29年後の上映会 アーカイブス映像でつなぐ阪神・淡路大震災の記憶
2023年12月。阪神・淡路大震災の被災地、神戸市長田区の御蔵小学校に20代から80代の19人が集まった。車座になって見たのは、29年前のあの日から記録された、NHKのアーカイブス映像。世代も震災の経験も様々な人たちが、同じ映像を見つめて、2時間語り合った。
NHKスペシャルなどで紹介
目次
NHKに眠るアーカイブス映像
NHK大阪放送局の13階には、大量の映像テープが保管されている部屋がある。
その奥で、特に広いスペースを占めるのが、阪神・淡路大震災に関する取材テープだ。
その数はあわせて7000本。
今回、私たちは、この映像を改めて検証することで、いまにつながる教訓を導けないか。次の世代に震災を語り継ぐことに生かせないかと考えた。
神戸市と協力し、今回初めて試みたのが、アーカイブス映像の「上映会」だ。
※アーカイブス映像の一部を公開しています
>>NHK「阪神・淡路大震災 あの時、ここで、何が」
避難所だった御蔵小での"上映会"
舞台は、29年前に避難所となり、一時2800人が避難生活をおくった長田区の御蔵小学校。
当時と同じ建物が今も使われている。
上映会の会場としてお借りしたのは、学校の図書館。
当時避難していた住民、対応にあたった学校の教員や市の職員、震災を体験していない神戸市の若手職員など、19人に集まって頂いた。
見てもらったのは、震災直後から約2週間にわたって、NHKが記録してきた御蔵小学校の様子。
テロップもナレーションも音楽もない30分ほどの映像だ。
当時の映像をそのまま見てもらい、映像を見た感想や質問を聞くところから、会話は始まった。
バナナを半分に折った
地震当日、1995年1月17日の夜に、御蔵小学校で撮影された映像には、食料の配布に大勢の人が並び、騒然とする様子が写っている。映像では食パン2枚か、バナナ1本が配られている。
(若手の市職員/石堂弘明さん)
発災直後の食料配布では、十分な量が無かったと思うんですが、避難者の方々に渡す方法はどのように協議したのでしょうか?
(当時の教頭/坂井憲司さん)
避難者の数が分からないから、最初はバナナ1本とパン2枚とかだったけど、御蔵小学校にはすごくたくさん人が来られたわけ。最初のうちはそう配ってたんだけど、これはもう全然足りんぞという中で、パンが1枚になり、最後のほうはバナナ半分とかね。それでも地域の方々は「しゃあないな」と思ってくれはったんですよ。すごい。僕はすごいと思う。「先生らも、市役所の方もこうやって一生懸命頑張ってくれてはるねんから、おまえら我慢せぇよ」って抑えてくれはる地域の方がいらっしゃった。
(当時対応した市職員/鈴木寿也さん)
とてもじゃないけど避難している全員の分はなくて、配っている途中で「こんなもん絶対足りんくなるんで」となって、裏へ回ってパンを半分に切ったり、バナナを半分に折ったり。配る側も限られた人間しか配置されていなかったんで、ダーッと押し寄せてこられて、大変な時間でした。
(当時の教員/森田忠実さん)
当日の夜、真っ暗になってから体育館でバナナとパンを配った覚えがあるんですけど、体育館にいる人を数えて、これだったら2人にパン1枚とか計算して配った覚えがあります。「もうちょっとおくれ」と言われた方もいましたけど、「いや、そうすると最後の方まで行き渡らないので、どうか今回はこれで我慢してください、すいません」って言ったら、「よっしゃわかった」言うて。割とスムーズに配れたかな。
(若手の市職員/石堂弘明さん)
大きな地震ですぐに十分な量の食料が届くとも限らないので、実際に私が避難所運営するとなったら、限られたものをすべて渡すのがいいのか、ある程度量がそろってからが良いのか…。答えは無いと思いますが、地域の方々に協力頂きながら行政としてできるものをやっていくのが大事だと実感しました。
