黒柳徹子

黒柳徹子黒柳徹子

テレビがはじまった日

本日よりテレビはじまります

 まもなくテレビが始まって70年ですか、そうすると私は90歳くらいになりますが、まだ現役でテレビに出ていられたら嬉しいですね!

 テレビが始まるって聞いた時、20歳の私はもうNHKの養成所にいました。でも、テレビがどんなものか全然分からなくて。最初はお相撲が見られるって、お相撲さんがどうやってあんな箱の中に入るんだろう、なんて思うぐらいの幼稚さでした。ただテレビっていうだけで、その映画みたいなものの小さくなってるものが箱の中に入って家の中で見られるって、そういう説明がなかったんですよ。だからどういうものか見当もつかなかったですね。
 NHKが初めてテレビを放送した日は、えんび服を着た有名な男のアナウンサーが「NHK、JOAK」に続けて「本日よりテレビの放送を始めます」とおっしゃったそうです。それは私は見てないんです。だって、みんなの家にまだテレビなかったから。

『東京放送劇団 公演』(1954)出演時 本多文子(左) 東京放送劇団に入団した頃(1953)
上.『東京放送劇団 公演』(1954)出演時 本多文子(左)
下.東京放送劇団に入団した頃(1953)

テレビに出た時の母の感想

 はじめてテレビで司会をやった時のことですが、その仕事が終わった後にNHKの向かいの喫茶店で、両親と一緒にご飯を食べることになったんです。私が「どうだった?」て聞いたら、母が「良かったんだけど、どうしてお面かぶってたの?」て言うんです。私は「かぶってないわ」て言ったんですが、母は「うそ、キツネのお面をかぶってたわよ」って。
 よく考えてみたら、走査線っていうのが横にあるじゃないですか。それで顔が白くて髪の毛が黒くて、コントラストが強すぎて、口がこういうふうに裂けて見えるんです。だから母は、声は私なんだけど、キツネのお面をかぶって出たって最後まで信じてたみたい。初めの頃の映像は、そういうものだったんですね。

『子供の時間』(1957)出演時里見京子(中央)横山道代(右)
『子供の時間』(1957)出演時
里見京子(中央)横山道代(右)

生放送でのビックリ事件

手錠事件と終わりフリップ

 私が生放送の中で最もビックリした事件なんですけど。番組がはじまった時に、刑事が犯人を捕まえて、自分の手と犯人の手をガチャンと手錠でつないだんです。それから話としては、犯人は留置所でゴロゴロして、刑事は家でご飯を食べる、という展開だったんです。でも、手錠の鍵がなくなっちゃって二人が離れられなくなっちゃったの。探してもどこにも鍵がなくて… 結局仕方なく、刑事が家に帰ると犯人役もついてくることになって。ご飯食べる時もちゃぶ台の下に犯人役が潜ったりして、刑事の子どもはビックリして見たりしてて(笑)。
 そういう場合、15分くらいやってもうこれ以上続かないってなるとね、「終わり」ていうフリップをカメラの前に出すんです。スタジオには「終わり」フリップがいっぱい落っこってて。そうするとそれでもう終わりになっちゃうんです。今だったら考えられませんけどね。私はずいぶん「終わり」フリップを出しましたよ。

『午後のおしゃべり』(1959)出演時 渥美清(右)
『午後のおしゃべり』(1959)出演時 渥美清(右)

『若い季節』セリフの一人語り

 若い役者さんがいっぱい出ていた『若い季節』も生放送でした。番組のある回では、父役だった小沢昭一さんのセリフを全部言ってあげたことあるんですよ。小沢さんが、セリフを忘れちゃったのか初めから覚えてなかったのか、何も言わないから「あなたこういう風に言おうと思ってやしない?」てね。「うん」て言うから、「私もそう思ってたんで、私はあなたに対してこういうふうに言おうと思うんだけど、そうするとあなたはこうこうこういう風に思うでしょ?」て言うと、「うん」て。どっかで思い出してくれると思っていたんだけどぜんぜん思い出さないから。結局全部言ってあげて、1シーン全部ね。「あの時は助かったよ」って小沢さんに言われましたけどね。相手のセリフも覚えなきゃいけないのは大変でしたけど、当時からできました。

