清少納言の「絶望名言」前編

絶望名言

放送日:2024/04/29

#絶望名言#文学#歴史#大河ドラマ

清少納言に絶望名言はないのでは、と思っていた文学紹介者の頭木弘樹さんに対して、そのイメージは清少納言がそう『枕草子』に書いたからでは、と返す、聞き手の川野一宇さん。今回は川野さんが読み解き、頭木さんが聞き手を務める、清少納言の「絶望名言」です。(今回は紹介者でもある、聞き手・川野一宇)

【出演者】
頭木:頭木弘樹さん(文学紹介者)

あえてキラキラした日々だけを

春はあけぼの。やうやうしろくなりゆく山ぎは、すこしあかりて、紫だちたる雲のほそくたなびきたる。

清少納言(『NHK「100分de名著」ブックス 清少納言 枕草子』山口仲美 NHK出版より)

――今回は清少納言ですね。

頭木:
はい。

――清少納言は平安時代中期の女性で、『枕草子』の作者です。『枕草子』は世界最古のエッセー文学ともいわれています。鴨長明『方丈記』、吉田兼好『徒然草』と並んで、日本の三大随筆のひとつとも言われています。
清少納言がいつ生まれて、いつ亡くなったかははっきりしていないんですが、一説によりますと1025年に亡くなったということで、そうすると来年が没後千年ということになりますね。

頭木:
そうですね。千年前のエッセーが今も読まれているわけですから、大したものですよね。

――そうですねえ。
清少納言は、一条天皇の后(きさき)の藤原定子に仕えていた女房です。女房というのは、今では“妻”のことですけれども、当時は「宮廷や貴族の屋敷で働いている女性」のことです。清少納言というのは女房名(にょうぼうな)、つまり女房として働くときの通称で、本名ははっきりしていません。
そして、今、私は「せいしょうなごん」というふうに申し上げましたが、清少納言という女房名の意味を考えると、「せい・しょうなごん」と区切るような発音になります。ただ今回は、多くの方になじみのある、区切らない発音でお伝えすることにしています。

頭木:
今回、清少納言をお選びになったのは川野さんなんですよね。

――実はそうなんですよねえ。

頭木:
私は最初、「清少納言に絶望名言はないんじゃないですか?」って言ったんですよね。

――ええ、そうでしたね。

頭木:
私の印象では『枕草子』は、清少納言の「私はこんなに気の利いたことを言った」という自慢話がいっぱい入っていて、また、清少納言という人はサロンで明るく騒いでいる、いわゆるパリピ、パーティー・ピープルという印象だったんですよね。

――私も、そういう印象は強いな、とは思っていました。おっしゃるように自慢話ともとれる話がたくさんありますよね。当時、身分の高い女性は、自分の身の周りに気の利いた女性、女房たちを集めて “サロン文化”を展開していたわけですね。清少納言は、定子のサロンで大活躍をしていました。

頭木:
ですから、絶望名言はないんじゃないか、と思ったんです。ところが、川野さんがこうおっしゃったんですよね。「その清少納言のイメージは、清少納言が『枕草子』にそう書いたからなんじゃないでしょうか」と。これには“目からウロコ”でした。
確かに、清少納言がどういうキャラクターかというのは『枕草子』で知っていることだけで、それが実際の清少納言そのままとは限らないですよね。

――そういうことですよね。

頭木:
さらに、川野さんがおっしゃったのは、「枕草子が書かれた時期ですが、実はもう定子は没落していて、かなりつらい状況だったようですよ」と。
これも全く知らなくて目からウロコでした。慌てていろんな本で調べてみると、確かにそう書いてありました。特に山本淳子先生の『枕草子のたくらみ』という本は、定子や清少納言が実際にはどういう状況だったのかが詳しく書かれていて、衝撃的でした。
川野さん、当時の状況をご説明いただけますか?

――私もそんなに詳しいほうではなくて、大体こんなような話じゃないか、ということはわかっていましたけれど、頭木さんにそう言われて慌てて読み直してみました(笑)。
結構ややこしいんですが、かいつまんでお話ししますと、当時、藤原氏が政治の実権を握っていました。そのトップに立っていたのが藤原道隆という人です。藤原道隆は、自分の娘の定子を一条天皇の后にします。その子どもが次の天皇になれば、自分は天皇の祖父になれるからです。
いわゆる政略結婚であったわけですが、一条天皇と定子はとても仲がよかった、ということなんですね。

頭木:
そこはよかったですね。

――定子という人は大変教養もあって、定子のサロンはとても華やかに栄えます。そこに参加したのが清少納言なんですね。ところが、清少納言が出仕してから1年半くらいで、藤原道隆が43歳で病気で亡くなってしまいます。定子は、父親という後ろ盾を失うわけです。
その後、定子の兄弟、つまり藤原道隆の息子と、藤原道隆の弟の藤原道長との熾烈(しれつ)な権力争いが始まります。おじとおいの戦いですね。そして、定子の兄や弟が負けて、地方に流罪となります。つまり藤原道長が勝利します。