(当時対応した市職員/鈴木寿也さん)
地震の当日は交通機関も全部止まって職員が来ないんですよ。役所が防災指令3号(※全職員が配備につく指令)出したって、行こうにも行けない。すぐ来てくれと言われて私は行けたんですけど、最初は僕も入れて4人だった。当時もマニュアルはあったんですけど、そんなマニュアル通りに人は集まらない。人が集まる前提でマニュアルを作ると、予測ができない災害が起きた時には、とてもじゃないけど避難所運営する側には立てない。そう思いましたね。
側溝の蓋を使って調理 たくましく生きる地域の人
翌18日の朝に、御蔵小学校の校庭を撮影した映像には、ドラム缶でたき火をして一夜を明かした人たちの姿があった。これらのシーンにも質問が飛んだ。
(若手の市職員/小谷泰誠さん)
校舎の中にいた方と外にいた方が分かれていましたが、あれは誰が差配したのでしょうか。
(当時の教頭/坂井憲司さん)
学校が開いてしもうたらね、ばーっと入ってきて。こっちがどうこうしてませんわ。表に行った人は「余震が怖い」と言うて、建物の中に入るんが嫌やという人が外へ行った。
(若手の市職員/小谷さん)
じゃあ、必ずしも全員が「中がええ」って訳じゃなかったんですね。
(当時の教員/森田忠実さん)
寒さを防ぐのに、まず一番入りやすいのは体育館なんで、お年寄りの方は体育館におられるケースが多かったですね。でも、後から考えると、体育館は仕切りも無い中に大勢でいるし、部屋も大きいので寒いし冷えるしで、かなり過酷やったと思います。
(若手の市職員/小谷泰誠さん)
校庭で火をたいていたのは、あれは地域の人たちが用意して始めてたんですか。
(当時の教頭/坂井憲司さん)
そうそう、どっかからドラム缶を持ってきはって。
(当時の教員/森田忠実さん)
網の目の溝蓋で、お肉をどっかから仕入れてきて焼肉されてたりとか。
よく見ると、網の代わりに使っているのは側溝の蓋だった。
(当時の教員/森田明美さん)
学校のボールを入れるカゴに木を入れて火をたいていたり。
(若手の市職員/小谷泰誠さん)
じゃあ職員が何か用意してというより、地域の方が自発的に工夫していたと。
(当時の教員/森田忠実さん)
特に運動場で寝泊まりされている方の創意工夫はすごかったね。電気もね、電柱のトランスみたいなところからヒューッて引いてこられたしね。
(当時の教員/川口久美子さん)
野菜を植えていた人もいましたね。
(当時の教員/森田明美さん)
ネギとかね。
(若手の市職員/西田冴霞さん)
映像では出入り口のところに名簿みたいなものがありましたが、あれはどう活用していたんですか?
(当時の教員/森田忠実さん)
訪れた人が、自分の知人がここに避難しとるけど、どこの場所におるかわからへんから、あれを見て、例えば、御蔵通1丁目のところをまず探して、名前を探したら、「体育館におられます」とか「3年1組の教室ですよ」と書いてある。
(NHK)
避難者名簿みたいな?
(当時の教員/森田忠実さん)
そうです。職員はそれを本みたいにしていました。「何々通り何丁目に住んでいた誰々さんは、そこの学校に避難してますか?無事ですか?」という電話がもうひっきりなしにかかってくるので、避難している人にバーッと用紙を配って書いて頂いて、まずその名簿を作ったんです。用紙は被害が少なかった学校に頼んで印刷機を借りて作らせてもらって。
家族がいる子にバナナ1本しか渡せなかった
(若手の市職員/平野陽子さん)
私は運営している先生やスタッフの方が不思議とつらそうな顔をされていないと思って。みんなで頑張っていこうという清々しい顔というか。努めて明るくしようとしていたのでしょうか?
