長女の未捺さんは、石巻市の大川小学校から避難する途中に津波に巻き込まれて亡くなりました。妻のしろえさんは、大川小学校から自宅に引き返す途中に亡くなりました。父親の弘さんは、自宅か川の近くで亡くなりました。長男の哲也さん(15歳)は当時、小学校から避難する途中に津波にのまれましたが、奇跡的に助かりました。しろえさんは震災当日3月11日が誕生日でした。
「想像の成人式」
生きていてくれたのならば、今年は成人式でしたね!
未捺が大人になった姿を想像しても…
どうしても、小学3年までの容姿しかイメージが出来ないです…。
着物着るのかな?
どんな色の着物かな?
2年前に、お兄ちゃんが撮った写真館で、記念写真を撮っていたのかな?
想像よりも…
やっぱり会いたい…。
『あの日から10年…』
未捺(みな)あの日から10年になるね… 生きていれば19歳…
お父さんは哲也とあの日から「大川小学校の悲劇」のなぜを知りたくて、遺族説明会・第3者検証委員会・裁判…。
ずっと親として「真実」を知りたくて頑張ってきました。
取り敢えず裁判は終わり、後世に伝える為の「伝承」の為の
「震災遺構」の話し合いを今はしているよ!
哲也が大川小学校を遺してほしいと、学校の保存を訴えてくれたおかげで建物は遺す事は出来たけれど… 肝心な「真実」や「改める事柄」が決まらないまま遺構が作られようとしています。
あの時、6人の当時の小学生が「学校を遺してほしい」と声をあげてくれたにも関わらず…
『悲劇を繰り返さない為』の伝承において、次の世代の彼等の声も聴かずに進むこの計画は、絶対に間違っているとお父さんは思います。
まだまだ、しなければならない事があるけれど…
『悲劇を繰り返さない為』の活動を続けていくつもりです。
見守っていてください。
ママへ・・・
あの震災の日は、ママの誕生日だったね。
自分は仕事でお祝いできないから、子どもたちに誕生日パーティーの「司会」と「プログラム」を誰がするかを決めさせていたのを思い出します。
息子の哲也から、あの日の地震があってから、ママが迎えに来て自宅に忘れ物を取りに行くまでのことを聞きました。
3月14日から、大川小学校の周辺をずっと捜索していたら、ママの車を見つけました。
体育館のフレームに押しつぶされた車は、原型をとどめていませんでした。
それから2日後の3月16日、やっとママを見つけたね・・・。
生きていてくれているものと思っていたけれど・・・。車を見つけた時に覚悟はしていました。
それから3日後の3月19日に親父・・・。
さらに翌日の3月20日に未捺を見つけました・・・。
泣いた、泣いた・・・たくさん泣いた・・・。
正直、死にたかったです・・・。
でも・・・哲也は津波を被っても生き残ってくれた・・・。アイツを残しては死ねない!
あの日から、この事実「大川小学校の悲劇」にずっと関わることになり、今も哲也の協力から、悲劇を繰り返さないための活動をしています。
いつか、ママに会いに行くときには「ご苦労様」と言ってもらうために、今やれること、そして自分たちのような体験を後世に繰り返さないためのことをし続けていくつもりです・・・。
哲也のことでママに叱られるのは覚悟しているけれど、何もしないで逃げる姿はアイツには見せられないので、アイツにもまだまだ頑張ってもらうと思います。
ずっと見守っていてください。
あの日から4度目の未捺の誕生日・・・生きていてくれたなら、13歳の誕生日を迎えるはずでした。
9歳で亡くなった娘の誕生日を2回も入院していましたね。
ダメな親父です・・・
震災の年も入院していて、9歳の誕生日を祝ってあげられなくて、ひとり病室で泣いたのを思い出します・・・
ピアノを弾いてくれていた未捺に、本当であれば、震災の3日後の3月14日のホワイトデーに約束していた電子ピアノが自宅に届くはずだったよね!
被災後に思い出して、発売元に電話をしたのを覚えています。「申し訳ありませんが・・・」と泣きながら事情を説明したなぁ・・・。
ずっと、約束が守れなくて、去年の5月に流された墓地を建て直した時に、約束のピアノを届けたよ・・・。
墓地にピアノを置くのを、お兄ちゃんも快く了解してくれたよ!
今頃、おじいさんとママに聞かせているかなぁ~。これからも、ずっとずっと未捺の誕生日はお祝いします。そっちでも3人でお祝いしてね!
(1月20日の未捺さんの誕生日の前に送っていただきました)