糸井重里

糸井重里糸井重里

テレビと一緒に大きくなった

ぼくのテレビは「プロレス中継」から

テレビの記憶で強く印象に残っているのは、近所の電気屋さんまでわざわざ見に行っていたプロレス中継。家族が食事をする場所にテレビがあって、知り合いの人たちが集まって見ていたのを覚えています。小学校2、3年生くらい、1956年ごろかなぁ。当時プロレスと言えば力道山で、僕たち子どもは股引(ももひき)をはいてマネをしたものです。股引はらくだ色なので、これが黒ならどんなにうれしかったかと思いますね(笑)。


プロレスと隔週で放送していた『ディズニーランド』(日本テレビ系)もとても楽しみな番組でした。これもいち早くテレビを入れた家で見せてもらっていました。市街地には街頭テレビもありましたが、夜、子どもだけでは見に行けませんし、チャンネルも変えられませんでしたから。世の中では昭和34年4月10日の皇太子殿下御結婚祝賀パレードに合わせて皆がテレビを買ったのですが、わが家はそれには間に合わず、少し後になってテレビを入れたと思います。

プロレスリング 力道山・遠藤幸吉 対 シャープ兄弟(1956) テレビを視聴する家族と近所の人々(1953)
上.プロレスリング 力道山・遠藤幸吉 対 シャープ兄弟(1956)
下.テレビを視聴する家族と近所の人々(1953)

忘れられないクイズ番組

テレビが家で見られるようになってから楽しみにしていたのが、NHKの『私の秘密』や『二十の扉』、『ジェスチャー』、『私だけが知っている』などのクイズ番組。特に『私だけが知っている』はすばらしく面白く、僕にとって重要な番組です。生放送で一方では事件を見せるドラマを進行させ、もう一方に回答者がいるスタイル。ポイントとなるところでお芝居を止めて「この時、金庫に鍵をかけましたよね?」などと回答者に念を押し、推理を進めていくのですが、なにせ生放送ですから盗まれたはずのものが、スタッフのミスで金庫に残っているなどというハプニングもあったようです(笑)。あまりに面白かったので、後年、自分でもやってみたいと思い、上岡龍太郎さんを司会に立てて民放で焼き直しをしたことがあるんですよ。

『私だけが知っている』(1963)
『私だけが知っている』(1963)
左から加藤道子 千石規子 江戸家猫八 日下桂子 宝来あや子

テレビっ子がテレビの出演者に!

“テレビじじい”と呼ばれた中学時代

中学生になってもテレビ好きは高じるばかりでした。年末になると『紅白歌合戦』を夢中になって見ていて、「初詣に行こう」と誘う友達を「テレビを見ているからダメだよ」と断ったことがありました。だって、大みそかは、紅白の後に『ゆく年くる年』だってある。そうしたら「テレビじじい」って言われて(笑)。それほどテレビっ子だったんです。


この頃、毎週楽しみにしていたのが『若い季節』、『夢であいましょう』というバラエティーの元祖みたいな番組。同じ頃、民放の『光子の窓』、『シャボン玉ホリデー』などもよく見ていました。なかでも『夢であいましょう』はしゃれた番組で、歌や踊りに加え、くすぐるような笑いがありました。「さあ面白いでしょう」という笑いではなく、出演者たちがちょっとした笑いを楽しんでいるような雰囲気でしたね。中島弘子さんは司会者という立場上、番組を成立させようと一生懸命なのですが、そこにあの渥美清さんがチャチャを入れにきたりして、つい笑ってしまったりと、ミュージシャン的な遊びのセンスを感じました。
中学生が見るには遅い時間に放送していましたが、親が寝たあとにひとりで見られる少し大人びた番組でもあり、とても影響を受けました。のちに村上春樹さんと出した本のタイトルを「夢で会いましょう」にしたほどです。

第4回NHK紅白歌合戦(1953) 『夢であいましょう』(1961)渥美清(左) 中島弘子(右)
上.第4回NHK紅白歌合戦(1953)
下.『夢であいましょう』(1961)渥美清(左) 中島弘子(右)

テレビ初出演は『若い広場』

テレビに初めて出たのは、たしかNHKの『若い広場』だったと思います。「青春クリエーター会議 若手メディアの旗手たち」というコーナーがあって、広告のジャンルで僕が呼ばれました。それからしばらく時間が空いて『若い広場』の後継番組を考える際に、プロデューサーのひとりが僕のことを覚えていてくださり、司会の候補に挙がったのだとか。面接がありましたが「司会なんて大変そうだけど、どうなんだろう」と他人事のように思いながら、「興味はあります」とお話したら『YOU』での司会が決まりました。
『YOU』では好き勝手なことを言って、それをそのまま撮ってもらいました。失言も失礼もありましたが、荻野靖乃チーフプロデューサーやディレクター陣が何とか守ろうとしてくださったおかげで、僕にとってはいい思い出しか残っていません。

『若い広場 ~青春クリエーター会議 若手メディアの旗手たち~』テレビ初出演時(1979)
『若い広場 ~青春クリエーター会議 若手メディアの旗手たち~』
テレビ初出演時(1979)