『若い季節』(1961)出演時 ハナ肇(左)
『若い季節』(1961)出演時 ハナ肇(左)

出演番組の思い出

『夢であいましょう』

 『夢であいましょう』は、渥美清さん、坂本九さん、三木のり平さん、E.H.エリックさん、岡田眞澄さん…、ほかにも多彩な顔ぶれがそろった豪華で明るい、華やかな番組でした。コント、歌、踊りなど色んなエンターテインメント要素がつまっていて、私はコントに出たり、ときどき司会もしながら、「リリックチャック」というコーナーで詩を読んでいました。なかでも印象的なのは歌のコーナー。永六輔さんの作詞、中村八大さんの作曲で、毎月一曲、オリジナルソングをお送りしていて、「上を向いて歩こう」や「こんにちは赤ちゃん」などのヒット曲が次々と誕生したんです。番組に携わる誰もが情熱にあふれていましたので、それを補ってあまりある魅力的な番組だったのではないかと思っています。

『夢であいましょう』(1964)出演時
『夢であいましょう』(1964)出演時

『NHK紅白歌合戦』

 『紅白歌合戦』の司会を初めて担当したのは仕事を始めて5年目くらいのとき。私は25歳くらいで、最年少の司会者といわれました。当時はまだNHKホールはなく、新宿コマ劇場(1958年・第9回)を借りて放送していました。歌手の皆さんは紅白とダブって別の仕事の予定を入れていたので、番組開始時間になっても皆さんいらっしゃらないということもあって本当に大変でした。
 それから22年後の1980年から4年連続で紅組の司会をしましたが、最初に司会をした頃とは全く様子が変わっていました。付いてくださるスタッフさんが何人もいらして、「次はこれです」と教えてくださるんです。それでも生放送で何かあるといけないので舞台が見えるところに特別に小さい小屋を作っていただいて、そこで衣装替えをしたりしていました。何かあったときに飛び出していけるのは司会者だけですものね。

『第9回 NHK紅白歌合戦』(1958) 『第31回 NHK紅白歌合戦』(1980) 山川静夫アナウンサー(右)
『第9回 NHK紅白歌合戦』(1958)
『第31回 NHK紅白歌合戦』(1980) 山川静夫アナウンサー(右)

黒柳徹子のテレビ論

テレビは永久の平和をもたらすもの

 私がNHKの養成所にいてテレビに出る前なんですけど、アメリカのテレビ局NBCからプロデューサーが来て私たちに向けてお話をなさったんです。「テレビは今世紀最大のメディアになるだろう、世界中のあらゆるものをテレビで見ることができるようになるだろう、そして、テレビをどう使うか良く使えば、良くもなり、みんなが幸せに暮らすこともできるんだ、テレビは永久の平和をもたらすものだと信じている」とおっしゃったのが強く印象に残りました。それを聞いて、私はテレビに出て自分も平和を守ることができるんだったら嬉しいから、一生懸命テレビに出るようにしたんです。だからあの言葉は今でも心に残っていて “テレビは世の中に平和をもたらす” それはとても大事なことだと思います。

『NHKニュース10』(2002)ユニセフ親善大使としてアフガニスタンを再訪
『NHKニュース10』(2002)ユニセフ親善大使としてアフガニスタンを再訪

テレビは正直であるべき

 やっぱりテレビは本当のことをやらなきゃダメだと思うんですよね。隠し事したりしても人は絶対にわかるでしょ。だから私は、テレビは正直であるべきだっていつも思っています。私が以前やっていた『ザ・ベストテン』(TBS系)という番組では、歌手の方が出たくないとか言うと、「この方はお出になりません」と正直に言いました。百恵ちゃんの代わりにランキング外の歌手を紹介する方法もあったのですが、私はそれは嫌だったんです。で、やっぱり視聴者はあの番組が好きで、毎週40%近く視聴率がありましたから。正直にやるのが大事だって思います。

『100年インタビュー』(2011)出演時
『100年インタビュー』(2011)出演時

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