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  • 2023年7月28日

上野駅 開業140周年 “津軽弁響く 故郷とつながる心の駅”

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今からちょうど140年前に開業した上野駅。

戦前から東京の北の玄関口として発展し、戦後、「金の卵」と呼ばれた若者を乗せた集団就職列車の終着駅などとして高度成長期の日本の歴史に刻まれています。

そんな駅を『懐かしの場所』と語る人がいます。 
60年あまり前、就職のために上野駅に降り立った82歳の男性に思いを聞きました。

津軽弁響く 上野駅

「社会人としてスタートした場所」

こう語るのは、横浜市に暮らしている青森県出身の塩谷家久(82)さんです。

地元の高校を卒業した昭和35年(1960年)、都内に本社を置く保険会社に就職するために降り立ったのが上野駅でした。夜行列車のベッドに揺られること12時間、たどり着いた駅には、どこか故郷を感じさせる雰囲気が漂っていたと言います。

塩谷家久さん 
「あの当時は、東京都内と違う雰囲気がありました。駅のホームに降り立ったときは津軽弁も響いていて、温かさがあるというか人情味があるというか、駅員さんも東北の人のような感じがしました」

時代と共に役目が変わる上野駅

塩谷さんが降り立った上野駅は、明治16年(1883年)7月28日、いまからちょうど140年前、埼玉県の熊谷との間を結ぶ鉄道の始発駅として開業しました。

集団就職列車で上京した若者たち 上野駅(撮影 1964年3月)

戦前から、東京の北の玄関口として発展し、戦後、集団就職列車が運行されたほか、中国からパンダが来園した上野動物園の最寄り駅となるなど高度成長期の日本の歴史が刻まれています。

レンガ造りで瓦ぶきの最初の駅舎は、明治18年に完成しました。

東京の北の玄関口 国鉄上野駅の2代目駅舎外観(撮影 1931年11月)

最初の駅舎は、100年前の関東大震災で焼けますが、昭和7年(1932年)、今の駅舎となりました。鉄筋コンクリート製の地上3階、地下2階の駅舎で、車寄せが設けられるなど近代的な設計になっています。

昭和30年代から40年代にかけては集団就職列車の終着駅となり、東北などから上京した若者にとっては、昭和33年(1958年)に完成した東京タワーなどとともに、心の風景のひとつにもなっています。 

昭和39年に発売された「あゝ上野駅」は、青森県出身の歌手、井沢八郎さんが歌い、「金の卵」と呼ばれた集団就職で上京した若者たちの心の応援歌として大ヒットし、今も歌い継がれています。

そして、昭和47年(1972年)、日中国交回復を記念して、上野動物園に、ジャイアントパンダのカンカンとランランが来園し、最寄り駅の上野駅は、パンダを一目見たいという多くの人でにぎわいました。

さらに昭和60年(1985年)には東北新幹線と上越新幹線の終着駅となりました。

その上野駅に転機が訪れたのは平成3年(1991年)、新幹線が東京駅まで延長され、終着駅としての座を奪われます。

そして、東北線と東海道線が直接結ばれるなど北の列車の終着駅のイメージは薄れつつありますが、多くの人にとって今も「心の駅」として記憶に刻まれています。

ONとOFFのスイッチが切り替わる場所

上野駅から社会人としての歩みをスタートさせた塩谷さんは、保険会社に入社後、寝る間も惜しみ業務に励んだと言います。

激務が続くなかでの楽しみは盆や正月の帰省でした。

青森に帰るときには、奮発して土産をたくさん買い込み、大荷物を手に上野駅発の夜行列車に飛び乗ったと言います。そのときを振り返ると帰省の際は駅で少し気が緩む感覚になっていたといいます。

塩谷さん 
「青森に帰ると友人・知人に会えるということで駅に来ると『ホッとした』部分がありました。逆に青森から上野駅に到着し、ホームに降り立つと『仕事を頑張るぞ』と気が引き締まりましたね。私にとってあの当時の上野駅はONとOFFのスイッチを切り替える場所だったんです」

~家族との思い出も~ 
その後、31歳で結婚、3年後には長女も授かりました。 
家族ができてからも上野駅との関係は深く、京都勤務を終え、再び関東で働き始めてから長女を連れてジャイアントパンダを見るために上野動物園や、国立科学博物館に行く度に利用しました。 
さらに、家族で青森に帰省する際も上野駅を使用し、思い出深い場所となっていったと言います。

塩谷さん 
「青森へ向かう列車が出発するホームの売店で、お弁当と緑色の半透明の容器に入った熱々のお茶を買って、揺られる車内で食べたことを思い出します。いまも上野に来ると必ず構内を一周するんですが、売店を見ると、その当時のことが目に浮かび、思い出に浸る自分がいます」

青森出身者にとって心の駅

18歳の時、親しくしていた人に見送られ、故郷を離れてからさまざまな場面で上野駅を利用してきた塩谷さんは、保険会社を勤め上げ、いまでは関東地方で暮らす青森県出身の人たちなどで作る「東京青森県人会」の事務局長を務めています。 
会員と話すなかで、自分と同じように上野駅に特別な思いを抱いている人が多いことに気づきました。

このため、東京・千代田区や豊島区のイベント会場で開いていた青森県の特産品などを販売する「青森人(びと)の祭典」を5年前、塩谷さんは駅の前の上野公園で開くことにしたのです。

塩谷家久さん 
「関東地方で暮らす青森県出身者にとって『上野駅』は懐かしの場所です。私と同じように上京して初めて降り立った場所が『上野駅』という人も居れば、故郷から訪れた両親、友人、知人を出迎えた場所、または見送った場所ということでたくさんの思い出が詰まった場所なんです。昔は上野駅と言えば東北出身者のたまり場だったが、今はその名残はありません。時代の流れと共に東京の北の玄関口という役目から通過駅となってしまい、どこか寂しい気持ちはありますが、私たち青森出身者の心の駅なんです」

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