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名著、げすとこらむ。

◯『罪と罰』ゲスト講師 亀山郁夫
「永遠の書」

ドストエフスキー(一八二一~八一)の『罪と罰』は、わたしの人生にとってかけがえのない意味をもつ「永遠の書」です。わたしの人生は、まさにこのロシア文学の傑作との出合いによって始まりました。恐怖と孤独、喜びと希望、そして、許し……人間の心の奥底にひそむ根源的ともいうべき感情を、『罪と罰』を通して学んだ、といっても少しも過言ではありません。そして、今、わたしが最大の心の支えとしている「率直であれ」というモットーも、じつはこの『罪と罰』に起源を発しているのです。
わたしが、はじめて『罪と罰』を手にしたのは、十四歳の年、中学三年の夏休みのことでした。父が買ってくれた世界文学全集の一冊だったこの小説を、わたしは偶然に手にとり、夢中になって読みはじめたのです。
主人公の青年ラスコーリニコフが二人の女性を殺す場面に、異様といえるほどの興奮を覚え、主人公と完全にシンクロし一体化していました。この場面を読み終えた翌朝、ブラスバンド部の練習のために家を出ようとして、わたしはふと「警察に逮捕されるのではないか」という恐怖にかられ、自転車のペダルを漕ごうとする足を止めたほどです。
恐怖と恍惚が入りまじる圧倒的な興奮と、そののちに押し寄せてきた孤独の感覚が、読書に拍車をかけました。主人公に同化したわたしは、絶望にひしがれながらペテルブルグの裏町をさまよいつづけました。十代半ばの子どもにも、人類の見えざる輪から切り離されるということの何たるかは理解できましたし、主人公が口づけする広場の土ぼこりの匂いまで感じとることができたのです。
そのときわたしは、罪を犯すことの恐怖と孤独を、おそらく何かしら啓示にも近いものとして体験していたにちがいありません。それはまさに、最初にして最後といってもよい、強烈な『罪と罰』体験でした。
二度目の『罪と罰』体験は、大学三年の夏休みです。学園紛争の嵐が吹き荒れ、それが政治闘争へと大きく転換していくなか、わたしは三畳間の狭苦しい下宿で原書と向きあいました。
ロシア語専攻とは名ばかりで、紛争のあおりでまともに授業を受けることのなかった学生にとってはまさに無謀ともいえる試みでしたが、ひと夏かけてなんとか原書を読み通すことができました。実家に戻ってからは、宇都宮市にある県立図書館に毎日通いつめ、うだるような暑さの閲覧室でこの小説を読み続けました。一日二頁がやがて一日十頁ほどの進捗をみるようになりました(それは奇跡の夏でした)。そして九月九日(今も日付を覚えています)、まるで奇跡のようにこの小説を読み終えることができたとき、わたしは強い充実感とともに、えもいわれぬ解放感を味わっていました。そしてその経験が、その後のわたしの人生を決定づけることにもなったのです。
同じ作者の『カラマーゾフの兄弟』などと並んで、世界文学史上に比類のないこの傑作は、いわゆる「サスペンス小説」であるとともに「哲学心理小説」でもあり、何より十代半ばから二十代はじめの若者が読むべき「青春小説」でもあります。若い読者は、理屈ぬきに、全身でこの小説を受けとめることができるはずです。
読者の魂を鷲づかみにし、読者が主人公に成り代わる、あるいは主人公が読者の魂を乗っ取ってしまう、そんな「憑依」する力において、『罪と罰』にかなう小説はない、とわたしは信じています。ですからこの小説は、読者の心の深奥に、犯罪というものの恐ろしさを、傷のように深く刻みこんでしまう力をもそなえているとも言えるのです。
わたしは時々思うことがあります。たとえば、この小説を読んでから何十年か後、過去の経験を夢に見るときなど、実際に殺人を犯した主人公と、小説の主人公にシンクロしてしまった読者とのあいだに、少なくとも体験の深さという点でどれほどの開きがあるのか、と。
人を殺めるという行為を、読書をとおして擬似体験させ、限りなくリアルに記憶させてしまう、そんな強烈な力をこの小説は持っているように思えます。逆にそれほどにも危険な小説だということです。しかし、翻って考えてみれば、『罪と罰』とは、犯罪者の恐怖と孤独を読者に体験させることで、人間が人間であるためのぎりぎりの境界線を教えてくれる作品ともいえるのです。
わたしはドストエフスキーの小説を、「物語層・自伝層・歴史層・象徴層」の四つのレベルで捉えています。大人の読者は、若い読者の物語への没入とはまたちがったレベルで、作者の人生の反映や、歴史的な意味や、神や運命という象徴的なテーマによる多様な読み方ができるのではないでしょうか。
五十代後半になってからの、わたしの三度目の『罪と罰』体験は、まさに戦いでした。すなわち、翻訳という営みをとおして、過去の二度の経験とは根本的に意味の異なる戦いを繰り広げることになったのです(光文社古典新訳文庫、二〇〇八~〇九年、全三巻)。
若いときに経験できた主人公とのシンクロはもはや起こりませんでした。しかし、その代わり、この小説が、いっさいのヒエラルキーを超え、みずからの命を賭けて生きる登場人物たちの、ポリフォニックな声の饗宴であることに気づき、別の感動を覚えました。と同時に、芸術的といえる巧みな構成に舌を巻くとともに、象徴的なレベルにおけるさまざまなテーマにも遭遇することができたのです。
そしてあらためて、作者ドストエフスキーの仕掛けた根源的な問いに震撼させられました。
「目的は手段を正当化するか」
すなわち、歴史的に正義とされる、「善なる観念」に基づくものであるなら、はたして殺人という手段は許されるのか……?

亀山郁夫(かめやま・いくお)
名古屋外国語大学学長

プロフィール 1949年栃木県生まれ。東京外国語大学外国語学部卒業、東京大学大学院人文科学研究科博士課程単位取得退学。天理大学、同志社大学を経て1990年より東京外国語大学外国語学部助教授、教授、同大学学長を歴任。2013年より現職。専門はロシア文学、ロシア文化論。著書に『ドストエフスキー 父殺しの文学』(NHKブックス)、『「罪と罰」ノート』(平凡社新書)、『ドストエフスキー 共苦する力』(東京外国語大学出版会)など、訳書にドストエフスキー『罪と罰』『カラマーゾフの兄弟』(ともに光文社古典新訳文庫)などがある。

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