけました。
注目されていたのは分厚い石でふたをされた「石棺墓」。
この発掘を特別な思いで見つめる人がいます。七田忠昭さんです。37年前、吉野ヶ里遺跡が発見された当初に現場で指揮をとり、研究を続けてきました。
「これから1枚1枚めくっていくと思いますので、重要な発見があることを期待しています」
七田さんが今回の発掘に期待するのには理由があります。実は「謎のエリア」のすぐ隣で過去に大発見をしたのです。
貴重な貝の腕輪を大量にはめた高齢の女性の骨。周囲からは中国製の鏡や絹製の布も出土しました。この女性は祭しをつかさどった「シャーマン」。卑弥呼よりも少し古い時代の人物だと考えられています。
呪術で国を治めるシャーマンだった卑弥呼。「謎のエリア」には、その手がかりが眠っている可能性があると七田さんは考えています。
「吉野ヶ里遺跡では、ちょうど弥生時代の終わりくらい、卑弥呼さんが日本をまとめていた時代の墳墓はほとんど見つかっていないんですね。どうやってああいう女性(卑弥呼)が生まれてきたかを考えるとき、非常に重要な情報を与えてくれるのではないか」
邪馬台国につながる新たな発見はあるのか。
カメラが密着を始めたのは2022年12月。現場では弥生時代に死者を葬った「かめ棺」が次々に出土していました。
あとで復元できるよう、ひび割れに沿って少しずつ外していきます。
中に残されていたのは、弥生人の足の骨。卑弥呼の時代より古いものでした。
邪馬台国につながるものは、なかなか見つかりません。それでも発掘作業は毎日続けられました。
事態が動いたのは、4月下旬。
弥生時代後期、卑弥呼の時代のものと見られるあの「石棺墓」が見つかったのです。ふたを持ち上げると、墓の中は土砂で埋まっていました。1日数センチずつ1週間かけて掘り下げた、ひつぎ。しかし墓の主の特定につながる骨や副葬品は残されていませんでした。
「何か出そうな雰囲気でしたけれど、鏡とか出土しなくて残念ですね」
一方で、ひつぎをよく調べるといくつかの手がかりが見えてきました。
まずは、ひつぎの幅。36センチと狭いため、納められたのは女性など小柄な人物と見られます。
墓の側面や底には赤い顔料の跡。有力者の墓でよく見られる特徴です。
さらに、石のふたの表面にはバツ印にも見える線、線刻が刻まれていました。弥生時代の墓で見つかるのは全国でも極めて珍しいことです。しかも、それが大きな墓石一面に刻まれていたのです。
「ふた石に無数の記号、バツ印みたいなものが刻んであったりしますので、ひょっとしたら少し宗教的な身分の方のお墓かなっていう気もするんですけどね。やっぱり新しいものが土中から出てくるって非常に興奮しますよね」
今回の吉野ヶ里遺跡の発掘は邪馬台国論争に影響を与えるのか。
近畿説の代表的な研究者、寺沢薫さんは否定的な見方を示しています。
「邪馬台国 卑弥呼の政権があったということには、すぐにはならない。残念ながらだいぶ(被葬者の)ランクは下ということになるのではないか」
最大の根拠としているのが「副葬品」が出土しなかったこと。寺沢さんによると、弥生時代の北部九州では副葬品の量などで埋葬されている人の地位が推測できるといいます。
5,000人程度の共同体の首長なら鏡1枚程度。地位が上がるにつれ、武器や宝飾品など副葬品が増えていくといいます。
もし卑弥呼であれば。
「卑弥呼の墓というのはおそらくたくさんの鏡をもった、副葬品を大量にもつお墓。今回の石棺の調査というものを、まず邪馬台国論に結びつけることそのものが問題」
寺沢さんが卑弥呼の政権があったと考えるのが、奈良県・纒向(まきむく)遺跡。東西およそ2キロ、南北およそ1.5キロに広がる巨大な遺跡です。
弥生時代、政治の中心だったことを示す痕跡が見つかっています。
柱の跡から浮かび上がった巨大な建物。寺沢さんは王宮と見ています。3世紀前半、卑弥呼の時代のものと推定されています。その同じころ、祭しの中心だったことをうかがわせる出土物もあります。
およそ2,800個の桃の種です。桃は古くから神聖な果物とされてきました。卑弥呼が行った呪術「鬼道」で使われたのではないかと寺沢さんは見ています。
さらに、遺跡の中にある箸墓(はしはか)古墳。日本最古とされる前方後円墳で卑弥呼の墓として有力視されています。
「非常にほかの遺跡では見られないような大変なものが出ている。それだけの権力を卑弥呼政権は持っていた。それが今まで50年間積み上げてみた考古学とか文献の到達点なので、そう簡単に変わるものではない」
