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村井満 前Jリーグチェアマンのサッカー人生

  • 2023年04月14日

5月15日にサッカーJリーグは30周年を迎えます。川越市出身で、4期8年にわたってチェアマンを務めた村井 満さんに埼玉での思い出、そして、Jリーグでの苦労話について語っていただきました。

(聞き手 さいたま放送局 泉 浩司 アナウンサー)

村井さんは15年近く浦和にお住まいだということですが、浦和の印象はいかがですか。

父親が県庁の職員だったので、県庁の近くにあったとんかつ屋に連れて行ってもらったことがあって、「こんなにうまいとんかつがあるのか、いつか浦和に住みたいな」と思ったことがあります。中華料理屋やうなぎ屋にも連れて行ってもらいましたし、食べ物がおいしい街だなという印象があります。

村井さんは川越市出身で、中学まではバスケットボールをやっていたそうですね。

実は中学にはサッカー部がなかったんです。小学生のときに当時の浦和市立南高校のサッカー部をモデルにした「赤き血のイレブン」という漫画を読んでいたので、休み時間や放課後にはサッカーをやっていたんですが、部活動ではバスケットボールを選びました。

高校は浦和高校に進学します。どんな高校生でしたか。

高校ではサッカーをやると決めていたんですが、周りにはテクニックのある仲間がたくさんいたので、フィールドプレイヤーは無理だと思って、キーパーになりました。高校時代は、半分はサッカー部、あと半分は当時、付き合っていた彼女と大宮でコーヒーを飲んだりしていました。

浦和高校というともちろん勉強も大変なんですが、体育系のイベントもたくさんありますよね。

入学してすぐに10キロのマラソン大会がありましたし、夏の臨海学校では南伊豆の弓ヶ浜で5キロの遠泳をやらされました。「古河マラソン」という50キロのマラソン大会もありましたので、いきなり50キロ走れとか、5キロ泳げとか、なんというか、こんな理不尽なことがあるのかと高校時代は思っていました。

その後、早稲田大学を卒業してリクルートに就職します。1993年にはJリーグが開幕しますが、当時は何をしていたのですか。

試合に行きたくて、確か応募はがきを100枚くらい送ったんじゃないですかね。結局、当たらなくて自宅のテレビで試合を見ました。試合の雰囲気を感じたくて、観戦した近所の人が買ったお土産の匂いをかがせてもらいました。そのくらい興奮していましたね。

“村井って誰?”

リクルートの執行役員を務めていた2008年には、日本プロサッカーリーグの理事に就任します。どんな経緯だったんですか。

当時、私が社長をしていたリクルートエージェントという人材紹介会社が、社会還元の一環で、プロ野球やプロサッカー選手の引退後のセカンドキャリアの相談サービスをボランティアでやっていたんです。こうしたことがきっかけで、社外から理事を招聘しなければならないとなったときに、私に声がかかりました。

月に1回、理事会に出席していたんですが、私はプロサッカーではなんのキャリアもなかったので、気楽に参加していました。なんの責任もないので、言いたいことを言っていました。

その後、第5代のJリーグチェアマンに就任するわけですが、この話が来たときは、どう思いましたか。

「そんなのできるわけないだろ」というのが最初の感想です。実は、理事の最後の時期は、会社で海外事業を担当していて、香港を拠点にアジア各国を飛び回っていたので、Jリーグの試合も観ていないんです。選手もやったことがない、監督もやったこともない、クラブで働いたこともない、協会で働いたこともない、しかも直近は試合も観ていない、月に1度、日本に帰って理事会に出ていた気楽な立場だったんです。

実際に就任していかがでしたか。

「お前は誰だ」という感じですよね。クラブの受け付けを訪ねても、「どちら様ですか」と言われました。それはそうですよね。誰も知らないですから。

“素人チェアマン”の決断

チェアマン時代にはいろいろなことがあったと思いますが、その一つにJリーグの人気低迷がありますね。

就任当時は、Jリーグが発足以来、蓄積してきた残余財産が底をついて、審判を派遣するお金もないくらいの状況でした。人気が低迷すればメディアへの露出も減ってきますし、クラブの経営状況も悪化するという悪循環のなかで、まず財政の建て直しが必要だと感じました。

具体的にはどんなことをされたんですか。

すぐに人気が回復するわけでもないので、まず「チェアマン4つの約束」というポスターをつくりました。遅延行為はやめよう、審判に抗議するのはやめよう、リスタートは早くしよう、といった約束を掲げたんです。

周囲からはサッカーをわかっていないとさんざん文句を言われました。こちらも負けるわけにはいかないので、2014年のブラジルワールドカップの本大会の試合でコーナーキックまでにかかった時間を全部、計測しました。ワールドカップでは26.4秒でコーナーキックを蹴っていたんですが、Jリーグでは30.6秒だったんです。素人チェアマンなりに、こうしたファクトを提示しながら、スピード感のあるサッカーをやろうよと説得していきました。

任期中には無観客試合の決定もありましたね。

就任直後の2014年3月にさいたまスタジアムで開催された浦和レッズとサガン鳥栖の試合で、人種差別的な横断幕が掲げられて、ネットで炎上しました。問題が発覚してから約1週間で私が無観客試合を決定するんですが、日本では前例がなかったので大騒ぎになりました。

Jリークには外国人選手や外国人監督がたくさんいますし、アジアチャンピオンズリーグやワールドカップなど、サッカーは世界とともにあるスポーツなので、やはり許されるべきではないと思いました。逆にJリーグから差別をなくそうと発信していくことが大切なんだとクラブ関係者とは話し合いました。

こうした重い決断をするときには、どんなことを大切にしているんですか。

“天日”にさらすということですね。悪いことはだいたい密室で起きるんです。人が見ていないと問題が起きるんだとすれば、常に“天日”にさらすことが大切じゃないかと思っています。

例えば、コロナ対策では議論したことをすべて公開しました。2020年だけでコロナ対策の会見を71回も開いています。会見ではいろいろなところからお叱りや意見をいただくんです。最初は叩かれてつらいんですが、叩かれているうちにどんどん情報が集まってくるんです。怖いんですが、とにかく自分を“天日”にさらすことがいいと思っています。

ことしはJリーグ発足30周年です。

30年前は単なる一人のファンだった立場からすると、発足当初は10クラブだったのが60クラブに増えて、プロサッカーが地域にあるのが当たり前になってきてました。去年はサッカーがワールドカップで盛り上がって、ことしは野球がワールド・ベースボール・クラシックで盛り上がりました。国民を一つにできるスポーツを築くことができたことは、本当にすごいことだと思っています。

キャスターからひと言

ビジネス用語の一つとしてPDCAという言葉があります。Plan(計画)、Do(実行)、Check(評価)、Action(改善)の頭文字をとったものですが、村井さんはチェアマン就任後、職員に対してPDCA にMiss(失敗)を加えてPDMCAにしようと呼びかけたそうです。

「サッカーは失敗することが前提のスポーツなんだ。サッカー選手は失敗しても常に立ち上がっている。我々が失敗を恐れてはいけないー」と話したということです。サッカーには、人間の営みやビジネスにつながるものがあるのだと感じました。

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