クローズアップ現代

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2020年2月12日(水)
密着半年 野村克也さん 最期のメッセージ

密着半年 野村克也さん 最期のメッセージ

妻・沙知代さんを亡くし、「早く死にたい」と話しながら、それでも前を向いて努力する野村克也さんの日々を半年にわたってカメラが記録してきた。取材陣に、ハッとする言葉を常に発していた野村さん。若いディレクターに語ったのは「若いのだから先だけを見すえて成功だけを考えて生きなさい」「失敗と書いて”成長”と読む」という言葉だった。 貧しい家庭に生まれた野村さんは、立ちはだかる困難をバネに偉大な選手、監督となってきた。「ただ母親を楽にさせたいと頑張ってきた」と言う。”人としてどう生きるべきか”、”何を大切に生きるべきか”、野村さんの最期のメッセージをみつめる。

出演者

  • 武田真一 (キャスター)

“家族がいるから頑張れる 生きる支え”

私たちが取材を始めたのは、去年5月。
このころ、野村さんは沙知代さんとの思い出が詰まった店に通い続けていました。

野村克也さん
「暇なところ、うつされても困るな。」

取材班
「(沙知代さんとは)どこらへんに座っていたんですか?」

野村克也さん
「カウンター。」

店主
「こちらとこちらに。」

野村克也さん
「俺がいちばん向こう。」

野村克也さん
「(沙知代さんは)すし屋に来てうどん食ってる。刺身とか、すしだめなんだよ。」

店主
「奥様のほうが監督の腕に手を乗せて、ひざとね。仲がいいんだと。奥様は監督さんが食べられるの、ずっと見てらした。」

野村克也さん
「さみしい。たださみしいだけ。」

沙知代さんは自宅で心不全を起こし、意識が戻ることなく、野村さんの前で亡くなりました。このとき1年半がたっていました。

野村克也さん
「女房がいなくなって初めて分かるね。弱さが。男の弱さ。それを痛切に感じて毎日生きてますけど。女房がいたらなと。」

このあと半年にわたる取材で、私たちはこれまでうかがい知ることのできなかった野村さんと沙知代さんの愛情の深さを知ることになります。

野村克也さん
「おかえりって声がかかるのとかからないのじゃ、全然違うわね。」



沙知代さん
「まわして。あなた1人で出来ないんですか、こういうお仕事。」

野村克也さん
「出来ない。俺は何でも1人では出来ない。野球以外はダメ。」


おしどり夫婦として、お茶の間の人気を集めた2人。

野村克也さん
「俺が我慢しているからね。」

沙知代さん
「私だって忍耐してますよ。」

野村克也さん
「なんでそんな耐えることがあるの。こんないい夫を迎えて。」


野村さんが沙知代さんと出会ったのは、選手兼任監督としてさまざまなプレッシャーと戦っていたころ。沙知代さんは、どんなに遅くなっても寝ないで帰りを待っていてくれました。

野村克也さん
「負けて帰ると、しょんぼりして帰ってくると、『元気出しな』と声をかけてくれたけど、『負けたことはしようがないじゃない』『あした頑張りな』と絶対に弱音を吐かない女性だったから。常に強気、前向きの発言しかしない人だから。そういった意味では、俺はだいたい気が弱いから、そういう面では非常に助けてくれた。」

沙知代さんが亡くなってからも、いつもその存在を感じながら過ごしていました。

野村克也さん
「もうちょっと迎えに来るのやめてくれよ。もう少し人生楽しませてちょうだい。サッチーがどこかで背中を押してくれる。どこか耳元で『頑張りな』という声が聞こえる。俺の背中をたたいて『頑張りな』。そういう言葉は想像できる。」

愛する妻と二人三脚で歩んできた野村さん。
“人生で大切なことは何か”を教えてくれました。

野村克也さん
「支えだよ、生きる支え。家族がいるから頑張れる。家族がいるから何でもつらいことは耐えられる。家族あっての自分です。サッチーさんは消えないわな。永久に消えない。」


沙知代さんの存在をいつも近くに感じていた野村さん。
その裏には、沙知代さんが亡くなった朝の出来事がありました。

野村克也さん
「(亡くなった日の朝)『ちょっと手を握って』と言うの。右手で手を握ったんだけど、どうしたんだ?って。『いいのよ』って言って、手をずっと握りしめて離さないんだ。何か意味があるのかなと思ったんだけど、何も言わないし。ぬくもりだわね。奥さんの手のぬくもり。」

取材班
「まだ右手にあるんですか?」

野村克也さん
「離れないよ。いつも握っている。」

“努力は天才に勝る” “劣等感が支えてきた”