長年、吉野ヶ里遺跡の研究に携わってきた七田さん。まだ4割を残している謎のエリアの今後の調査に期待しています。
「一つの石棺でそういったこと(邪馬台国)に近づくかという非常に無理な面もある。今は狭い範囲の調査をしているので、広くまだ発掘をやらなければならない」
九州説・近畿説 各専門家が解説
<スタジオトーク>
桑子 真帆キャスター:
謎は深まるばかりということで、有力な候補地からそれぞれ専門家にお越しいただきました。九州説の片岡宏二さん、そして近畿説の松木武彦さんです。
今回、立地的にもとても期待が高かった「謎のエリア」の調査ですが、今回の石棺墓の発掘では副葬品はなかったものの、赤色顔料、線刻、それから内部の幅が狭いことが分かりました。こういったことを踏まえて今回の発掘について、まず片岡さん、どう評価されていますか。
片岡 宏二さん (小郡市埋蔵文化財調査センター所長)
片岡さん:
私の多くの知人も見に行きました。残念ながら何も出なかったといってがっかりした人が多かったのですが、何も出なかったのですが、やはり石棺はどう見ても吉野ヶ里という国のリーダーの1人ですよ。
桑子:
そうですか。
片岡さん:
そのリーダーがどういう石棺に埋まっていたのかということが、何もなかったにしても「なかったのはなぜなのか」ということを考えるいいきっかけになったのではないか。
強いて言えば、国というのはどういうふうにして、そのリーダーはその国の中でどういう立場にあったのか。そういうことを考えるいいきっかけになったのではないかなと思います。
桑子:
松木さんは、今回の発掘どのように見ていましたか。
松木 武彦さん (国立歴史民俗博物館・教授)
松木さん:
邪馬台国時代は、トップクラスの人は木のひつぎ「木棺」に入るんですよ。今回出てきたような石棺はセカンドクラスですので、社会階層としてはそんなにトップの人ではないと思うんです。
けれども、石棺のふたに異常なまでの線刻がついていたので、社会階層は高くないけれど個人的な資質とか、特異なキャラクターの人が埋葬されていて、ただ者ではないとは思いますね。
ですので、吉野ヶ里の国のリーダーだったのかどうなのか。私は国のリーダーというよりは、もっと個人的な資質の持ち主だったのではないかなと思います。
桑子:
もう一つ気になるのが「邪馬台国が実際どこにあったのか」ということで、九州説の片岡さんから記していただこうと思います。
片岡さん:
私が考えている邪馬台国というのは、有明海がありまして、この辺りの「筑紫平野」といわれる部分です。「筑後川」という大きな川が流れていまして、その流域にいくつも国があって、この1つが吉野ヶ里なわけです。こういった小さな国が連合して、邪馬台国連合をつくっている。私だけではなくて古くから言われている「筑紫平野の邪馬台国連合説」だと思います。私もそれを支持するということです。
桑子:
近畿説の松木さん、いかがでしょうか。
松木さん:
大和に邪馬台国はありました。ただ、ここは政治的・宗教的な中心で、経済的な中心は九州の博多湾沿岸にあり、2つの性格が異なる中心が1つの連合体「邪馬台国連合」とも言うべきものなのですが。
だから、邪馬台国の実態を狭く捉えると大和、広く捉えると九州まで包み込んだ、こういう範囲になると考えています。
桑子:
長年論争になっているわけですけれど、なぜそこまで邪馬台国がどこあるのか特定にこだわるのか。片岡さん、いかがですか。
片岡さん:
やはり私たちは自分たちのルーツがどこにあるかというのを知りたいと思います。そうしますと、日本の国は小さな連合体、そういうところがもともとあったのか、それとも大和のような今につながるような強権的な国あったのか、そういうところに興味があるからだと思っております。
桑子:
松木さんはいかがですか。
松木さん:
日本の国の形の歴史的展開と関係があって、弥生時代の中心は九州、古墳時代以降はしばらく近畿、今は関東ですよね。
弥生時代の古い中心に邪馬台国があったのか、古墳時代の新しい中心に邪馬台国があったのか。この邪馬台国位置論争は歴史的タイミングととても深く関わっている問題で、国のフォーメーションがどのように変わってきたのか、そのシナリオに直結している非常に重要な問題ですね。
桑子:
今後も吉野ヶ里遺跡の「謎のエリア」の発掘調査は続きますが、実は今、考古学の枠を超えた知見を生かして分析が始まっています。
浮上した“新たな謎” 「天体」との関わりが?
