甲子園 初出場 佐賀・鳥栖工業 その成長を支えたのは・・・
- 2023年08月02日
【鳥栖工業高校 創部以来初の甲子園へ】
鳥栖工業高校は、去年の秋、ことしの春ともに公式戦で初戦敗退。しかし、夏の佐賀大会で選手たちは成長し、ノーシードから甲子園初出場を果たしました。
チームは、タイプの異なる2人の右投手の活躍で勝ち上がりました。
3年生のエース、古澤蓮(ふるさわ・れん)投手は、変化球主体に投げ込み、低めにボールをあつめます。そして、1年生の松延響(まつのぶ・ひびき)投手は、140キロを超えるストレートが最大の武器です。
決勝も、ピッチャー二人の継投をみせ、相手打線を完封しました。
攻撃では、送りバントを確実に得点に結び付けてきました。犠打の数は5試合で24。
決勝でも、5-0とリードした最終回、送りバントでランナーを進め、点をとりに行くチームのスタイルを貫き追加点につなげました。
【“人づくり”が技術向上へ 成長支えた監督の指導】
チームを甲子園に導いた、大坪慎一(おおつぼ・しんいち)監督<47>です。
大坪監督は、14年前、伊万里農林を率いて甲子園初出場を果たしました。その指導方針は、『人間性を重視すること』です。
有名アスリートの考え方などを選手たちに知ってもらおうと、監督みずから録画したドキュメンタリー番組を見せるなどしてきました。
(大坪監督)「人づくりをしながら、野球もうまくなっていくのが一番の理想です。野球以外を伸ばした方が技術も上がってくる。高校野球はそうでありたいと思っています。」
3年前から指揮を執る鳥栖工業でも、王貞治さんや本田宗一郎さんなどのことばをグラウンドに掲げ、選手たちの成長を促してきました。
大坪監督のことばに支えられ、大きく成長した選手がいます。3年生の藤田陽斗(ふじた・はると)選手です。
藤田選手は、去年から4番を任されていましたが、公式戦で初戦敗退が続くなか、みずからも打撃不振に陥り自信を失っていたといいます。
(藤田選手)「4番から7番に落ちてしまって。自分は朝も早く来て、昼や部活の後にも練習したりしていたんですが、結果が出せずに落ち込んで。これまでやってきた努力を疑ってしまっていました。」
公式戦で結果が出ない責任を痛感していた藤田選手。夏の大会前、選手と監督が取り交わす野球日誌のなかで、苦しかった胸の内を素直に明かしました。
それに対し、監督からは・・・
(藤田選手)「『お前がやってきた努力は間違っていないよ』って書いてあって、それを見て涙が出そうになりました。」
(大坪監督)「彼(藤田選手)の一番いいところは、毎朝練習に来る。それを欠かさないこと。彼に言ったのは、『結果が出ても出なくても続けなさい』と、夏の引退まで。周りもそういう目で見るし、『こいつで打てなかったらもう仕方ない』ってなるじゃないですか。そういうのが信頼関係だと思います。」
迎えた佐賀大会、決勝。藤田選手は、0-0の5回にみずからのヒットで出塁し、先制のホームを踏みました。続く6回には、貴重な2点目のタイムリーヒットも打ちました。
(藤田選手)「もし4番だったら長打しか狙っていなかった。7番になってからは、一巡でも多く次の打者にまわしてあげたいと、意識して打球を転がそうと思っていました。」
(藤田選手)「監督からは、『お前しかいない』ということばをかけて頂いて、最後にこういう形で、甲子園に連れていくことができてよかったです。」
(大坪監督)「選手たちに対しては、『成長してくれてありがとう』という気持ちと、誇りに思っています。甲子園では思い切ってやって欲しい。失敗してもしなくても、躍動してほしいという気持ちでいます。」
監督のことばを胸に、この夏成長を遂げた選手たち。憧れの舞台、甲子園で、チームは新たな歴史を刻もうとしています。
【取材後記】
春夏通じて初の甲子園出場を決めた鳥栖工業。佐賀大会で、大坪監督が話していた印象的なことばに、「これまで滑走路を走っているだけだった選手たちが、一気に離陸して飛び立っていったようだ」というものがありました。そのことばの通り、選手たちの表情は、一戦一戦自信に満ちあふれていったように感じます。
決勝直後の取材で、藤田選手から、監督への感謝のことばと野球日誌の話を聞いたことが、今回のインタビューにつながりました。
野球日誌に『どん底を味わった』と記していた藤田選手。公式戦で勝てなかった時期には「自分たちは、県内で一番弱いチームなのではないか」と感じたこともあったといいます。そのチームが夏に花を咲かせられたのは、監督と選手たちとの強い信頼関係が力をもたらしたからだと思います。
野球部のみなさん、甲子園初出場初勝利を目指して頑張ってください!
(池野健アナウンサー)