頭木:
いやあ、なかなかややこしいですね。定子のお父さんは亡くなり、お兄さんや弟は負けて流罪になって、非常に心細い状態になったわけですね。で、道長の天下になっていく、と。
藤原道長というと「この世をば 我が世とぞ思ふ 望月の かけたることも なしと思へば」という、ものすごい歌が有名ですね。

――そうですねえ。
お話しいただいたように、定子は父親を亡くし、さらに兄と弟も流罪になってしまい、大変ショックを受けて、髪をおろして出家してしまいます。そのあと家も火事で焼けてしまうんですね。さらに、母親の貴子も亡くなってしまいます。

頭木:
いやあ、定子にとっては本当につらい状況ですね。

――しかも、清少納言も定子のそばにいられなくなりました。道長のほうに内通した、と周囲から疑われたんですね。それで仕方なく、清少納言は実家に戻って、こもってしまいます。『枕草子』はどうもこの時期に書き始められたようなんです。

頭木:
一説によるとそのようですね。サロンで楽しく、どころか大変な時期ですね。そういうときに、「春はあけぼの」と書いたわけですね。

春はあけぼの。やうやうしろくなりゆく山ぎは、すこしあかりて、紫だちたる雲のほそくたなびきたる。

清少納言(『NHK「100分de名著」ブックス 清少納言 枕草子』山口仲美 NHK出版より)

とっても有名な一節ですよね。『枕草子』はこの名文で始まります。
春は夜明けがいい、だんだん白んでいく山や雲の様子がなんとも言えない、というような、いわばのどかな感想が書かれているわけですが、実際には定子や清少納言は、春の夜明けどころか冬の日暮れのようなとても厳しい状況にあったわけですね。

――そういうことを清少納言はあえて書かず、言ってみればキラキラした日々だけを書いた、ということになります。

頭木:
だから、厳しい状況をなぜ書かなかったのか、というのがひとつの謎ですよね。ですから今回はいつもと違って、言葉自体が絶望的なわけではなくて、明るい言葉の裏に隠された絶望を読み解くということになるわけですね。

――ですねえ。

頭木:
定子と清少納言のその後も気になるところですね。

定子のサロンだからこそ

宮にはじめてまゐりたるころ、もののはづかしきことの数知らず、涙も落ちぬべければ、夜々(よるよる)まゐりて、三尺の御几帳(みきちやう)の後(うしろ)にさぶらふに、絵など取り出(い)でて見せさせたまふを、手にてもえさし出(い)づまじう、わりなし。「これは、とあり、かかり。それか、かれか」など、のたまはす。

清少納言(『新版 枕草子』(下)石田穣二訳注 角川ソフィア文庫より)

――これは、清少納言が初めて定子のところに出仕したときのことを書いた一節なんですね。
定子に初めてお仕えしたころ、恥ずかしいことばかりで涙が出そうなので、定子のところには夜に行って、三尺の御几帳の後ろに隠れていた。
御几帳というのは部屋の間仕切りや目隠しに使うもので、布を垂らしてあって、その後ろに隠れることができるんですね。
そうすると、定子が絵などを取り出して、見せてくださる。私は手を出すこともできなくて、どうしたらいいかわからない。定子は「この絵はこうなのよ、ああなのよ」などと説明してくださる。
というような内容です。

頭木:
清少納言も最初から大活躍したわけではなく、最初は慣れない勤めで、いろいろうまくいかなくて恥をかいて、泣きそうにもなっていたわけですよね。それを定子がやさしく導いてくれたと、そう書いてあるわけです。ですから清少納言の自慢話というのは、自分自身を褒めるというより、実は定子を褒めているんですよね。すべて定子の指導のたまものであると。

――そういうことですよね。定子を立てて、自分を低める、おとしめる、そういう表現ですよね。

頭木:
全体的にそうですね。容姿に関しても、定子のことはこんなに美しい人がこの世にいるのかというほど賛美して、自分の外見についてはコンプレックスがあるように書いています。

――清少納言の自慢話というより、定子の賛美なんですよね、『枕草子』全体は。

頭木:
そうですね。

――清少納言が出仕したとき、定子は17歳、清少納言は大体28歳くらいだといわれています。

頭木:
10歳くらい違うわけですね。でも年上の清少納言のほうが年下の定子にほれこんでしまうんですね。

――身分の差ということもありますが、定子にはそういうカリスマ性があったようですね。一条天皇も定子のことが本当に好きだった、とのようですね。定子は漢文にも通じていて、とても教養があり、才気に満ちた人だったようです。

