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「福田村事件」を伝え続ける人たち

現代の我々に問いかけるものとは
  • 2023年08月31日

関東大震災からことしで100年。発災直後、「朝鮮人が井戸に毒を入れた」などと流言が広がり、多くの朝鮮人や中国人が殺害された。一方で、日本人が殺された事件をご存じだろうか。「福田村」、現在の千葉県野田市で、幼児や女性を含めた9人の日本人が朝鮮人と間違われたことなどをきっかけに地元の自警団に殺された事件である。事件の引き金となったのは、震災直後の混乱の中、募る不安や怒りから生まれた「流言」だった。長くその詳細は語られてこなかったが、いま、様々な形で伝え継ごうとする人たちがいる。その思いとは、そして、今を生きる我々に問いかけるものは何か。

(千葉放送局成田支局記者 武田智成)

福田村事件とは

事件を伝える新聞記事

福田村事件は、関東大震災から5日後の1923年9月6日に起きた。当時、震災直後に「朝鮮人が井戸に毒を入れた」などと流言飛語が飛び交う中、各地では自警団が結成される。福田村でも、消防団や在郷軍人などから構成された自警団が結成され、村内の警戒にあたっていた。

一方、香川県から薬の行商に来ていた15人の一行がいた。一行は家族や親族で行動し、福田村を訪れていた。村を流れる利根川から対岸の茨城県へ渡ろうと渡船場に行ったのち、近くの神社の鳥居に6人、そこから30メートルほど離れた水茶屋のベンチで9人が休憩していた。すると自警団がやってきた。「見かけない者だ」と一行を囲む自警団。団員の中には、一行を朝鮮人だと疑う者もいて、これをきっかけに一行を襲い、9人が殺害された。

生き残った男性の手記

生き残った男性が襲われた時の様子を綴った手記が、香川県の文書館に残っていた。男性が事件後、裁判に備え、資料として利用するために書いたと言われている。長らく眠っていたが、7年ほど前に文書館に寄贈されたという。

手記の記述

「取井ノソバデ、休ミテ居リタ処エ/青年会、シヨボ、在郷軍人ガキテ/
鮮人ジヤトユウ人モアリ/棒ヤトビグチヲモッテ頭エブチコンダ」

(鳥居のそばで、休んでいたところへ/青年会、消防、在郷軍人が来て/
「鮮人じゃ」と言う人もあり/棒やとびぐちをもって頭へぶち込んだ)

今回の取材で、被害者の遺族がNHKの取材に応じ、事件後の地元での様子を教えてくれた。

取材に応じる遺族の男性

遺族の男性

「生き残った一行が帰ってきて、『ほかの人は殺されたんだ』と。それはいかんという話で、住民らが神社に集まって『今から千葉に行くんだ』『みんな人を集めていくんや』と。『抗議に行くんや』と。それを村の女子衆というか女の人たちが、『殺されたらうちらどうするの』となだめて、みんなで泣いて終わった」。

一方で事件については、被害者の地元でもほとんどの人は知らないという。その理由についてはこう口にした。

遺族の男性

「もともと福田村事件を知っている人というのは、ごくわずかだったと思う。その事件すらも知らない人がほとんどだし、良いことだったらそれは次の世代にもこうだったと伝えると思うんだけど、やっぱりそういうことって、みんな蓋をするをするじゃないけど、隠して言わない」。

地元で歴史を刻む

「知っている人もみんな話したがらない」。野田市の現場の近くに住むある男性が口にした言葉である。事件が起きた野田市でも事件は語られていない。男性によると、かつては町の祭りなどで若者と高齢者が交流する場があり、事件の話を伝え聞くこともあったが、その祭りもなくなり伝承される機会がなくなったという。

市川正廣さん

その野田市で事件を地元の歴史として伝え続ける人がいる。市川正廣さんだ。かつて野田市役所に勤めていたが、1980年代に事件の記事を見て初めて知った。

市川正廣さん

「率直に言って、まさかと思いました。全く知らず、誰からも教えてもらっていません。周りの人に聞いても、誰も知りませんでした。地元、旧福田村の人にも聞きましたが、みんな黙して語らず。これはまずいと思いました。しっかりと地元と歴史として残すべき。やはりあった史実は、負の歴史です。誰でもつらいです」

2003年に建立された慰霊碑

負の歴史こそ伝え続けるべきと思いたった市川さん。一足早く香川県の市民グループが事件を調べていたが、千葉県側でも市川さんらを中心として市民グループを結成する。被害側の香川県、そして加害側の千葉県のグループが一緒になって活動を始めた。関東大震災から80年となった2003年。事件をしっかりと野田市の歴史として刻もうと、両グループが協力して慰霊碑を建立した。建立後は、県内外から慰霊碑を訪れる人たちに、現場を見せながら詳細を説明し、事件を伝え続けている。野田市の住民によると、慰霊碑があることで、事件について知らない人も知るきっかけになっているという。

市川正廣さん

「多くの方々に、ただ知っただけではなくて、二度とこういうことを起こさないという人権問題として、100年前に起きたことであっても今現在にもつながる差別問題をしっかり見るためにも、このメモリーはあると思います。差別のない社会作り、人権尊重の社会作りにこの碑は大きな意味を持つ」。

本で記録する

辻野弥生さんの著作

ことし6月、注目の本が再版された。福田村事件について丹念な取材を重ねてまとめた、一冊の本だ。執筆したのは作家・辻野弥生さん。彼女がこの事件を知ったのは、地元の千葉県流山市で関東大震災について取材していたときだった。野田市のある住民から「調べてほしいものがある」と連絡があったという。

辻野弥生さん

辻野弥生さん

「野田の人が突然やってくきて、『こういう事件があるので、書いてくれませんか』と言われました。地元で事件のことはタブーで、『野田の人間にはあと50年は書けない』と」。

