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宮沢和樹さんが語る宮沢賢治~没後90年「賢治とわたし」~

  • 2023年10月04日

 

岩手が生んだ偉人、宮沢賢治。2023年9月21日に没後90年を迎えました。
37年という短い生涯でしたが、残された詩や童話900あまりの作品は、時代を超えいまも読み続けられています。
その魅力とは一体何なのか。宮沢賢治を愛し、思いをはせる3人に話を聞きました。

宮沢賢治の親族・宮沢和樹さん

宮沢和樹さん。賢治の弟、清六(せいろく)の孫にあたります。

花巻市で賢治の作品をモチーフにしたカフェを経営しながら、講演活動などを行う和樹さんに、家族の中で語り継がれてきた賢治の素顔についてお話を聞きしました。

山口瑛己アナ

親族の中で宮沢賢治はどんなふうに語られてきたのでしょうか?

宮沢和樹さん

一般的に宮沢賢治っていうと、どこかこう真面目でかたくなというかな。ちょっと勤勉なイメージがあったり、あとやっぱり『雨ニモマケズ』のイメージがどうしても強いので、どこかちょっとストイックなイメージがあると思うんですよ。 

ただ、私の祖父が言っていたのは、8歳年上のお兄さんになるんだけれども、本当に面白い人だったんだって。楽しい事をいつも考える人だったって。だから、本当は両方の面があったんだよね。そういうストイックな部分、熱心な仏教徒、あとは先生っていう立場もあったりするけれども、基本的には本当に愉快な人だったなっていうことを祖父がよく言ってたんですね。

祖父の清六さんいわく、とてもお茶目だったという賢治の素顔。そのことを物語っているのが、この2枚の写真。

(資料提供:林風舎)

右は作品集『雨ニモマケズ』の表紙にもなった有名な賢治の立ち姿。その左隣の写真は、音楽家のベートーベンです。

なんとなく、似ていますよね。

賢治さんはクラシック音楽が大好きで、特にベートーベンが好きだったですよ。この写真は、ベートーベンの立ち姿をまねているところを、写真館の息子だった後輩に撮らせたものなんです。

当時のカメラってものすごいごっついし、原板もガラスで、写真1枚撮るのもすごく高価ですよね。ところが、賢治さんは後輩にカメラを外に持ってこさせて、農学校の演習田で、「そこをベートーベンのまねをして私は歩くから、この辺に来たらシャッターを切ってくれ」って頼んで指示したんですね。

あの写真はよく『雨ニモマケズ』の文章とセットで出てくる事がよくあるんです。そしたら、あの写真は賢治さんが何かすごい思い悩んでこう暗くなって「雨ニモマケズ風ニモマケズ・・・」って言って歩いてるように見えてしまう。

いや、ほんとは大好きなベートーベンのまねをしてた。ストイックな人間に見えるけど、実は真逆なんです。

ほかにも、人を楽しませることが好きだった賢治の一面を物語るこんなエピソードも聞かせてくれました。

学校の先生やってる時なんか、農業実習のとき、夏の暑いときに外でやると、賢治さんは生徒さんに「温泉に一緒に入りに行こう」って言って大沢温泉に行ったんですね。そうして、温泉入ったあとは暑いし汗かいて、帰りはどうしても喉渇くじゃないですか。そんなとき、帰り道にスイカ畑があって、「あれちょっとみんなで失敬して食べようや」って賢治さんが言うと、生徒たちは「ええ、そんなこと」って言うんだけど、「先生が言うからいいか」ってスイカ畑に入って勝手に取ってくるんですよ。

そしたら、影のほうから農家の人が怒って出てくるんですね、「何やってるんだ!」って。生徒さんたちも思わずびっくりして逃げていった。でも、賢治さんはそれを見て笑ってるわけです。実は、前の日に農家の人にちゃんとお金を渡して「明日来てスイカ取らせるけど、ちょっと怒ったふうにして出てきてくれ」って頼んでいた。

そういういたずらのような演出なんだけど、そういう事をやったりしたんです。

宮沢賢治は“理系”だった!?