「監督、よろしくお願いします。」

講演会へと向かう野村さん。
最期まで、みずからの人生哲学を伝え続けてきました。

野村克也さん
「一番大事なのは感性だと思うんです。感じる力のある人は、がっと成長すると思うんですけど、大きなエネルギーになるので。私もそれで生きてきた。」


野村克也さん
「野球やってるの?」

「野球は中学受験のあとから。」

野村克也さん
「がんばれよ。いっぱい夢を持っているんだから。」

「握手してください。」


「努力は天才に勝る」
そう私たちに語ってくれた背景には、自分自身の生い立ちが深く関わっていました。

取材班
「野村さんが自分を貫けたのはなぜなんですか。」

野村克也さん
「劣等感じゃない?そういう劣等感が自分を支えてきたと思うよ。半端じゃない貧困家庭で育ったから。キンキラキンなんて。エリートの人はこういうのはしないよ。」


野村さんは、3歳のとき戦争で父親を亡くし、病弱だった母親に女手一つで育てられました。

野村克也さん
「(中学の)野球部の集合写真があるけど、俺1人だけ短パン履いてランニング着て、ユニフォーム着てないんだ。ひたすらがんばって、いずれ母親を楽にさせてやりたいという、その一心だね。母親が苦労する姿しか見てないから。」

貧しさからはい上がろうと、懸命にバットを振り続ける野村さんの姿を、兄の嘉明さんは見ていました。

兄・嘉明さん
「日頃からの取り組みがすごかったね。“かっちゃんの素振りが始まったよ”って言われるぐらい近所の評判で、バットのスイングも音がするくらいまで続けた記憶はありますね。」

その後、人一倍努力を続け、18歳で入団テストを経てプロ野球選手となった野村さん。並み居るエリートたちに勝ってレギュラーの座をつかもうと、みずからを追い込みます。人が休んでいる時も練習に明け暮れたのです。

野村克也さん
「テスト生から一軍に上がった例はないかもしれないが、実力の世界じゃないの。バットを振って振って、振りまくって。」

野村克也さん
「いまだに忘れないけど、二軍の練習の時に、野手集まれ、手を見せてみろと。俺はマメだらけだから自信を持って出したら、おお、野村、いいマメつくってるなって。みんなよく見ろ、これがプロの手だって。あの時はいまだに忘れないけど、気分が良かったなあ。」

多くの同期たちが退団に追い込まれる中、野村さんは頭角を現わしていきます。レギュラーの座を勝ち取った後も、壁にぶつかったときは努力で乗り越えました。抑えられたピッチャーの投球フォームを見続け、相手の癖や配球を徹底的に分析しました。こうした努力の末、昭和40年には戦後初の三冠王に輝いたのです。

野村克也さん
「人生って分からないよ、本当に。やることをやらないと自分にどういう素質があって、どういう才能があるかって分からない、やってみないと。自分で決めつけないことだね。とにかく興味があることをやってみる。それが一番だと思う。」

“人を遺すを上とする”育成の極意

4球団で監督を務めた野村さん。数多くの選手を育てる中で、たどり着いた言葉があります。
“財を遺すは下 仕事を遺すは中 人を遺すを上とする”

財産を築いたり、仕事で業績をあげたりすること以上に、人を育てることは難しく、それゆえ価値があるというのです。

半年間の密着取材で私たちに語ったのは、“選手の個性を見極めることの大切さ”でした。

取材班
「監督の仕事で一番大事なことは何?」

野村克也さん
「見つける、育てる、活かす、じゃないの。9つのポジションでいろいろな条件があるから、その条件に合うか合わないか見つけるのも監督の仕事。」

“野村マジック”とも呼ばれた育成手腕。
中でも周囲を驚かせたのが、新庄剛志さんへの指導でした。
打撃が低迷していた新庄選手にピッチャー挑戦を指示。肩の強さが売りだった新庄さんに、自分の素質と可能性に気付いてほしいと考えたのです。

野村克也さん
「チャレンジ精神がなくなったら人生終わりですよ。『新庄、二人三脚でなんとか成功させような』という思いがあるわけですから。」

マウンドに立った新庄さんは、140キロ台の速球でバッターを打ち取りました。
この年、打撃成績を大きく伸ばし、主力として活躍しました。

野村克也さん
「人間のいいところは、どんな可能性があるのか、その可能性を引き出す、見つけることが人生そのもの。(選手が)持って生まれたものだから、それを発揮したらいい。そういうのを見抜いてやるのも監督の手腕のひとつ。」


選手の将来性を考え、あえて突き放すこともありました。

野村克也さん
「がんばってちょ。」

「はい、がんばります。」

楽天のエースだった田中将大投手です。

入団3年目、2か月間勝利から遠ざかるなど、大きな壁にぶつかっていました。苦しんでいる田中投手に対して、野村さんはあえてアドバイスをしませんでした。球界を代表するピッチャーになるには、自分で乗り越える経験が必要だと考えたからです。

野村克也さん
「手取り足取り何もかも答えを出すのは、果たしていいのだろうか。やっぱり自分で考える、自分で答えを見つける。やっぱり耐える、我慢、こういうのができると更に一段と育つ。楽をして、いい結果は得られません。」

きのう、田中投手のツイッター。

“野村監督には ピッチングとは何か 野球とは何かを一から教えていただきました。ご指導いただいたことは、僕の野球人生における最大の幸運のひとつです。”


