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福山雅治さんの”クスノキ”で長崎市の被爆樹木の掘り起こし

  • 2022年04月06日
大村湾沿いの線路(筆者撮影)

長崎放送局 記者 中尾光

  わたしは この海が好きです
  この弓形に 続く線路の

      (”道標”の歌詞抜粋)

 私の”道標”の”推しフレーズ”です。

私は学生時代、勉強をほったらかして軽音楽部の活動に
打ち込んだタイプで2年前にNHKに入り、長崎に赴任して
サツ担(警察担当)として長崎県内を駆け回る毎日です。
 長崎生活を通じて福山さんの「弓形に続く線路」がどんな場所を指しているのか、リアルな景色が浮かぶようになりさらに好きになりました。

片足鳥居と共に 人々の営みを 
歓びをかなしみを ただ見届けて
     我が魂は奪われはしない 
この身折られど この身焼かれども

            (”クスノキ”の歌詞抜粋)

 次にみなさん、紅白の常連の福山さんが2014年の紅白で歌った「クスノキ」はご存じですか?
この曲も故郷であり、原子爆弾が投下された”被爆地”でもある長崎への思いが詰まっています。このフレーズが指しているのはここです。

片足鳥居
被爆クスノキ

  1945年8月9日、福山さんが生まれる24年前、長崎には
1発の原子爆弾が投下され、その年だけで7万人以上の人命が奪われ、街は焼け野原になりました。
「クスノキ」が歌っているのは奇跡的に焼け残った2本のクスノキです。歌詞の通り、大きく折れ、焼かれ、黒焦げの太い幹だけになりましたが、”被爆”からわずか約2か月後、幹から新芽が出て、回復した”樹木”です。

 このクスノキのように原爆の熱線や爆風に耐えて生きながらえている木を長崎市は「被爆樹木」として指定しています。原爆の惨禍を私のような戦争を知らない若い世代に語り継ぐためです。福山さんは2014年、”被爆樹木”を次のように語っています。

福山雅治さん
とんでもないダメージを受けながらも、それでもまだ今も生きて立ち続けているという畏敬の念ということばがありますが、まさにそういうことを感じていたんだろうなと思います。僕自身は戦争体験者ではないですが、近親者に実際に被爆した父親がいたり、当たり前に被爆2世と言われて生きてきたので、自分自身でちゃんと作品の中で伝えていかなかければいけないんじゃないかなという義務感、使命感というものだと思います
(SONGS福山雅治~理想の挑戦者~)

福山雅治「クスノキプロジェクト」

 福山さんの「被爆樹木」の保存活動を紹介します。
2014年以降、福山さんは「被爆樹木」の保存活動をサポートしようとコンサート会場や自らのHPで募金を呼びかけています。 これがきっかけになり長崎市は「クスノキ基金」を設立し、2020年度末までに7500万円の寄付金が集まりました。
 

長崎市の長崎クスノキプロジェクトHP

 長崎市の「長崎クスノキプロジェクト」は福山さんが
総合プロデューサーです。プロジェクトのPR活動を担い、ホームページには「被爆樹木」を知ってもらうため、
これまでに市が指定した30本の「被爆樹木」が紹介されています。
 長崎市は福山さんの参加で”被爆樹木”の発信力は飛躍的にアップしたと言います。 

長崎市 被爆継承課 浦川珠美さん
知名度のある福山さんの取り組みの前と後では被爆樹木への注目度は全く違い、いままで被爆樹木を知らなかった人が知るきっかけになった。被爆樹木へ多くの寄付が集まったことで、これまで所有者に一部負担してもらっていた木の保存整備の費用も、市が全面的に支援できている

”福山効果” 被爆樹木を掘り起こしへ

   長崎市による「被爆樹木」の指定は1995年に始まり、
その数はことし1月末現在で48本です。ただ2000年以降、新たな「被爆樹木」の指定は1本にとどまっていました。

  それがいま、”福山効果”で知られざる「被爆樹木」の掘り起こしが活性化しています。「被爆樹木として指定できないか」という新情報が長崎市に寄せられるようになったのです。そして、去年(2021年)18年ぶりに2本の木が
「被爆樹木」に指定されました。このうちの1本が爆心地から1.8キロ離れた場所にあるアラカシの木です。
アラカシは樹齢90年以上とみられ、被爆者の有馬紀美子さんの(87)家の庭に根を下ろしています。

  紀美子さんが11歳のとき、原子爆弾が長崎上空で炸裂しました。爆風や熱線でアラカシは木の幹が割れ、樹木の内部がめくれあがりました。幸い、紀美子さんは無傷でしたが母親のツギさんは顔や腕に重度のやけどを負いました。

有馬紀美子さん

有馬紀美子さん
母は髪の毛がじりじりになって、顔が2倍ぐらいにふくれてたんです。私、母とは全然分からなかったです。声を聞いて自分の名前呼ばれた声を聞いて初めて『お母さん』って言いました

 母親のツギさんは一命をとりとめたものの、顔のやけどを気にして外出を避けるようになったと言います。

有馬紀美子さん
(母親に)「一緒に(外に)行こうか」って言っても、「あなたたちがね、恥ずかしいに決まってるから、自分はもう行かない」って言ったんです

ふさぎ込むようになったツギさん。このとき、ツギさんの心の支えになったのが一緒に被爆したアラカシでした。
 

有馬紀美子さんと母親のツギさん

有馬紀美子さん
「(母は)あんたもね私と一緒に怪我して痛いね」って木(アラカシ)に言って。「私は痛い痛いっていうけど、あんたはね痛いともいいきらんできつかね」とか、そこ通る時によく独り言を言いながら、いつも撫でていて。カシノキとね、痛みを分け合っていたみたいな感じがします

 ツギさんは、36年前に亡くなるまでアラカシに自分を重ね合わせていました。そして娘の紀美子さんは今、母親が亡くなって以降、アラカシに母親のツギさんを重ねるようになりました。 

有馬紀美子さん
母の分身みたいですね。母を見てるような。みなさんにこれを見て頂いてですね、これからの世の中では、戦争が起こらないようにがんばってほしいなと思います

”クスノキ”を再び紅白で

 福山雅治さんが2014年に「クスノキ」を発表したことをきっかけに長崎の”被爆樹木”の活動は息を吹き返したと言えるかも知れません。

長崎市 被爆継承課 浦川珠美さん
福山さんの活動でそれまで知らなかった人たちにも被爆樹木が認識され、持ち主だけでなく、周辺住民からも「あの木は被爆樹木ではないか」というような情報が寄せられた。福山さんの活動が新たな木の指定にもつながったと思う

長崎出身のスーパースター福山雅治さん。
「クスノキ」を再び紅白で歌ってくれないだろうか。
有馬紀美子さんから「被爆樹木」の話を聞かせてもらい、私にはこのフレーズが以前とは桁違いに心に響くようになりました。

我が魂は奪われはしない この身折られどこの身焼かれども

                        

  • 中尾光

    長崎放送局 記者

    中尾光

    令和2年入局
    事件・司法を担当
     ペーパードライバーのため電車に乗って大村湾を
    人一倍眺めています

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