教師としての面もあり、作家でもあり、詩人でもあり、研究者でもあった。さまざまな面があると思うんですが、そこについて和樹さんがどう考えますか?

今、世の中に宮沢賢治って人物が紹介されるときは、「童話作家・詩人 宮沢賢治」と紹介される。でも、もし賢治さんが「あなたの専門は何なんですか」って人に聞かれると、多分「自分の専門は科学です」と答えるんじゃないかな。地質とか、農業に関係する土壌改良とか、あとは品種改良、作物になるような野菜とか米とかの冷害に強い稲を育てたりとかね。そっちの方が賢治さんの専門だったと思うんです。あと鉱物、石の方ですね。

 だから今の言い方で、大ざっぱすぎる言い方かもしれないけども、理系か文系かって言われれば、賢治さんは完全に理系の人です。

例えば、童話を書くにしても、基本的にベースにあるのっていうのは法華経、経典の法華経の教えがあって、だから『銀河鉄道の夜』も空想の上に空想を重ねて書いてくるんじゃなくて、ちゃんとベースがあるんですよ。1つはそういった仏典に描かれてるようなことをみんなに伝えたいという目的。

もう1つは、その当時、賢治さんが生きていた頃にアインシュタインが日本にやって来たんですけど、日本の大学で相対性理論について講演をして、その情報が賢治さんに入った段階で、「あれ、仏典で描かれていることも、アインシュタインが言ってる宇宙に対する考え方っていうのも、言葉は違うけれども言っている事は同じじゃないのか」っていうことを思った。

だから、熱心な仏教徒でもあったんだけども、科学という面からいっても、いつかはこれは交じり合うものだというような考えがあった。法華経を追っていく仏教の語りと、科学のほうの語りと、両方で走っているものだって祖父は言ってた。賢治さんの童話は、よくファンタジーだという言葉が使われて説明されるんだけども、もっといい表現で言い表すとすればSF、サイエンスフィクションですね。

賢治と清六~カタログに秘められた知られざる兄弟関係~

(資料提供:林風舎)

賢治さんと清六さんの兄弟の関係はどうだったのでしょうか?

祖父は本当に賢治さんのことが好きでしたし、尊敬もしていた。ただ、賢治さんは家業である古着質屋業を継ぎたくなくて、学校の先生になったりしたんですよね。結局、賢治さんは商売ってこと自体がまず苦手だった。

そして、その家の商売を継ぐことになったのが祖父だった。祖父は、父がやってきた古着質屋業を金物屋、金属とか建築資材とか、そういったものを扱う店に変えてやっていくんですけど、賢治さんはやっぱり何か申し訳ないなと思っていたようです。ずっと自分の代わりに商売をやってくれている。自分が継がなきゃいけなかったことを弟がやってくれている。そのことに対してちょっと後ろめたさみたいな。

だから、祖父が金物屋をやるとなったときに賢治さんはいろいろ手伝ってるんですよ。その1つに、店の商品のカタログを祖父の商売のために賢治さんが作ってあげるということをしたんです。

和樹さんが見せてくれたのは、賢治が清六のために制作した金物屋の商品カタログ。テレビ初公開の資料です。

(資料提供:林風舎)

このカタログは「ベアリング」と呼ばれる機械のハブになる部品のカタログです。祖父が店で扱っていたのは当時はまだ新しい建築資材だったので、売り出すにもみんなに知ってもらわなきゃ買ってもらえないし、その大きさだって分からない。だから、賢治さんは学生の頃から得意だったガリ版刷りで弟のためにカタログを作ってあげたんです。

賢治の作品を守ってきた人たち

賢治さんの作品は、生前2冊しか作品は出版されていないですよね。その後、作品が世に広まっていく過程では、どういう物語があったんですか?