(当時の教員/森田明美さん)
私はお風呂係だったんですけど、つらいとかはなかったです。今自分ができることをやろうと。自分よりもっともっとつらい思いをしながら必死で生きている人の前で、うん、つらいと思ったことはなかったですね。
このシーンを見た当時の教員の森田明美さんは、蘇ってきた当時の気持ちを語り始めます。
(当時の教員/森田明美さん)
ただ、つらかったのは、映像にも映ってたけど、バナナ1本もらうこの手がずっと写ってたけど、あれがもう胸が痛くて。私も配った時に、小学5年生の男の子に、家族いるはずやのにバナナ1本しかその子に渡せなかったんが、もうつらかったですね。最初はお弁当のような、缶に入ったようなやつやって、でも並んでいる人数を見ると絶対足らなくて。その子が並んでいるのは確実にもう足らないところに並んでて。本当、その子にバナナ1本を渡すときはもの凄くつらかったので、さっきあの女の子がずっと手が写っとんの見て、それを思い出しましたね。
(当時の教員/川口久美子さん)
皆、お風呂に何日もはいってないから、垢だらけなんやけれど、体を温めないといけないから入ってと言うと、皆さん「そうやな」言うてくれた。与えられた仕事を、何とか喜んでもらうようにしようって気持ちの方が強かったような気がしますね。
(当時の教員/森田明美さん)
努めて明るくという訳じゃないけど、ちょっとでも話しながらできたらなって。お風呂から出てくると、みんな「気持ち良かったわ」って言うんです。自分たちを先生だと思ってないので「姉ちゃん、どこの姉ちゃんや」って感じでした。
(避難していた市民/松山朝一さん)
まさか先生だと知りませんでした。でも、ほんまにお風呂がええもんだったと思いましたね。今わかった。先生が受付やったんですね。
(当時の教頭/坂井憲司さん)
避難所って学校が多いですやん。そのときに、子どもの力ってものすごく大きいんですよ。実際、子どもは、ただ親のそばで生活してた訳じゃなくって。御蔵小では1年生から6年生までで、紙芝居をしたり、掃除をしたり。いろんなところで子どもらに、「おはよう」「ありがとう」って言われると、私らも頑張らなあかんなって。子どもにそういうエネルギーをもらって頑張れた人もたくさんいらっしゃると思うんです。
(当時の教員/森田明美さん)
歌も歌うとったよ。
(当時の教員/森田忠実さん)
子どもには元気をもらいましたね。普段はちょっとごんたれでも、ああいう状況の中で、みんなかわいく見えた。でも、どっか遠い親戚とか、他都市とかに行って、戻ってきた子はいいんですけれども、そのまま卒業まで戻ってこんかった子は、もう別れの挨拶もしていなければ、そのまんまの子が何人もいるので。それは、「うっ」と思いますね。
(若手の市職員/菅村雅俊さん)
皆さんも被災されていて、小さいお子さんとかいらっしゃる方とかもいたと思うんですけど、私も子どもいたりするんですけど、家のこととか、自分の家族のこととか、そういうことを考えることがなかったのかお聞きしたいです。
(当時の教員/森田明美さん)
当時、御蔵小の女性の先生はほぼ独身で、まだ若かったので。男性の先生もみんな来てますね。家の被害が比較的被害が少なかったんやと思うんですよ。うちは半分住めるか住めないかぐらいで、それ以外の人は、みんな大丈夫やったっていうのもあるかもしれないです。
(当時の教員/川口久美子さん)
名谷のほうから来られる先生は「ああ、これやったら2時間目までは休講で、3時間目から勉強できるな」と思いはって来はったぐらいだったそうなんですよ。
(当時の教員/森田明美さん)
教頭先生もスーツ着てはったもんね。
(当時の教員/川口久美子さん)
ね。
(当時の教員/森田明美さん)
私もう忘れない。運動場で、ちょうど(学校周辺の火災の)火が上がっているのをじっと見て、みんなもう本当ね、避難されてる方も呆然っていうか、動きがない映像みたいな感じで。で、教頭先生はスーツ着てはりましたもんね。
(当時の教頭/坂井憲司さん)
