追跡 幻の12歳の学徒その足跡から見えたものとは・・・




今年、2020年は終戦から75年 



激しい地上戦が行われた沖縄では、本土より若い14歳以上の子どもたちが戦いの最前線に送られたとされてきました。
彼らは「学徒隊」と呼ばれ、少なくとも2000人近くが動員され、その半数が犠牲になったとされてきました。

その沖縄の学徒に関して戦後、国がまとめた新たな資料が国立公文書館で見つかりました。
資料には、これまで学徒とされてこなかった子どもたちの名前もあり、男子生徒だけで 犠牲者は、これまでよりおよそ200人多い人数が記されています。


その中の1人、玉城現信(たましろげんしん)さんは、昭和7年生まれ。
当時学徒隊が14歳以上とされる中、12歳で動員されたと記されていました
12歳の学徒隊の足跡をたどると悲惨な沖縄戦の実態が浮き彫りになりました。

沖縄県、石垣島。資料に記載があった玉城現信さんのふるさとです。



学徒隊だったという人と会うことができました。潮平正道さん、87歳。 現信さんとは旧制中学の同級生だったといいます

「こんな感じかな。とてもかわいい人だったよ」

潮平さんは、ともに学徒隊に任命された昭和20年春のことを鮮明に覚えていました。

潮平さん
「入学式で校長先生が、君たちは今日から八重山中学の生徒だって挨拶するでしょう、
 すぐにかわって、鉄血勤皇隊(学徒隊)の隊長が挨拶に出て、「君たちは今日から鉄血勤皇隊」って宣言された、入学式のその日に」


このとき2人はわずか12歳。本来、学徒隊には動員されない年齢でした。
その後、潮平さんと現信さんは別々の場所に配属されました。
では、現信さんは、どう戦争を戦い、亡くなったのか。
資料には通信隊の作業に加わり、 その後、マラリアにかかって亡くなったと書かれています。


当時の状況を探ろうと、地元の歴史に詳しい住民に通信隊の基地があった場所を案内してもらうと、そこは木々が生い茂る山の中でした。
現信さんが学徒隊に動員されたころ、海沿いにある市街地や空港は 激しい艦砲射撃や空襲にさらされるようになりました。
日本軍はゲリラ戦に持ち込もうと、戦いの拠点を山の奥へと移していきました。 しかし、山に入ることは死を覚悟することでもありました。

当時、山では蚊に刺されることで感染するマラリアが蔓延。 命を落とす人が相次いでいたのです。
死の危険があることを知りながら、 現信さんたち学徒は軍と同行するよう命じられていました。
資料によると現信さんは電話線の設置を命じられ、 その作業中、マラリアにかかったとされています。 動員からわずか13日後のことでした。
マラリアに感染して3か月後、現信さんは亡くなりました。 遺体は家族ではなく、同級生の学徒によって火葬場に運ばれていました。

「(玉城さんを)火葬場に連れて行っていった
次々亡くなって運ばれてきて外に積まれてね、 多分、彼が死んだのは僕らしかわからないと思う」



さまざまな資料や証言から足跡をたどって1か月。 遺族が今も島で暮らしていることがわかりました。
甥の玉城学さん。叔父が学徒だったことを今回初めて知りました。

「本当に小さくて、かわいそうだかわいそうだというのは耳にあるんですけど」
「生きていたということが、こんなふうにして務めていたっていうことがわかりました」


学さんは一家が大切にしてきたというものを見せてくれました。 一枚だけ残る現信さんの写真です




玉城現信さん
戦場にかり出された12歳の学徒は、まだあどけない顔をした少年でした。
今回の取材では、なぜ12歳で動員されたのか、その理由までは今回突き止めることはできませんでした。
専門家は、離島での動員だったため、14歳以上というその基準すら徹底されなかった可能性があるのでは、としています。
一方で資料は早速、平和学習で使われています。

  今回、資料を見つけたのは那覇市内の中学校の教師で、授業では同じ年の子どもたちがたどった悲劇を具体的に知り、戦争の理不尽さを感じている様子でした
終戦から75年たって戦争を知らない世代が大半となる中、 後世のためにも国がこうした公文書をしっかり保存して
公開していくことが大切なのだと改めて感じました。

報告:沖縄局記者 松下温


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