頭木:
紫式部の回でもご紹介したように、この当時、男性は漢文を勉強しないといけませんでしたが、女性は逆に、学問をすると不幸になるとまで言われて、漢文を知っていてはいけない、という風潮だったんですね。ですから紫式部もせっかく漢文の教養があるのに、「一」という漢数字さえ書けないふりをしていました。
ところが、定子のサロンではそんなふうに隠す必要が全くなかったんですね。女房でも、漢文を知っていればのびのびとそれを話してよかったわけです。女性だからといって隠さなくていいことは大変な解放感ですよね。これは定子だからこそで、清少納言がほれるのもわかりますね。

――そうですよねえ。『枕草子』は清少納言が漢文の知識を使う話が多いですが、あれも自分の教養をひけらかすというよりは、女性でも漢文の知識を隠さなくてもいい、定子のサロンの自由な雰囲気というものを描いているのかもしれませんね。

頭木:
ですからただの自慢話かと思っていたわけですけれども、こうして事情を知ってみると、印象がまた全然違ってきますね。

――そうですよねえ。

紙が手に入れば気が晴れる

世の中の腹立たしうむつかしう、片時あるべき心地もせで、ただいづちもいづちも行きもしなばやと思ふに、ただの紙のいと白う清げなるに、よき筆、白き色紙(しきし)、みちのくに紙(がみ)など得(え)つれば、こよなうなぐさみて、さはれ、かくてしばしも生きてありぬべかんめりとなむおぼゆる。

清少納言(『眠れないほど面白い『枕草子』――みやびな宮廷生活と驚くべき「闇」』岡本梨奈 王様文庫より)

――これは「紙」について、清少納言が定子や他の女房たちの前で話しているところです。
世の中に腹が立って、生きているのが嫌になって、どこかに行ってしまいたくなるようなときでも、ただ真っ白できれいな紙が手に入ったらすっかり気分がよくなって、もっと生きていてもいいかなと思える、というような内容です。

頭木:
紙くらいでそんなに、と今では思ってしまいますが、この当時、質のいい紙は貴重だったんでしょうね。

――千年前はそうだったでしょうねえ。先ほど、清少納言が定子のそばを離れて実家にこもっていた、という話をしましたが、そのときに、定子から紙がたくさん送られてくるということがあったようですね。清少納言が話した、紙が手に入れば気が晴れる、ということを覚えていて、清少納言に紙を送ったわけです。

頭木:
『枕草子』の執筆時期は正確にはわかっていないので、一説によるとその紙を使って書いたのでは、ということですね。ただ、以前にも紙をもらっていて、そのことも『枕草子』の「跋文(ばつぶん)」に書いてあるので、その紙も使ったのではないかと思われます。
この『枕草子』が評判になることで、清少納言は定子のもとに戻れることになったんでしょうね。

――清少納言は定子へ忠誠を誓った、忠誠心をみんなが理解したということですね、この『枕草子』で。

頭木:
『枕草子』にはそういう役割もあったんですね。

【絶望音楽】シャルル・トレネ「ブン!(Boum!)」

頭木:
今回は、シャルル・トレネの「ブン!」という曲です。

――うーん、懐かしいですね。

頭木:
あっ、ご存じですか?

――はい。私、シャンソンが大好きで、シャルル・トレネもよく聴いていました。

頭木:
これはすごく明るい曲なんですよね。“ブン”というのは胸のドキドキを表しているらしいんですが、いろんなことに胸をときめかせて世界中がブンブンブン、という、もう全く陽気極まる歌詞なんです。でも、どこか悲しさも感じさせるんですよね。そういう明るいんだけどどこか悲しい感じ、というところが今回の『枕草子』にふさわしいかな、と。

――聴きましょう。シャルル・トレネの「ブン!」です。

♫「ブン!(Boum!)」 シャルル・トレネ

――頭木さん、シャルル・トレネが歌っている歌詞の訳が今、手元にあるんですよ。

振り子時計が鳴る チクタクチクタク
湖の鳥は歌う ピクパクピクパク
グルグル グルと鳴くのは七面鳥諸君
きれいな鐘は鳴る ディンダンドン
けれど ブン!
僕らの心がブンと言うとき
何もかも一緒にブンと言う
そして愛が目覚める ブン!

そういう内容が、曲のあたまの部分で歌われています。

頭木:
この曲は『トト・ザ・ヒーロー』という映画でも使われているんです。この曲が流れてくるとなんとも切ないんですよね。とってもいい映画です。

光る君へ

日曜日 [総合] 午後8時00分/[BS・BSP4K] 午後6時00分

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【放送】
2024/04/29 「ラジオ深夜便」


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