事件の概要を聞き、関心を持った辻野さんはさっそく取材を始めた。しかし、いきなり壁にぶちあたった。事件に関する資料が乏しく、手がかりがなかったのだ。ほとんどが口頭での伝承であったため、活字で残っていなかった。

辻野弥生さん

「一番私ががっかりしたのが、活字も何も残っていなかったこと。その時は力が抜けましたね。どうやって調べようかと。でも同時に、たくさんの人に知ってもらうにはやっぱり活字で残す必要があると思いました。それでやっぱり書いておかなければならないと思いましたね」。

わずかに残る当時の新聞記事を頼りに、現地に赴き取材を重ねていった。2013年に書籍化を実現する。そして関東大震災から100年にあたることし、改めて事件が注目され、本が再版された。辻野さんは今の時代にこそ、この事件のことをより多くの人に知ってもらう必要がある考えている。本の冒頭にはこのような辻野さんの思いが綴られている。

「福田村事件も朝鮮人虐殺も、過去の不幸な出来事と片づけることはできない」。

辻野弥生さん

「今、違う形で、ネットの中で誹謗中傷を書き込んだりして人を死に追いやるようなこともある。竹槍のような武器が、ネットに代わってしまっている。この恐ろしさは、今の時代もある。活字にしておけば残りますからね。やはり刻んでおくことは大事です。決して歴史の闇に消えていかないよう、特に若い方にぜひ語り継がねばなりません。本を通じて、学んでもらいたい」。

今に突きつける問題

この福田村事件を、なぜ今、語り継ぐことが重要なのか。市川さんと辻野さんは、100年前、差別意識を背景に朝鮮人に関する「流言」が広がった状況は、今の時代でも繰り返されるおそれがあるからだと指摘する。その理由はなぜか、そして、どうすれば流言は防げるのか。災害時の心理と行動に詳しい東京大学大学院の関谷直也准教授に聞いた。

東京大学大学院 関谷直也 准教授
(肩書は取材時)

関谷直也 准教授

「災害など非常時に流言が発生して広がる理由としては、不安というのが非常に大きな要素だと考えられています。多くの人が急に不安になる時、そういった流言というのが広まりやすい。また、その不安というのもあるんですけども、同時に多くの人が同じような心理になったときに、流言は広まりやすい」

関東大震災では朝鮮人や中国人が攻撃の対象となったように、専門家はこうした不安感の蓄積や流言の広がりから、弱い立場の個人や集団への攻撃につながることがあると指摘する。

関谷直也 准教授

「例えば新型コロナウイルス感染症が拡大した時に、欧米圏でアジア人に暴行を加えるだとか、日本でも例えば、営業している商店に嫌がらせをしたりといったことがあった。新型コロナウイルス感染拡大の時は不安だったし、感染が怖かった。そういった不安を抑えるために、それが誰かを攻撃対象として向かってしまったことは、紛れもない世界中で起こった事実です」。

流言を広げないために、我々はどうすればよいのか。

関谷直也 准教授

「災害時には流言は発生するものだと、それを前提に考えることがまず重要です。間違った情報かもしれないと思ったらまずそれを人に伝えない。それを1人1人心がけるだけで流言の広がりというのは防ぐことができます」。

こうした悲劇につながらないためにも、関東大震災をはじめとする歴史を知っておくことは大切だという。

関谷直也 准教授

「災害のときに『外国の窃盗団がうろついている』とか、ヘイトに繋がりやすいような流言というのは必ず発生しています。ですので、きちんと過去のことや、関東大震災の流言のことを学ぶこと。100年経ってもその重要性は変わらないと思います」。

9月6日 事件100年目の追悼式

事件から100年となる9月6日、犠牲者を追悼する式典が開かれた。市川さんらが20年前に建立した慰霊碑に、地元の人たちや被害者の遺族、それに香川県の行政関係者などおよそ80人が集まった。それぞれが花を手向け、黙とうを捧げていた。

市川さんも参列。事件を伝えていく思いを新たにした。

市川正廣さん

「多くの方に足を運んでもらって良い式となりました。しかし、事件の背景にある差別問題は今も続いています。差別のない社会を作るため、改めて事件を知ってもらいたい」。

今回、遺族として取材を受けてくれた男性の姿もあった。

遺族の男性

「初めて慰霊碑の前に立ち、怖かっただろうな、香川に帰りたかっただろうなという被害者の思いが伝わってきました。事件を風化させないためにも、千葉の人たちにも事件を知ってもらいたい」

取材後記

福田村事件の取材を始めて1年ほどがたつ。千葉県以外にも被害者の出身地、香川県にも赴き、取材を重ねてきた。振り返れば取材を始めた当初は、この事件は何だったのか、なぜ起きてしまったのかをただ知りたいという好奇心のみで走っていたように思える。

しかし取材を続ける中で、周りから「これ以上事件を蒸し返さないほしい。私たちはただ平穏に暮らしたいだけ」という言葉をかけられた。せっかく忘れかけていた事件をまた思い起こさせる。報道することで、今を生きる方々に被害がおよぶのでは。葛藤が生まれた。それでも事件を伝え続ける市川さんと辻野さん。「暗い歴史、そこにこそ学ぶべきものがある」。お二人の思いに触発されながら、改めてなぜ取材をするのか、自分の中で問いかけ続け、報道につなげた。今回、様々な人との出会いで、学ぶものも非常に多かったが、私たちの仕事が何のためにあるのか、改めて考える機会にもなった。

  • 武田智成

    千葉放送局成田支局記者

    武田智成

    2018年入局。現在、成田空港などを担当。人権や戦争に関心あり。

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