出演番組の思い出

『YOU』

『若い広場』の後継番組として作られた『YOU』では、各回の企画が通った時点から打合せに参加し、制作陣と一緒に番組を作っていきました。番組のディレクターたちは僕よりも何歳か年下の人も多く友達同士のような感じでした。ああだこうだと意見をぶつけ合うのが面白くて仕方なく、このミーティングをいつもすごく楽しみにしていました。
そうやって決めていったテーマもそうですが、今見てもゲスト出演者の顔ぶれがすごいですね。アカデミズムとの混ざり具合がNHKならではで、面白い人を呼んでくるんですよ。ビートたけしさん、タモリさん、坂本龍一さん…、とんねるずなんかもほとんど知られてない時期でしたしね (笑)。無名な人を出すのも平気で、確かまだ早稲田大学の学生だったデーモン小暮さんが、素顔で出たこともあると思います。番組制作に学生アルバイトを多く使っていたので、学校にいる面白い人たちの情報もあったのでしょう。



『YOU』ではいつも何かひとつのテーマについて皆で意見を交わしていくのですが、最後に結論づけないことを常に意識していました。結論があったらそこに向かっていくしかないので、それまでの時間は全て結論のための時間になってしまうでしょう。もちろん結論に向かうために議論するのだけど、ゴールが分からないというのが一緒に考えるということだと思いますから。

『YOU』(1983)出演時 左から青島美幸 糸井重里 アントニオ猪木 ビートたけし 村松友視 坂本龍一 『YOU』初回(1982) 青島美幸(左)小椋佳(右)
上.『YOU』(1983)出演時 左から青島美幸 糸井重里 アントニオ猪木 ビートたけし 村松友視 坂本龍一
下.『YOU』初回(1982) 青島美幸(左)小椋佳(右)

『月刊やさい通信』

トマトジュースのおいしさにびっくりしたことから、僕と野菜づくりの関わりが始まりました。野菜がものすごく美味しくなる農法をやっている人がいて、僕も一時はその方と一緒に農家を回っていたんですよ。その農法がみんなに伝わったら、世界中の野菜が美味しくなるんじゃないかと思ったのが番組スタートのきっかけ。かつてどこの家にもあった「家庭の医学」という本のように、農作物の育て方を総まとめしたものがあれば便利じゃないか。それを伝えるのは映像が分かりやすいと、野菜の生育を追える月1回放送の番組を作ることになったんです。
そもそも農業を第一次産業に、情報産業を第三次産業と分けること自体が本当は間違っていて、農業も一度情報に分解して組み立て直せば第三次産業でしょう。そうしたこともあって、僕にとっては土着的に生活に根ざしたものも、荒唐無稽なものも、せちがらいものもみんな人間の営みという意味で同じ。想像を膨らましていけばSFにもなるし、「これ、うまいね」と畑にも行く。それらはすべて自分がどうやって生きていくかの話なんです。こうした考え方は『YOU』に出演していたときと全く変わっていません。

『月刊やさい通信』(2005)出演時
『月刊やさい通信』(2005)出演時

糸井重里のテレビ論

「予定調和」はつまらない

『YOU』では自分の感じたことをありのままに発言させてもらっていたので物議を醸したこともありましたが、決してクビになりたいわけでも、ケンカをしたいわけでもありませんでした。ただ予定調和で台本に書かれていることを丸ごと話すようなことは絶対にしたくなかった。そういう意味では「いつクビになっても構わない」という気構えでした。振り返ってみても、それがかえって番組の面白さにつながったのだと思います。
いまのテレビはどれも迷路の出口が決まっていて、出演者たちはその出口に向かって視聴者を誘導していくんですよね。途中に目印がつけられているようなお決まりのコースでゴールを目指すなんて誰も見たくないでしょう。そうではなくて、できることならば想像していた結論じゃないところに連れて行ってくれるような人の話が聞きたいわけです。それは『YOU』のころから今まで僕にとっては当たり前のことで、みんなそうすればいいのにって思っているんですよね。でも特にテレビでは、そうなっていないように感じます。

『YOU』MC最終回(1985)
『YOU』MC最終回(1985)

テレビの未来は“家族”が鍵

テレビ視聴は複数の人が同じ画面を見るという点で家族を前提にしたものだと思います。ある時代の家族の模型を作るときの中心になったとも言える。それが核家族化が進んで、テレビも個人視聴になったことを考えると、やはり家族の変化に左右されているんですよ。
現代では家族の価値が薄れ、そのために少子化が加速しています。家族像がないから子どもを産む必要がないのかもしれません。そんななかで、もはやテレビができることはあるんだろうかと思いつつも、どこかで「わからないな」とも思うんです。
フランスでは家族は血のつながりばかりではなく、人種を超えて親子になったり一緒に暮らす仕組みがありますが、日本も遠くない未来にそれが当たり前の社会がやってくるのではないかと思うんです。そのとき家族という単位はすごく都合がいいなと皆が思い、戻ってくるとしたら、テレビがランドマーク的な存在になるんじゃないかな。「みんなで見ると面白い」と思えるかで、テレビの運命が決まるとしたら、そのときテレビに何ができるのか。いまから考えてみると面白いかもしれません。

2023年1月本取材時 ほぼ日神田ビルにて
2023年1月本取材時 ほぼ日神田ビルにて

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