自宅にいたところ地震が起き、近くに住む寝たきりのおばあさんを助けようとして津波に襲われたとみられています。現在も行方がわかっていません。 妻の幸子さんは2018年11月に亡くなられました。心よりお悔やみ申し上げます。
2011年3月11日14時26分。その日朝、病院に行く夫を見送り、その足で友達と待ち合わせ。友達数人と海にほど遠いところでお茶していました。
その時、今まで感じたことのない、すごい地震。これは絶対、津波がくるぞと海の近場に住んでいる者は、常に地震=津波、津波がくるものと頭にありました。
地震がおさまり、自宅に帰ろうと友達と別々に別れ、通岡道路からアップルロードへ抜けようと、ものすごい車の渋滞。親切な人に車の流れに入れてもらい、途中、消防団の人たちに「これから先は通行止めだ」と言われ、その晩は陸前高田一中へ避難。高田一中は避難者で、校内から校外いっぱい、その時すでに高田は壊滅状態で真っ暗闇。住田町が給水。広田町はどうなっているんだろうと不安でいっぱい。 次の日朝早く、四苦八苦して通れる道を探して歩いて自宅に着いたら、我が家に近所の人たちが避難してきていて、夫の姿が見当たらず。誰に聞いても「わからない」とのこと。たぶん、下に住んでいる寝たきりのおばあちゃんと、介護している娘さんを助けに行って津波に巻き込まれ流されたものと・・・。
それからはいろんな意味で地獄を味わいました。
あまりにも辛い悲しい現実。みなと、この先どうなるんだろうネと話しながら、生きてきました。
以後、全国・全世界の人たち、ボランティアの人たちが来てくれたり、支援物資が届けられたり、心のケアさんたち等、いろんな人たちに助けられました。
言葉では言い表せません。感謝のひと言です。
自然の仕打ちを恨みながら、自然の恩恵を受けながら、そして天から夫が見守ってくれてる気がして、余生は好きなことをして、子ども達、友達と楽しい生活をして生きている限り頑張っていこうと思っています。
夫への思いを書くことによって、救われて心穏やかに過ごしていること。
震災7年目にしてお見送りできたこと。
でもなかなか諦められません。時は止まったままです。
心の復興はほど遠いです。いつになったら心の雨、晴れるんでしょうか。疑問符です。