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四国カルスト・大野ヶ原に宿る “開拓魂”(はじまりの魂)

  • 2023年11月17日

愛媛県松山市から車でおよそ2時間。つづら折りの山道を抜けた先に標高1000メートル級の山々に囲まれた四国カルスト・大野ヶ原は広がっています。この地は終戦後の開拓事業によって切り拓かれた「戦後開拓地」。中心部には集落を見守るかのように開拓の功績を称える“開拓魂”の石碑が鎮座しています。

今年11月10日にNHK総合(四国ブロック)で放送した「はじまりの魂、心に宿して~四国カルスト開拓民と孫の1年~」では大野ヶ原開拓団の方々から経験談を伺い、その経緯や思いを踏まえたうえで“開拓魂”を私なりに意訳したのが番組のタイトルにもなっている“はじまりの魂”です。

大野ヶ原で生きる最年長、現在94歳の黒河高茂さんが私に語ってくださった開拓の過酷な道のり。そして、なぜこの地で生き続けるのか。1年に渡って実施した密着取材の中で見えてきた“はじまりの魂”、もとい“開拓魂”について、番組でご紹介できなかったインタビューとともにお伝えします。

(松山放送局ディレクター 宮浦和樹)

終戦後、大野ヶ原は“未開の地”だった

大野ヶ原集落

番組の舞台である愛媛県西予市野村町大野ヶ原。愛媛と高知の県境に位置し、標高1200メートルを超えるこの場所からは気象条件が整うと宇和海や太平洋を一望することができます。日本3大カルストの1つといわれる四国カルスト。石灰岩に囲まれた牧草地で牛が草をはむという牧歌的な風景が広がり、国内外から観光客が訪れる、四国を代表する観光地としてご存じの方も少なくないかもしれません。筆者も一観光客として大野ヶ原を訪れ、観光案内にあった“開拓地”という言葉を目にして驚いたことから取材が始まりました。

この地はおよそ80年前の太平洋戦争終結まで、人が定住することのできない未開の地だったそうです。

戦後の混乱の中、昭和20年(1945)11月に閣議決定された「緊急開拓事業実施要領」を受け、翌年「増産隊」が大野ヶ原へ調査のために分け入りました。大野ヶ原の広大な土地の可能性に魅せられると同時に、増産隊のメンバーでもあった知り合いの1人からの誘いもあり、昭和24年(1949年)当時20歳の黒河高茂さんは大野ヶ原に入植。その翌年には愛媛や香川から30戸が移住し、大野ヶ原の開拓が本格化していきます。

しかし、大野ヶ原の開拓は想像を絶するものだったと黒河さんは振り返ります。

黒河高茂さん

「家もない、水もない、道路もないところ。入植した時はもう本当に何からしてええかわからない状態だったんですよ。水が無かったもんですから、池の水を飲みよったんです。ほいたら春になったら山からビキ(カエル)が卵を産みにくる。 真っ黒になるんです、オタマジャクシで。夜暗いときに水汲んでヤカンの中に朝、オタマジャクシがだいぶおりました。営林署から木々を払い下げてもらって、自分らで伐採、製材して、それで各個人のところへ材を運んでですね。それで冬までになんとか、家を建てて冬越しをしたんですね。水も十分なかったもんですけん。谷の方から汲んできて、水を掘り出すとか。そういう生活環境が全然なかったもんですから、非常に厳しかった。最初食べるものを作らないと、ということで雑穀、トウモロコシとか小豆とか、それと馬鈴薯ですね、一応作りましたですけど。非常に雨が多いんで、馬鈴薯もなかなか作りにくかったんですけど。まあ消毒したりしてなんとか、馬鈴薯は作れはしたんですが。とうもろこしはもう台風にやられてしまって、全部ダメになってしまった」

何もなかった“ゼロ”からのスタート。
防寒設備も十分整っていない中、冬には強いブリザードが大野ヶ原を襲い、最低気温がマイナス10度を下回るという過酷な環境。中には先の見えない日々に精神を病んでしまった方、そして極度の寒さや飢えなどが重なり、命を落とされた方もいたそうです。

黒河アヤ子さん(高茂さんの妻)

