震災後に生まれた子どもたちへ
- 2024年04月11日
13年前、小学6年生で震災を経験し、大好きな祖父を亡くした三浦美咲さん(25)。
祖父のような犠牲を繰り返さないために「命を守ることの大切さを次の世代に伝えたい」と、小学校の先生になりました。今年の3月11日、震災を語り継ぐ全校集会で自身の体験や思いを話した三浦さん。震災後に生まれ、震災を経験していない子どもたちに、どうすれば震災を “自分のこと”として考えてもらえるのか。その言葉を探す日々を見つめました。
(NHK仙台放送局 上林幹)
「命に“替え”はありません」
東日本大震災から13年となる2024年3月11日。宮城県気仙沼市の小学校で毎年行われている震災を語り継ぐ全校集会が今年も行われました。
全校児童 約120人の前で震災の経験や当時感じたことを話した三浦美咲さん。 真剣なまなざしで、優しく語りかけるように、子どもたちに伝えました。
(三浦美咲さん)
私は津波で家が流されました。お気に入りの服もなくなってしまい、がっかりしました。
でも、これって全部”代わり”があるから、先生はあまり気にならなかったの。
では、代わりがないものって、みんな何だと思う?
――――それは「命」です。
“子どもたちを助けられる先生”になりたくて
13年前のあの日、小学6年生だった三浦さんは、南三陸町の小学校で激しい揺れに襲われました。
津波は学校の2階まで到達しましたが、先生たちの誘導で高台に逃れ、103人の児童は全員無事でした。
(三浦美咲さん)
避難する過程で、いつも歩いていた場所に波が押し寄せたりして「もうだめだ」と思いました。
自らは津波を逃れた一方、大好きだった祖父の敏勝さんを亡くしました。
建設業を営んでいた敏勝さんは、従業員を全員避難させた後、現場で津波に巻き込まれました。
約1週間後に重機に乗っている状態で見つかったと知らされた三浦さん 「祖父も津波から逃げることができたのではないか」と考えていました。
(三浦美咲さん)
すぐに逃げれば助かったのに、ほかの人は助かっているのに、なんでおじいちゃんだけ流されて死んでしまったのだろう、悔しいなって・・・
祖父を亡くした悲しみの中、1ヶ月あまり遅れて行われた小学校の卒業式。
命を守ってくれた先生たちと久しぶりに再会した三浦さんは
「自分が救ってもらったように、今度は自分が子どもたちを助けられる先生になりたい」と決意し、
小学校の先生を目指すようになりました。
取材のきっかけは 三浦さんの“決意”を記録した映像
NHK仙台放送局の資料室には、震災発生直後から各地で取材した膨大な映像が今も大切に保管されていいます。「2011年4月29日」と書かれたテープを再生すると、まだがれきが残る小学校の校庭のようすなどが映し出された後、卒業式に臨む三浦さんの姿が収められていました。久しぶりに会う友達や先生と笑顔で話していて、再会を喜んでいるようでした。
さらに、震災から8年後の2019年8月。NHKは大学で防災教育について学ぶ三浦さんを取材していました。映像には、ゼミの仲間とともに、震災当時子どもたちを避難させた経験を持つ小学校の校長先生から話を聞く姿が映っていました。三浦さんの真剣な表情から「命を守る先生になる」という決意は変わっていないことが強く伝わってきました。
これらの映像を元に取材を進め、三浦さんが先生になる夢を叶えたことを知った私は、去年11月 「命を守る大切さ」を子どもたちに伝えている姿を、ぜひ取材させて欲しいと依頼しましたが・・・
「実は、震災のことを何も伝えられていないんです」
三浦さんに初めて会った日に言われたのが、この言葉でした。
(三浦美咲さん) 特別な活動ができているわけではないので、取材をお受けすることはできません・・・
お話を伺いながら「震災を経験した小学生が先生になって、今の小学生に震災を語り継いでいく」という、取材者の描くストーリーを押しつけてしまっていることに気づきました。
向き合っているのは、あくまでも、今の等身大の三浦さん。それは「いつかは子どもたちに震災や防災のことを伝えられる先生になりたい」という思いを変わらず持ち続けながらも、それができない葛藤の中にいる三浦さんでした。
「なぜ、いま子どもたちに伝えられていないのか。震災から13年が経とうとする三浦さんの現在地を、今抱えている葛藤も含めて取材させて欲しい」とお願いし、承諾をしていただきました。
“震災を経験していない世代”に伝える難しさ
