あの日、そして明日へ

こころフォト

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磯﨑咲子さん(いそざき・さきこ/当時90歳)岩手県釜石市

自宅にいたところを、津波に巻き込まれ亡くなりました。

震災から13年PHOTO



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震災から6年PHOTO



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震災から13年を迎えて

長女の髙井三千子さんより

13年目を迎えました。投稿の準備をしていましたが、元日に起きた能登半島地震。
ここ、さいたまでも緊急地震の警報音が鳴りひびき、TVは〝地震、津波、すぐ逃げて!〟
と全て切り替わりました。もう大丈夫…と思っていたけど見ると胸が苦しくなりました。
あの時は情報がさっぱり解らなくて いくらでも欲しいのに今回はTVを消しても携帯をマナーモードにしても入ってくる。絶えず続く余震、正月帰省している人もいるんだろうな…
なぜ寒い時に…と早く揺れが収まってくれーと祈るばかりでした。
その後もなかなか進まない復旧に、これからは、日本のどこでも起こりうる災害に気持ちを新たにしなければと思う。

お母さん、コロナ禍で集まることが難しいなか、やっとお父さんの二十三回忌を令和5年6月3日にやることになり、お母さんの十三回忌も兼ねてやりましたよ。
今は便利になってアメリカ(ハワイ州、ユタ州)からも参加できましたよ。
お母さんが携帯を持った時 マニュアル本を読みいろいろ駆使してメールや動画を送ってきた時のことを考えると、時々お母さんがスマホを持ったらどんなニュースが送られてきていたのかなあと話すことがありますよ。

お兄さん 80才 元気でグラウンドゴルフを、𠮷ちゃん78才 恭子72才 庭いじりや、ダンスをしてるよ?! 私75才になり足もとはふらつくけど畑や草花と…皆元気です。
真ん中にお母さんがいないけど兄妹4人で写真を撮りましたよ。
お母さんは、いつでも変わらず笑顔で見ていたよね。

震災から12年を迎えて

長女の髙井三千子さんより

あれから12年
今も卒寿記念に開いたパーティーでの笑顔の写真がリビングで見ている。
おはよう…(頑張れ!)わかった…(それでいいんだよー)うん…笑ってないで何とか言って…
ため息でてくるなぁ…(笑) 被災以来、慰霊の日、お盆と行っていた帰省も“コロナ”という これまた思ってもない災害に合い行動までもままならない世の中になってしまいました。

母 咲子、12月12日103才の生誕の日、日にちをずらして長兄、長兄の長女、私の長女、孫2人と墓参り、久しぶりの顔合わせで近況を語り合うも皆健康でいられることの幸せを願いました。
釜石の流されて解体、更地になった庭に残っている柿の木、そこから収穫して知人が干し柿にして送って下さいました。
今年は思い出しながら正月に「なます」を作り干し柿に入れてみた、イクラも入っていたっけなぁと なつかしい味がした。

今年になって、きっと母は何かにまとめようとして、数あるアルバムから貴重な写真、手紙類を1つの箱にとっていたのを津波から逃れた2階の部屋で見つけ持ち帰った。
私は改めて整理し始めました。
その年、特集された災害ビデオは、まだ まともに見てない..
家の裏の寺(高台)から撮った我家が津波にのみこまれる様子など残すことも大切なので勇気をもってみようと思います。

震災から11年を迎えて

長女の髙井三千子さんより

コロナで明けくれたこの2年。
どうしても墓参りに行きたくて高速には乗れないけど自力で行こうと決心して計画した。

息子に話すと休みをとって一緒に行くから・・・と返事が来て
2021年12月12日咲子さん生誕101年の日に
やっと念願の墓参りに連れて行ってもらいました。

時々、私には言わなかったけど、
仕事の時間が空いたときに、来ていたんだということがわかってうれしかった。

私たち兄妹も年相応に元気でいますが、今年は78歳、76歳、73歳、70歳になります。
ふるさと釜石からは、
庭の柿の木に実がたくさんなって干し柿にして送ってくださる知人がいます。