一番中心だった人物は、やっぱり祖父の清六さんですね。祖父は賢治さんが亡くなる間際に残された原稿を託されて、「どんな小さい出版社でもいいから本にしてくれるところがあったら本にしてもらってほしい。だめならだめでしょうがないけど」というようなことを賢治さんに言われるんですよ。

ところが、祖父にしてもまだ30歳になるちょっと前くらいですから、いきなり出版社とかに持っていったって、なかなか相手にしてもらえない。書いた本人ではないし、童話にしてもどこか幼児向けじゃないというか。

そんなとき、祖父を支えてくれた人たちの1人が高村光太郎先生です。

(写真提供:花巻高村光太郎記念会)

光太郎先生は、1回も賢治さんにあったことないんですけど、『春と修羅』を読んで、「もしかしたらこの作品は自分の作品よりも後に残るものになるかもしれないな」と思って周りの人に話していたそうなんです。そして賢治の死後、全集を出版することになったんだけれども、その本の装丁や題字のデザインまでしてくれてたのが光太郎先生なんです。

終戦間際の花巻空襲でも、賢治の原稿を守ったのは弟の清六と高村光太郎でした。

高村光太郎先生は、昭和20年終戦の年の東京大空襲で、当時駒込にあった自宅兼アトリエが空襲で焼けてしまうんですよ。それを聞いた賢治の父と弟の祖父は、すぐに光太郎先生に疎開しに来てくださいと呼びました。

そうして花巻にやってきた光太郎先生は祖父に、防空壕はあったほうがいい、作っといた方がいいってことをアドバイスして、光太郎先生が言うのであればということで、祖父はすぐ家の裏に防空壕を作ったんです。

そしたら本当に8月10日、終戦の5日前ですね。花巻も空襲にあい、駅前からずっと延焼してきて家も焼けちゃうんです。賢治さんの蔵書とか、使ってた文房具とか、そういったものは全部焼けてしまう。着てた衣類とかもね。でも、祖父は残された原稿類だけは防空壕と土蔵に分けて、それで焼けないですみました。だから、もしその時の光太郎先生の言葉がなければ、そしてそれを実行する祖父がいなければ、多分その時点で燃えていた。

本当に賢治さんにとって一番幸福だったことは、死後賢治さんの原稿を守った中心が弟だったということと、そこにいろんな人たちが関わってその作品を世に知らせてくれた。それはやっぱり、なかなかないですよね。

人々の中に生き続ける賢治さん

ことしの9月21日で没後90年になりますけど、今もなお読み継がれて、たくさんのアーティストにも強い影響を与え続けている。これについて和樹さんはどう思っていますか?

普通、詩や童話っていうと、やっぱり国文学系の人たちが研究する1つの対象になるじゃないですか。 ところが、賢治さんの場合はいろんな分野の人がいろんな形で関わってくれる機会が多いですよね。 

宇多田ヒカルさんのように、音楽の部分で何か惹かれて、今の人たちに受け入れやすい形に、その人たちの能力で作品を作ってくれて。そういう方が本当にいっぱいいるんですよね。それが、今度は音楽だけじゃなくて、例えば宇宙飛行士の方に毛利衛さんもそうだし。

高畑勲さんも、私や私の祖父に何回も話してくれました。『千と千尋の神隠し』の中で千尋とカオナシが電車に乗っているシーンは『銀河鉄道の夜』そのものですってね。鈴木敏夫さんと話してる時も、かなりいろんなとこに入ってますって言っていました。

どこに何がっていうことでなく、こうパッパッと、ちょっとしたスパイスのエッセンスのような形で入っている。そういうのが、やっぱり今までもずっと連続してきてると思うんですよ。そのときそのときに、今生きてる若い人たちに伝わる方法に、ある意味作品を更新してるというかリペアしてるというか。それが、今もこうやって残って読まれている一番の要因じゃないのかなと私は勝手に考えてるんだけど。

そういった分野で秀でている人たちがその分野で賢治さんの何かをまた表現してくれてるんだからそれはすごいことだと思うんですよ。

和樹さんにとって賢治とは?

何かあんまり構えるわけでもないですけどね、やっぱりいてくれてありがとう、私にとっては。

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