「今と違って冬は寒いんですよ、何もかもが凍って。羽釜なんかでも、包丁でもですが、金物持ったら、じゅんとひっついた。いきなり(手を放そうとすると)皮がはげるんですよ。そやから、じーっとこうしてある程度温めてから取るぐらい。知らん時にいきなり金物拾うでしょ、そしたらひっつくんですよ。だから、それぐらい厳しい寒さでしたけえね」

それでも春になると人の背丈ほどもあるクマザサやカヤを刈り取って大地を切り拓き、酸性のため農地には不向きだったカルスト台地に堆肥を撒いて土壌の改良をしながら、土地に適した作物を探し続けました。水道を作り、学校を作り、インフラを整え…。昭和30年(1955年)にようやく栽培に成功した大根が市場で人気になったことから、経済的にも大野ヶ原に定住できる未来が拓けたのです。

黒河高茂さん
「去年より今年、今年より来年と、前を向いて徐々にいきましたから。まあそれで我慢できたんじゃないかと思います。電気が入った時は、みんな本当に喜びました。みんなが助けるという、その気持ちがありました。昔は本当に家族みたいにみんなが助けあって、病人が出たらトレイにのせて出るとか。本当に食べる物もなかったらみんなで分けて食べるとか。いろいろ本当に大野ヶ原地域ひとつも家族のような状態で、苦しい時を我慢できたと思うんです。それがあるから今があるんじゃないかと思う。一人がバタバタしたって開拓なんてできんです。みんなが本当に一生懸命やったから今があると思います。1人や2人で開拓できるもんじゃないですけん。やっぱり本当に国の援助があり、農家それぞれが頑張って、今があると思います」

戦後の絶望の中、黒河さんを含めたくさんの人が大野ヶ原に未来を託して開拓を進めました。その覚悟は平成生まれの筆者には想像もつきません。戦争を経験し、戦後の混乱を乗り越えた先人たちだからこそ成し遂げることができたのだと思います。

大野ヶ原で生きる後継者たち
開拓1世の子ども世代・開拓2世

その後、学業などのためふもとに下りていた開拓民の子ども世代(開拓2世)や孫世代(開拓3世)が大野ヶ原に戻り、農業機器を導入したり、新たな産業を興したりするなどして大野ヶ原を発展させていきました。

黒河正高さん(高茂さんの息子)

「(家の周りには)本当何もなかったですよね、自分が小さい頃。(両親が開拓を)一生懸命しよる姿を見よると、やっぱり遊んでられんなみたいな時もあったですね。跡を継がんといかんという気持ちが真っ先でしたね。これまで築き上げてくれたそれを潰すわけにはいかないんで。頭の中は、もうここを継ぐことを考えてたんで。ちょっとずつ(牛の)多頭化の方に向けてやろうかと思ってましたね。それとちょっと体を楽にするような機械を導入したりとか。やっぱりその時代時代の機械があったんで、なんとか導入して。頭数が増えるにつれてやっぱり忙しくなるもんで、機械を入れることでちょっとでも手間を省けて」

正高さんたち開拓2世は開拓の壮絶さを幼いながらに目撃し、体験してきた世代。鎌で草を刈り、鍬で木の根を掘り起こして土地を切り拓く厳しさを共に実感したからこそ、それぞれが“開拓魂”を心に宿しているのだと思います。

昭和、平成、令和…入植から70年以上経った今、家が立ち並び、道路や学校も整備され、電話もインターネット設備も整った大野ヶ原では都会に遜色のない生活を送れるようになりました。

黒河高茂さん
「もう想像以上ですね。来た時は本当に一本の莵道しかなかったんです。それが今のような本当にあの生活環境も都会に負けないぐらいの準備ができております。以前は何も無かったんですから。本当に後継者たちがやってくれているから、何とか大野ヶ原がもっております」

黒河正高さん(高茂さんの息子)
「台風で何かが起きて、みんなで直し、助けに行ったりとか、それが一番いいとこですね、この地域の。それぞれ何かの先生みたいな人がおって、この人はこの人に任す、これはこの人に任すみたいなそんな形になっております。郷土愛は強いですね、やっぱりここは。困ったときは一致団結する力はもう本当すばらしいです」

