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戦後78年 激戦地に通って半世紀 遺骨収集にかけた情熱の訳は

  • 2023年09月06日

太平洋戦争の激戦地だった南洋の島に半世紀近く通い、戦没者の遺骨収集を続けた男性が徳島にいました。多くの時間と費用、そして情熱を注いだ理由を家族にも明かすことなく亡くなって数年。遺骨収集にかけた男性の思いをたどりました。

太平洋戦争の激戦地に通い続けた神職

森茂丸さん

徳島県阿南市の「金刀比羅神社」で神職を務めていた森茂丸さん(享年68)。関東の大学在学中に遺骨収集事業に応募して以来、半世紀近くに渡って太平洋戦争の激戦地に通い、遺骨収集を続けました。

テニアン島を訪れた森茂丸さん(左)と知人たち

森さんは遺骨収集だけでなく激戦地の歴史も知ってもらおうと、多くの知人を現地に誘って慰霊祭も行ってきました。しかし多額の渡航費や滞在費のほとんどをみずから負担して続けた真意は、周囲に明かすことなく、7年前にがんで亡くなりました。

南洋の激戦地 テニアン島

森さんが毎年のように通ったのが北マリアナ諸島のテニアン島です。サイパン島から約5キロ離れたアメリカの自治領で、日本からは飛行機で南に3時間半の距離にあります。戦時中はサトウキビの栽培で栄え、旧日本軍の南洋最大の飛行場も置かれた島には、日本から来た開拓者や軍人が数多く暮らしていました。

テニアン島にアメリカ軍が上陸する様子

しかし太平洋戦争末期の昭和19年にはアメリカ軍が上陸して激しい地上戦になり、約1万5500人の日本人が亡くなったとされています。 
政府は昭和28年からこの島で遺骨の収集を始めましたが、今も多くの遺骨が残されています。
 

島に通った父親 その訳を知るために

森茂丸さんの資料を見る息子・日出麿さん

森さんはなぜ島に通い続けたのか。周囲には「格安で海外に行けると思った」と冗談を飛ばしていましたが、政府による遺骨収集の事業がないときには自分で渡航費を負担し、1年に1回から2回ほどのペースで渡航を続けていました。
息子の日出麿さん(ひでまろ)は、兄弟や近しい親族に戦没者がいる訳ではない父親が並々ならぬ情熱を傾ける姿を不思議に思うこともありましたが、いつしか当たり前になっていたといいます。進学と就職で親元を離れ、父親のがんが見つかってからは神職を継ぐため地元に戻りましたが、親子の間で遺骨収集が話題に上ることはありませんでした。そして父親が亡くなり数年たった今、日出麿さんは遺骨収集に多くをささげた父親の胸の内を考えるようになったといいます。 

森日出麿さん
「代がかわった後、いろんな方と神社で話す機会があり父がこんな人だったと聞くと、知っているようで全然知らなかったんだなと改めて感じました。 遺骨収集を続けたのはどういう思いだったんだろうって亡くなってから考えてしまう」。

遺骨収集 ときには身の危険も 

父親の知人(左・中央)と資料を見る日出麿さん(右)

父親の真意を知るため、 日出麿さんはかつて島に同行した知人たちに会うことにしました。 残された遺骨収集時の映像や写真を手がかりに、島での様子を聞きました。 

テニアン島の洞窟内

 父親たち一行が収集に多くの時間をかけたのが、アメリカ軍から逃れた人の遺骨や遺留品がある鍾乳洞の洞窟でした。 暗くて滑りやすい洞窟の中では立つことができず地面をはって移動し、土砂に埋もれた遺骨を手でかき分けたといいます。作業を終えると手や腕には鋭利な刃物で切られたような傷ができ、危険と隣り合わせの作業だったと教えてくれました。

手がかりは1枚の写真

決して楽ではない遺骨収集を続けた真意を知る手がかりがありました。

「スーサイド・クリフ」に立つ森茂丸さん

テニアン島で1人、直立不動で遠くを眺める父親。
戦闘で追い詰められた人が身を投げた「スーサイド・クリフ」と呼ばれる崖で撮影されました。
知人と毎年のように島を訪れた父親は、この崖に来ると人が変わったように真剣な表情になり、周囲に人を寄せつけなくなったといいます。残された写真は知人が離れたところから撮った数少ない写真の1枚です。

父親はいつもこの崖で「海ゆかば」を歌い、故郷から遠く離れた島に眠る人たちに哀悼をささげていました。それは戦時中、家族や友人を戦地に送り出すときに歌われた歌でした。

「戦没者の親戚がいたなら日本に連れてお墓に入れてあげたいと思うだろ。だからしてあげるんだ」。知人を前にいつも父親はそう話したといいます。

父の思いを探りに“テニアンへ”

次の目標を語る日出麿さん

森日出麿さん 
「僕らの家族が亡くなったりしたら、葬式1つとってもいろんな思いをはせるでしょう。英霊 に対しても近い感情があったのかもしれない」

家では冗談ばかり話していた父親には、息子に見せたことのない一面がありました。そのことを知った日出麿さんは今、家族の元に戻れなかった人たちの心を静めたいという使命感が父親を突き動かしていたのではないかと考えています。 

森日出麿さん
「父が命をかけて使命感を持ってやってきたことを少しでも感じ取りたい。改めてテニアン島に行ってみたら、それがほんの少しでも分かるかもしれない。足を運んでみたいと思います」

戦争で失われた命に寄り添い続けた1人の神職の思いが、次の世代に引き継がれようとしています。

  • 安藤麻那

    徳島局 記者

    安藤麻那

    2021年入局
    県政担当を経て市政担当に
    阿波おどりの取材は2年目

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