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Dearさんてつ 〜40年ありがとう〜

みなさんの三陸鉄道との思い出を教えてください

“三陸をひとつにつなぐ”
地元の夢を背負い、40年前に開業した三陸鉄道。
東日本大震災や台風19号など、幾多の困難に負けず走り続けてきました。
通勤・通学、観光、復興、あまちゃん・・・
あなたは“さんてつ”にどんな思い出がありますか?

のんさん

朗読のん

俳優・アーティスト。1993年生まれ、兵庫県出身。
俳優、音楽、映画製作、アートなど幅広いジャンルで活動。

放送で紹介した内容はこちら

寄せられたエピソード

三鉄の某駅のすぐそばが実家。ブレーキの音、汽笛の音、母と病院まで、友達と街まで遊びに、高校の通学と、小さいときからずっと一緒。現在は盛岡在住ですが我が子が小さい時は、おばあちゃん家(実家)に行き、三鉄だよ〜と見せたものです。震災で、線路が壊れて枕木が流されたままの様子をみた時、本気で三鉄はもうだめなんじゃないかと思いました。 今は、子供も社会人となり、私の母も年老いてしまいました。いつか私の孫ができたら三鉄だよ〜と見せに行きたいと思います。三鉄さん、ずっとずっと頑張ってね。

岩手県・40代・女性

もう20年以上も前です。わたしは看護師として、久慈に就職しました。看護学校は盛岡で、ウキウキと浮かれておりました。 でも久慈で初めてホームシックになり…親友は宮古に就職となり、一度は車で行ったのですが、遠くて曲がりくねっていて。 それからはさんてつで何度も宮古に訪れました。トンネルと海。海が見える時にスピードを落とすことが当時は分かりませんでしたが、震災があってからいかに尊かったかを知る機会ともなりました。 あまちゃん効果で、わたしら親だけでなく子どもたちもさんてつファンです。 これからも残したい原風景です。

岩手県・40代・女性

「5/6 三陸鉄道宮古駅から乗車 田老駅まで約20分である。運転席のそばに立って真正面からトンネル 橋梁を凝視する。昔、この路線を施工した時のことが懐かしく思い出された。トンネルを通過するたび、苦労して掘り進んだことが瞼に浮かんだ」今年88になる義父は三陸縦貫鉄道の建設工事(1969.6~1971.4)に従事した「三鉄を造った男」です。2017.5月、義父母と私たち夫婦、当時田老に勤務していた長男の5人で北リアス線を旅しました。定年を迎え、80歳。当時、工事を施工したのは佐羽根から田老までの約4キロの区間。トンネル5本、橋梁3か所、田老駅(高盛土なので地下道を施工) 山形在住の義父は当時6歳の双子の主人、1歳の三男を置いて現場から現場へ単身赴任生活。子供たちは可愛い盛り、沢山の苦労もあった事でしょう。震災前に一度行ってみたいと思いながら実現できずにいました、そして震災があり田老町の被害は大きく、万里の長城と言われた防波堤が壊され町が流された。自分の造った三鉄、当時の仲間たちの顔も浮かび、何とか力になりたいと思い「被災地を訪れ、自分が携わった三鉄の足跡を追うだけでも支援になるのではないか」この旅行が実現しました。そして第二弾。9月には南リアス線の度へ。1966.10~1969.6に従事した綾里トンネル(約四キロ)の半分2キロを片押しで施工 佐野トンネルは約500M 鍬台トンネル  命懸けで三鉄を造った義父は私達の誇りであり、留守中に家を守った義母も。震災後、見事復興し命を吹き返した三鉄。先駆者の喜びや苦労に想いを馳せながら周った三鉄旅。本当にありがとう義父さん。

岩手県・50代・女性

私が友人を誘って三鉄に乗ったのは、今から6年前の3月11日でした。2011年に起きた大震災の復興イベントに参加するために宮古駅から乗車普代駅まで途中宮古駅で予約をしていたうに弁当を口いっぱい頬張りながら車窓からの眺めをご馳走にして満喫した三鉄で行った岩手の旅を今も鮮やかに思い出すとつい〰️きのうの事のようにあの時に戻りたい思いが沸き上がります😊1駅1駅がおもむきのある…温かさの温もりある駅舎今も忘れません。震災後すぐに走ってくれた三鉄を支えた方々のご尽力をTVで拝見しました。また新たな気持ちでココロまっさらにこのまぶたに焼き付けてみたいです✌️沿線に暮らす岩手県民のみなさんとともに三鉄の永遠の存続を心から福島県郡山の地から応援しています😀三鉄いつまでも愛されますように🍀

福島県・60代・女性

三陸鉄道とみなさんとの思い出を教えてください

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