だけどあれやな、ああいうふうな目の前で燃えているのに、水がない。ホースで水がかけられない。つらいな。見とるしかない。そのとき女性の方が、学校の真正面に3か月前にできあがった家が燃えていくのを見ているわけ。「先生、まだ3か月しかたってないねん」って言って、自分の建てた家を見ながら。つらかったな。ほいで、学校の樹木の葉っぱにバッと火が来だしたので、これはちょっと危ないなと思って、体育館の方に「運動場へ避難して」って言うて。そのときに、80歳ぐらいかな、女性の方が「私は2回地獄を見た。1つは、神戸大空襲。2回目が今回。神戸大空襲はサイレンが鳴って教えてくれる。ほいで一緒に逃げて、周りに逃げたときには仲間がおる。だけど今回はそういうのが無しに来た。今回のほうが怖い」っていうふうに言わはって、えーっと思って聞いたようなことがありますわ。
今、起きたらどうなるか
(当時の市職員/平塚得生さん)
皆さんのお話を聞いていて、やっぱり普段から顔の見える付き合いがあるからこそできるんであって、今のご時世に置き換えたら、若い人はメールとかで、直に会って話してるんかなというところが、心配なところ。昔と違ってプライバシーがごっつい言われているのも大きい。映像では全然仕切りとかない。今は割と仕切りがあったりしてプライバシーは守られてるんですけども、逆に付き合いはどうなっていくのかっていうところが今後の課題かなと思います。
(若手の市職員/平野陽子さん)
長田区役所でまちづくり系の仕事をしていて、地域の方とめちゃめちゃよくお話するんですよ。結構、長田の人って大丈夫なんじゃないかなって思ってて。震災の記憶がまだ残る中で、地域との絆が大事とか、ご近所さんとの関係が大事っていう自覚を強く持ってらっしゃる方がすごく多いんじゃないかなと。若い世代は、あんまり顔合わせてないんじゃないかってお話もあったと思うんですけれど、若い世代は若い世代なりにコミュニケーションをとっていて、コミュニティーも目にしたりもしてます。
(若手の市職員/小谷泰誠さん)
当時は結構、地域の中でのつながりも密で、顔の見える関係性ってのがあったと思うんですけど、マンションで隣に誰が住んでるか分からんというような人が多数派を占める中で、今、阪神・淡路みたいな地震が起きたときに、地域がそれぞれ役割を持って、じゃあ自分はこれしようかみたいに、そこまで自発的にできるかっていうと、正直ちょっと不安はありますね…。今は市の職員という立場があるんで、与えられたこともしないといけないし、こういうときに「これはうちの分じゃないから」とか、そんなん言ってられないと思うんですけど、顔の見える関係性は昔ほど濃くないと思うんで、そこは今のご時世ならではの課題かなと思いました。
(若手の市職員/平野陽子さん)
今までの伝統的な地域団体のやり方で、若い人が入らなくなってきてしまっているケースは多いです。一方で若い人は、自分たちがやりたいこと、すごくチャレンジしたいことに関しては同じような気持ちの人たちで集まって、距離を飛び越えてやっているという側面があるなと思ってます。そうしたチャレンジを後押ししているんですが、一方で、災害のときは「ご近所」という物理的に本当に近い人同士がつながっていることが大事っていうところもあると思うので、いかに今までの地域団体の方のつながり、そういった人たちをつなげていくか、みたいなところも課題だなと思いました。
(当時対応した市職員/小寺忠則さん)
僕の経験で言うと、長田区の中でも、高校の避難所と小学校の避難所って全然運営が違うんですよ。小学校って3世代ぐらい同じ学校に通っている家庭も多いじゃないですか。おじいちゃんも、お父さんも、子どもも同じ学校行ってるから、この学校になじみがある。だから、この学校や地域のために何とかしようって思いが強いけど、高校はたまたま家の近くやからっていう人もいるので、自分らはもうお客さんみたいな感じのところがありました。震災から1年経過し、小学校の避難所に行っていた長田区の職員に聞くと、ちゃんとコミュニティができて、そのリーダーが力を発揮して、先生はなるべく早めに子どものケアに移ることができていた。背景には職員とその地域の方が一緒に運営をしてきたっていうのがあった。今、時代は変わって、新しい住民が入り、関係性が薄れてる部分もあると思うんですけど、それでも小学校であれば、ある程度は大丈夫かなというふうには思います
(神戸市危機管理室/吉田高志 課長)
初日の配給から5日目ぐらいまでは、本当に皆、絶望というか、もう殺伐としてるなっていう状況でしたが、10日目ぐらいの映像になると、徐々に全体が明るくなってきて、「次に踏み出さなあかん」「もう次に行かなあかん」「ステージに行かなあかん」っていうようなことが出てきていた。
(若手の市職員/石堂弘明さん)