孫、そしてひ孫の世代へ

過酷な開拓の日々を目撃したからこそ “開拓魂”を宿す開拓2世の人々。では、生まれた時すでに大野ヶ原が切り拓かれ、電気にも、水道にも、ガスにも不自由しなかった、筆者と同じ平成世代はどうなのでしょうか。

黒河尚紀さん(高茂さんの孫)

「僕ら世代、数えるほどしかいないんですけど。もう全員顔と名前全部思い出せるぐらいしかないんですけど、ほぼ帰ってきてなくて。生活する上では本当に不便なことが多いんですけど。フードデリバリーは全部、全店対象外なんで。コンビニを置くのも難しいでしょうし」

全国の山間部同様に、今、大野ヶ原は後継者問題に直面しているそうです。
大野ヶ原は最大63戸の世帯が定住していましたが、現在その数は半分程度まで減少しています(2023年8月3日時点 西予市)。

しかし、尚紀さんや大野ヶ原に戻ってきた若手世代の人々と話をする中で見えてきたのは、“開拓魂”が形を変えて彼ら、彼女らの中で確かに存在しているということでした。

黒河尚紀さん
「大野ヶ原の人たちにちょっとでも喜んでもらいたいんで、地域のことになるべく顔を出している感じです。自分たちの入学式、卒業式の時も血がつながっていなくてもやっぱり地域の人は来てくれてたんで。その、お返しじゃないですけど」

自分一人で育ったのではなく、両親や祖父母、そして地域の人々に支えられてきたからこそ成長できた。それはまさに、黒河高茂さんが語っていた“家族のような地域”だからこそ、尚紀さんは集落に恩返しをしたいという心を抱いたのではないかと思います。

取材を進めていく中、お盆時期には県外ナンバーの車が多く往来していました。今は都会に出ている大野ヶ原出身の方々にも、その魂は息づいているのだと思います。

黒河尚紀さん
「本当にいい場所だと思ってるんで。あのう、なんでしょうね。ホッと…なんだろうな。向こう(京都)にいた時も、たまに長期休暇の時に帰省してきたら、やっぱりあのホッとする感覚みたいなそれはあったんですよ。なんか、あ、やっぱ都会と違う、あのなんか良い場所だなーって」

大野ヶ原に宿る“開拓魂(はじまりの魂)”とは

大野ヶ原の開拓1世やその子ども世代である開拓2世、さらに開拓3世の方々からお話を伺い、開拓魂とは“自分のためではなく誰かのために生きる心”なのだと筆者は感じました。

黒河高茂さんたち開拓団の人々は、終戦直後に荒廃した日本を、そして戦後食糧難に悩む人々を目の当たりにし、食料増産のために広大な耕作可能地・大野ヶ原を開拓しました。

黒河正高さんたち開拓2世は、両親の苦労を見てその努力を無下にしないために大野ヶ原を発展させてきました。

黒河尚紀さんたち開拓3世は、両親や祖父母、そして大野ヶ原地域の人々に支えられて育った恩返しの気持ちで目の前の仕事に取り組んでいます。

松山に住む筆者は、隣に誰が住んでいるのか正直知りません。恥ずかしながら、町内会の行事に参加したこともありません。各地で都会化が進んでいる日本。私たちが失いつつある“誰かのために生きる”という心が、今現在も大野ヶ原には宿っているのだと思います。

1年間の密着取材を終えて

特に印象に残っているのが、元特攻隊員の黒河高茂さんが口にした「特攻で死ぬような難儀はない」という言葉です。戦時中、そして戦後の混乱からどうやって、どのような思いで先人たちが日本を立て直してきたのか、今も私は思いを巡らせています。私事ながら、八幡浜市在住だった祖父を昨年亡くし、戦後の経験や当時苦労した話を十分に聞くことができなかったと後悔してきました。祖父の姿を黒河高茂さんたちに重ねながら、この1年間お話を伺い、その足跡を番組に盛り込みました。少しでも大野ヶ原に宿る“開拓魂”の一端を感じていただければ幸いです。
(NHKプラスにて11月24日(金)午後8時13分まで番組をご視聴いただけます)

>>NHKプラスで配信中<<
配信期限 :11/24(金) 午後8:13 まで

  • 宮浦和樹

    宮浦和樹

    2019年入局。エンターテインメント番組部を経て現職。 
    SDGsや西日本豪雨災害など幅広く取材。

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