考古学者と天文学者、異色の組み合わせが吉野ヶ里を訪れました。
注目したのは、石棺墓のふたに刻まれた無数の線刻。ある仮説を導き出しました。
「この横っちょ、これなんだろう?」
「何か星あります?これだと星っぽいですけど。長さも深さもそろっているので星だという解釈でもいい」
線刻の模様を「星」だと見立てたのです。
その一人、考古学者の北條芳隆さん。4年前から吉野ヶ里遺跡と天体の関わりを研究してきました。
「この北内郭の軸線ですけれど、冬至付近に訪れる満月の出にぴったり合っていることが分かってきた」
政治や祭しが行われていたとされる「北内郭」。その中心を貫く線を延ばすと、向かう先は北東の空。卑弥呼が邪馬台国を治めたとされる弥生時代後期の冬の満月の出の位置と一致しました。
文字がまだなかったとされるこの時代。稲作や祭りの時期を把握するために天体が重要視されていたといいます。
「稲作を行うさいには暦が不可欠。『無文字社会』であっても高度な時間の管理が可能なようにする。そういう工夫がここでは認められる」
石棺墓のふたに刻まれた線刻と天体にはどんな関係があるのか。
分析に大きな役割を果たしたのが、画像データを解析する最新の技術です。なんと、大きな3枚の石のうち2枚がぴたりとくっついたのです。
「もともと一つの石だということが確実になった。2枚の石にまたがって施された線刻もあるようなので、2枚くっついた状態で全体像がどうだったのかという検討をする必要がある」
さらに、色を調整して肉眼では見えにくい線刻を強調。線刻の図面を作りました。北條さんが天文学者と共に分析すると…
現れたのは、おりひめとひこ星で有名な夏の大三角。その2つの星を分かつように流れる銀河、天の川。弥生時代後期の夏の夜空が2枚の石をまたいで描かれているというのです。
「星空が好きな人なら、かなりの確率で『これは夏の天の川じゃないか』って見立てる人は少なくないと思う。タイムマシンになっていて2000年前に星空をみている人と、あの石ぶたを通じて気持ちを共有できるかな」
「(天の川は)天と地上を結ぶ懸け橋のような形で、死生観とも絡めてイメージされた可能性はないかなと。弥生社会の人々の素朴でかつ素直で、非常に豊かな精神生活を営んでいたことが分かってくればうれしい」
日本の“起源”は解き明かされるのか
<スタジオトーク>
桑子 真帆キャスター:
線刻の分析を見ましたけれども、まだ仮説ではありますが、まず松木さん、どのようにご覧いただきましたか。
松木さん:
当時の人が天体に関心を持っていなかったわけがないので。これからの考古学はやはりこういうことも解明していかないといけないですよね。考古天文学、だいぶ技術が高まってきたので、これからどんどん新たなことが解明されると思うんです。
線刻が天体だとすれば、恐らくここに眠っている人は占星術師とかシャーマンとか暦を操る人とかね。やはりただ者ではない。
桑子:
片岡さん、実際に線刻をご覧になったそうですね。
片岡さん:
そうですね。考古天文学の方はちょっと置いておきまして、私が見たところでは線刻がふんぎりよくばっばっとついてるのもあれば、ちゅうちょしているような力の弱い人が描いているようなもの、いろいろあったものですからこれは1人の人が描いたんじゃない。寄ってたかってみんなで描いたんじゃないのかな、なんて思ったんですよね。
桑子:
そうですか、その意図は。
片岡さん:
何でしょう。やっぱり出てきてほしくない。
桑子:
封じ込めたい?
片岡さん:
そういうことですね。封じ込めたいというものなのではないか。
桑子:
では今後、日本の私たちの起源を解き明かしていくためにどんな研究が必要なのか。片岡さん、いかがでしょうか。
片岡さん:
私たちは「現代」という視点を忘れてはいけないと思いますね。現代から吉野ヶ里とか、ものを見ているんですね。
だからもっとこれから想像力を働かせて、1800年前に帰って、そして今、掘られていない遺跡も含めてそういうものを見ていくという姿勢が必要ではないか。
吉野ヶ里にしても、掘られてないところがどうしてまだこれだけ残っていて、そこからどんなものが出てくるのかという想像力の問題だと思いますので。これが必要だと思います。
桑子:
松木さん、いかがでしょうか。
松木さん:
考古学というのは宝探しではないので、何かをねらって掘るわけではないんです。これまで掘られたものも、調査されたものも含むすべてのデータを総合的に時間的、空間的に分析することによって過去の事実を一つ一つくみ上げていく。データサイエンスとしての側面が考古学の本質だと私は思います。ぜひそういう方向で行っていただきたいと思います。
桑子:
ありがとうございました。
・ 【記事】吉野ヶ里遺跡発掘/石棺墓 “×”(バツ)の意味を最新の考古学・天文学から読み解く
・ 【記事】邪馬台国どこに?九州説・近畿説/吉野ヶ里遺跡の最新発掘の成果は?専門家が読み解く