阪神・淡路大震災とか東日本大震災も経験して、市内部とかでのマニュアルとか対策とかって着実に、震災当時よりかは上がってきてると思うんですけど、やはり震災、地震が起こったときに対応するってなると、そのマニュアル外のことにいかにどう対応していくのかっていうのが大事なんだなっていうのを、この動画を見て思いました。
(若手の市職員/平野陽子さん)
今までこうやってご近所のお付き合いを大切にされてきた方とかが、どんどんご高齢になっていってしまって代が変わっていってしまったりすると、やっぱり付き合いが薄れてくる部分もあるかなとは思うので、ちゃんと引き継いでいけるように、仕事の中とか、普段の生活の中でもちゃんと伝えていかないといけないなと。
上映会で生まれたものは
こうして上映会は、およそ2時間で終了した。
終了後、個別に話を聞くと、上映会の受け止めはさまざまだった。
(当時対応した市職員/小寺忠則さん)
映像を見て懐かしいというか、こんなんだったなというのを感じて。思い出したのは、避難所運営をしていくなかで、電気がつく、炊き出しで温かいものが食べられるとか、毎日毎日、新しいことがどんどん起きていく。下を向いてばかりではなくて、新しいことが起こったり地域の人が自発的に動いてくれるようになったり、そういったことを積み重ねて僕たち避難所運営をしているほうも、どんどん元気になっていったというのはあるので、それは久しぶりに気づかされました。
(当時の教頭/坂井憲司さん)
かたちあるものはなくなるのは当然やし、かたちのないもののなかで伝えていくというのは、非常に難しいけれども、難しいからといって、そこから逃げたらいかんし。また大変な地震があるからな。
(当時の教員/森田明美さん)
よみがえってきたというか、薄らいできたところが、よく思い出してきたなと。今日、若い方が話をしているのを聞いて、できれば、若い先生方にも、知らないからできないとか、生まれていないからできないじゃなくて、こういう映像を見て、感じたことを子どもたちに語るでもいいので取り組んで欲しいと思いました。
(若手の市職員/小谷泰誠さん)
マニュアルをつくって、なるべく同じような対応を、どこでもできるようにするのがベストなのかなと思っていましたが、必ずしもそうではないんだというのがよくわかりました。マニュアルも大事だけれども、それ以上に臨機応変に求められる役割をちゃんと探しだして、みずから動いていく、これが大事なのかなと思いました。みずから動く、みずから考えて、誰のためになにをするかを考えて行動することが大事かなと思いました。僕ら震災のあとに生まれた人間は得られる情報が限られているので、映像から得られる情報は、かなり多いと思う。文字だけではなくて、映像で、音声で得られる情報があると、その当時のことも想像しやすいし学びになる部分が大きいと思うので非常にいい機会になったと思います。
知らない世代は追体験 知る世代も記憶呼び覚ます
1995年1月17日の早朝に神戸を襲った震度7の揺れ。
6434人の命が失われた阪神・淡路大震災も、発生から29年が経過し、きれいになった神戸の街並みからは、その痕跡を感じることは難しくなっている。
神戸市の担当者は、職員の7割が「震災を経験していない世代」になるなか、いかに記憶を次の世代につないでいくかが大きな課題だと話していた。
これは、伝える役割を担う報道機関も同様だ。今回の取材チームの中には、当時はまだ生まれていない者もいる。年々伝えていくことの難しさを感じるのも事実だ。
ただ、今回、大量に残されている当時の映像を1つ1つ振り返り、これまで知らなかったリアルな震災の姿、住民の日々の暮らしを知ることで、私たちにとっても、その存在はぐっと自分に身近なものになったと感じている。
今回の取材の中で話を聞いたデジタルアーカイブが専門の東京大学の渡邉英徳教授は「アーカイブス映像をもとにコミュニケーションをすることで、その過去の出来事の寿命が延びる」と表現していた。
私たちも手探りで行った今回の上映会。
映像を見ながら異なる世代の人たちが語り合い、意見を交わす中で、震災を知らない世代は当時を追体験し、知る世代も記憶を呼び覚ますきっかけとなった。
アーカイブス映像の可能性を感じた2時間だった。
大阪放送局 藤島新也、岡本直史、高屋敷仁、芦田宙
神戸放送局 小田和正、西川龍朗、井上乃晏、遠藤夏帆
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