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熊谷磨さん(くまがい・みがく/当時71歳)岩手県陸前高田市

自宅にいたところ地震が起き、近くに住む寝たきりのおばあさんを助けようとして津波に襲われたとみられています。現在も行方がわかっていません。 妻の幸子さんは2018年11月に亡くなられました。心よりお悔やみ申し上げます。

「こころフォト」ニュースリポート

  • 2017年9月9日放送

    夫の葬儀
    震災6年半の決断

    「こころフォトスペシャル 思い出の“あの場所”」VTR③

震災から7年を迎えて

妻の幸子さんより

2011年3月11日14時26分。その日朝、病院に行く夫を見送り、その足で友達と待ち合わせ。友達数人と海にほど遠いところでお茶していました。
その時、今まで感じたことのない、すごい地震。これは絶対、津波がくるぞと海の近場に住んでいる者は、常に地震=津波、津波がくるものと頭にありました。
地震がおさまり、自宅に帰ろうと友達と別々に別れ、通岡道路からアップルロードへ抜けようと、ものすごい車の渋滞。親切な人に車の流れに入れてもらい、途中、消防団の人たちに「これから先は通行止めだ」と言われ、その晩は陸前高田一中へ避難。高田一中は避難者で、校内から校外いっぱい、その時すでに高田は壊滅状態で真っ暗闇。住田町が給水。広田町はどうなっているんだろうと不安でいっぱい。 次の日朝早く、四苦八苦して通れる道を探して歩いて自宅に着いたら、我が家に近所の人たちが避難してきていて、夫の姿が見当たらず。誰に聞いても「わからない」とのこと。たぶん、下に住んでいる寝たきりのおばあちゃんと、介護している娘さんを助けに行って津波に巻き込まれ流されたものと・・・。

それからはいろんな意味で地獄を味わいました。
あまりにも辛い悲しい現実。みなと、この先どうなるんだろうネと話しながら、生きてきました。
以後、全国・全世界の人たち、ボランティアの人たちが来てくれたり、支援物資が届けられたり、心のケアさんたち等、いろんな人たちに助けられました。
言葉では言い表せません。感謝のひと言です。

自然の仕打ちを恨みながら、自然の恩恵を受けながら、そして天から夫が見守ってくれてる気がして、余生は好きなことをして、子ども達、友達と楽しい生活をして生きている限り頑張っていこうと思っています。
夫への思いを書くことによって、救われて心穏やかに過ごしていること。
震災7年目にしてお見送りできたこと。

でもなかなか諦められません。時は止まったままです。
心の復興はほど遠いです。いつになったら心の雨、晴れるんでしょうか。疑問符です。

妻の幸子さんからのメッセージ

磨さんへ
見てくれてますか?月日って早いものですネ。あっという間に6年7か月をむかえようとしています。
そのくらい見つからずにいるのは想定外。
会いたい逢いたいと思いながら暮らしています。あなたもですよネ。
どこにいるんでしょうかネ。絶対、形はあるはず、ただ見つけられないだけのこと。

あの大地震、ただこの家にいたら流されないはず。この坂を下りて行かなかったらと、知らんぷりしてれば生きていたはず・・・
子ども達には、「母さん、そんなことを言ったら、父ちゃんの努力が水の泡になるで・・・」。
でもあなたは良いことをしに行ったんだよネと思いつつ、口に出せないのが無念です。
死ぬまで「ままちゃん」と言われながら共に生活していきたいんだもの。

この震災で多くの知らない人と知り合い、いろいろ勉強させられました。支えられ励まされ、おかげさまって言うのもはばかるけど感謝のひと言です。
あなたには感謝無限大です。ありがとう。

届け出を出し、葬儀、7回忌をむかえる気ができたのも、皆さんのおかげです。
月命日には欠かさず、歩ける限り墓参りするつもりです。
今度は笑顔でお墓の前で会いましょう。
月命日以外は夢で会いましょう。

この頃は夢は見ず、ぐっすり。睡眠薬の効果でしょうか?そのせいで出てこれないのでしょうか、答えてください。
答えることができたら、さっさと出て行くよ(磨^-^)だよネ(私)

今月、岩手県警から手紙がポストに入ってて、「見つかりました」との通知かなと思って開けてみたら、免許更新だって。
超残念。早く見つかるよう、祈りつつ待ってます。 

熊谷磨さんへのメッセージ・写真を募集しています。

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