「人を遺すを上とする」
野村さんは亡くなる直前まで、この言葉を実践しようとしていました。

去年6月、高校球児を指導するための研修会に参加した野村さん。
いつか高校野球の監督になり、甲子園に出場したいという夢を私たちに語っていました。

取材班
「高校生に野球を通じて、どんなことを指導したい?」

野村克也さん
「特に若い人には『夢を持て、夢を持って生きろ』、この一点だけでいいと思う。『若人よ夢を持て』、それで十分だと思う。『俺は大人になったらこうなる』という明確な夢があると、本当に楽しい。俺の経験からいうとそうだ。」

父と息子の葛藤 たどり着いたのは…

人を遺すことが大切だと語っていた野村さん。
その一方で、最期まで悩んでいたのが息子・克則さんとの関係でした。

野村克也さん
「いいおやじになれずに、きょうまで来たと思うけど、おやじ像が浮かんでこない。おやじってどういう存在でいるべきかって、想像つかない。」


「作文があるんでしょう。それを読んでくれますか?」

息子・克則さん
「僕が大きくなったらプロ野球選手になります。巨人の王さんに負けたお父さんの敵をとって、王さんの記録を破ります。僕は、お父さんが野球界で一番偉い人だと思います。」

父に憧れていた克則さんを、野村さんは自らの球団で指導してきました。
しかし、克則さんが目立った成績を残せない中、「息子をひいきしている」とやゆされることもありました。

野村克也さん
「かわいそうだよね。俺もたいした選手ではないけれどそこそこやったから。どうしても、おやじと比較されると思うんだよね。プロへ入れたんだけど、良かったか悪かったか分からないけれど。」

克則さんも、父に対する複雑な思いを抱えてきたと言います。

取材班
「マスコミにそういうふうに書かれたことについて?」

息子・克則さん
「つらい。相当つらかった。二言目には野村の息子ですからね。すごい嫌だなって、なんで普通に見てくれないのかなって。自分もプロ野球の一選手としてという思いはありましたけど。」


去年12月8日。沙知代さんの命日。
野村さんは、克則さんの家族と食事をともにしていました。

野村克也さん
「ポジションどこなの?」

孫・忠克さん
「外野。」

野村克也さん
「バッティングいいの?外野だったら打てないと。」

ぎこちない家族の会話。

野村克也さん
「監督にはなれそうもないか?コーチ止まりか?なんか役に立ってやりたいけど、何をしたらいいか分からない。何をしたらいい?ヒントを頂戴よ。こうしたらいいんじゃないか、ないか。」

偉大な父を持つつらさを抱えてきた克則さん。自らが指導者になって、違った気持ちが芽生えるようになりました。
克則さんは、今シーズン、楽天の一軍のコーチを任されることになりました。どんな指導者であるべきか、支えとなっているのが野村さんから繰り返し伝えられた言葉でした。

“人のいたみを知りなさい”
“選手のために何ができるか考え続けろ”

父親に、伝えてこれなかった思いがありました。

息子・克則さん
「こうやって野球界に残れて、いろんな知識も植え付けてもらって、学んで。そうやって僕もこうやって今、生きていけているのは父親のおかげだと思っているし、父親の存在感はそういうところじゃないかなと。背中で教えるじゃないですけど。今は良かったなと、野村監督の息子で良かったなと思いますよ。おふくろと野村監督の息子で良かった。」

野村克也さん
「そう言ってくれるのが一番ありがたい。こんな感謝していると思わなかった。何にもしてやれてないから。今の談話を聞いてほっとした。背中で伝えていたのかなと。」


半年にわたる野村さんとの日々。
最後の取材となった先月9日。
別れ際にかけてもらった言葉がありました。

取材班
「また来ていいですか?」

野村克也さん
「来なくていいよ。一生懸命働け。若いんだから、先を見据えて、成功だけ考えて生きなさい。」

残した最期のメッセージ

武田:一つ一つの言葉から、愛にあふれた夫であり、父であり、指導者だったんだなと感じます。野村さん、ゆかりの人たちはこう語っています。


元ヤクルト 古田敦也さん
「プロ野球とは、キャッチャーとはこういうもんだ、生きて行く上でこう生き抜いていくんだ、いろいろ教えていただいた。ときに厳しく指導していただいたからプロで活躍できたし、今がある。」


日本ハム監督 栗山英樹さん
「野村さんのもとでつけたミーティングのノートがベースになっている。配球など、野球界のみんながなんとなく知っていることを整理してくれた。今の野球界全体のベースにもなっている。」


巨人終身名誉監督 長嶋茂雄さん
「3週間前に顔を合わせたばかり。その時のノムさんの言葉が忘れられない。『おい 頑張っているか 俺はまだ生きているぞ まだまだ頑張るぞ』。だから私も『お互い 頑張ろう』と話したばかりだった。ノムさんが残した偉大な功績と野球への底知れぬ愛は、永遠に生き続ける。今後は天国から、しっかりと野球界を見守ってほしい。」