カメラでの撮影・取材は2月から始まりました。なぜ震災のことや命を守ることの大切さを子どもたちに伝えられていないのか。三浦さんに質問すると、先生になったばかりの頃の“ある経験”がきっかけになっていることが分かりました。
授業中に、津波で亡くなった祖父のことや、自分自身は高台に避難して助かったことを話したことがありましたが、子どもたちに、どこか遠い世界の出来事として受け止められたように感じたといいます。
(三浦美咲さん)
『先生かわいそう』とか『大変だったんだね』とか・・・そういうことだけ伝わってしまった
私がもっと考えてほしいのは、自分にも起きるかもしれないということ。おじいちゃんの話や、自分が被災したっていう話だけをしても伝わらないんだなと思いました
どういう言葉で伝えれば、震災は自分の身にも起こり得ることとして考えてもらえるのかが分からず、悩み続けていたのです。そんな中、3月11日に全校児童の前で自身の経験について語ることが決まりました。
背中を押してくれた祖母の言葉
子どもたちに伝える言葉を探し続けていた2月末、三浦さんは祖父母の家に向かいました。毎年、祖父の命日が近づくこの時期に、仏壇に手を合わせに行くということで、その場に同行して取材しました。
祖父の敏勝さんに祈りを捧げた後、何気なく始まった三浦さんと祖母・高枝さんとの会話。祖父との思い出を話している中で、高枝さんが先生になった孫・美咲さんに伝えたかったことを語り始めました。
(祖母・高枝さん)
「先生として、子どもたちに“自分の命は自分で守る”ということを、それだけはずっと伝えてほしい。家もなくなって何もなくなっても、とにかく何があっても生きていればどうにかなる。 生きていればね
祖母は、従業員を避難させた祖父・敏勝さんを誇りに思っていましたが、
それでも「自分の命も守ってほしかった」そんな思いを抱いていたのです。
(三浦美咲さん)
どんな災害があっても、命がなければ何もできないし。まずは生きていかないといけないという話を祖母から聞いて、大切な人の命を守るためにも、自分の命を自分で守らなければいけないということを、絶対に伝えなくてはいけないと思いました
「自分の命は自分で守る」
この言葉を聞いた三浦さんは、震災を知らない世代のすぐそばにいる自分が、先生として伝えることの意味を考え始めました。
全校集会 子どもたちに伝えたこと
迎えた3月11日。三浦さんは子どもたち一人ひとりの目を見ながら、話し始めました。
まず、いま自分たちがいる小学校は三浦さんが通っていた小学校と同じように海の近くにあることを伝え、地震が起きた時「自分だったらどうするのか考えて欲しい」と伝えました。
そして、津波で流されてしまった家や大切な服などは新しく手に入れられても、大好きな祖父の命だけは代わりがなかったこと。津波は逃げれば助かる災害。だからこそ何があっても「自分の命は自分で守る」ことを、ゆっくりと、力強い声で伝えました。
さらに、家族や周りの人、将来の人たちに語り継いで欲しいという願いを、最後の言葉に込めました。
友達や家族と話してみてください。 周りの人が自分の命を守るという意識を持つことで、どんどん命を守るという輪が広がっていくんじゃないかな。そしたら災害で命を落とす人が減っていくんじゃないかなぁと思っています
子どもたちは三浦先生の話を真剣な表情で聞き、時折大きくうなずいていました。
三浦さんの思いが、子どもたちにしっかり届いていることがよく分かりました。
命は何にも代えられないという話が一番印象に残りました。災害のことを家族で話したことはなかったけれど、命をどう守るか家族と話していきたい
震災から13年。全校集会を終えた三浦さんは、これからの自分のこと話してくれました。
(三浦美咲さん)
子どもたちが『こういう話を聞いたよ』とか『災害が起きたときどうすればいいの?』とか、家族と話すことで、家族の命を守ることにつながったり、友達と話すことで、ほかの人にも伝わっていくのかなと思います。それがつながって、輪が広まっていって、未来の誰かの命を守ることにもつながるかもしれない。 まだ伝え方が上手じゃないけど、自分の命は自分で守るっていうことを伝え続けられる先生になれたらなと思います
取材を通して、震災後に生まれた、またはこれから生まれてくる子どもたちに対して、震災があったことをどう伝えていくか。三浦さんのように伝え方に悩んでいる人がいることが、13年という月日の現在地なのだと思います。私も報道カメラマンとしてその課題に正直に向き合い、この震災をこれからどう伝えていくのか、しっかりと考えていきたいと思います。
NHK仙台放送局・カメラマン 上林 幹