家も更地になって柿の木だけが残っていますが、
柿の実収穫ツアーをしようか?と兄と話しました。

そのためにも早くコロナ禍が終息してほしいと心から願っています。
庭の片すみに「ホトケノザ」を見つけ、まだ寒い日々が続いているけど花ビンにさして飾ってみました。

星野富弘さんの詩歌にあるように「あなたが最後に見た季節がまた巡って来(ました)るね」

震災から10年を迎えて

長女の髙井三千子さんより

実家は更地のままだけど、今年も柿の木に実がたくさんなったよと知人が知らせてくれた。
私は母から書きぞめをいただきました。震災の前年大病をし、「これからの反省の時にしたい」と毎年行ってた兄達の訪問を断り、書を楽しみ、いろんな材質のもので書いてみたいと私と妹に。時を重ねる毎にどの様な気持ちで書いたのかしら?と考えます。

10年というけれど、今でもこれからもあの時の記憶は消えない。いち早く東京から岩手にむかう兄 現地(釜石)に行くにもたどり着けない。盛岡のいとこが連日釜石まで往復して通い、なかなか見つからないので、身元がわからない遺体と対面してきた兄からの疲れきった電話。その後やっとの思いでガタガタの東北道を走り盛岡に集まった兄妹達と現地に入る。橋1本渡ったその先の地獄、実家までの道の地震の跡を目の当たりにした時の喪失感。母を探しまわったこと。どこにいるの…と情報収集、事情を説明した時、実家の地区に重機が入るとの希望。自衛隊の方が私達では入られない所まで踏み込んで探してくれたこと。

程なくして近くで見つかった3体の確認行きますか?との連絡に飛び乗った隊員のジープの中で、兄の携帯に母咲子からの着信 なんだ??
悔しくて悲しかったけど「ここにいるよ!」と知らせてくれたんだと確信して対面した。

間違いようのない母の姿、いつものようにきれいにマニキュアして会うのに、きれいな状態にして下さった身体も、髪もカールが、時計、妹と3人でつけてたおそろいのブレスレットなど。泣く間もなく事務的な手続き…釜石ではできないので、秋田か青森にと言われたけど釜石でとお願いしたこと。引き取りまで時間がかかったけど妹と2人でまだ張りのある母に化粧をしたこと。とっさに父の釣りのジャンパーをかけ、葬儀の時には、詩吟の名取りの着物をまとわせ孫達と皆で折り鶴、埼玉から運んだ花に囲まれておもいがけなく集まって下さった詩吟や三味線盤景のお仲間多勢に見送られて父のもとに旅立った。間をおいて「葬式は教会でやりたい」と生前から言っていた自身の両親が結婚式をした教会にお願いし現地ではまかなえなかったので花と食事その他物資を運び手作りのお別れ会を行うことができた。いつまでも崩れかかった赤い目印の旗が立った家は危険なので、と取りこわされることになり兄と2人で立ち会い、まだ輝いている瓦が、なんでもなかった2階が無残に崩れる様もみとどけた。

以来3月の釜石の慰霊の会、お盆には皆が釜石に集まるようになった。2017年12月海を見渡す墓地の墓じまいをし、兄の家の近くに墓を建て納骨をした(2018.3.24)2020年3月、命日ではなかったけど都合がつく7日に墓参り、それ以降コロナ騒ぎが…盆、正月にもお参りにはいけてない。

せっかく近くに来たのに、♬そこに眠ってなんかいません♯というけど10年目を迎える3月11日手を合わせ花を手向けることができるようになっていたらいいなぁと思っています。

震災から9年を迎えて

長女の髙井三千子さんより

2019年。8年目の3月11日、どうしても被災した実家に居たい!と旅立った私。

新花巻から釜石線に乗りかえると、現地は大荒れの予報で私が乗った電車以降は運休してしまった。
ギリギリの所で激しい雨の釜石に着き、なじみのタクシーでスーパーに寄ってもらい花を買う。そのまま天神町の跡地に行くも風雨がひどくなり、隣の薬局へ避難させていただいた。2時46分。その時、裏の法華さん(千寿院)の太鼓が読経と共に打ち鳴らされ、教会の鐘、黙祷のサイレンが嵐の雨音にも負けじと響いた。

リビングの母がいつも座っていた場所でずぶ濡れになって祈りました。やっぱり涙雨だなぁ…と。でも怒ってる?足、痛いといいながら来たから?どうしてもここに居たかったんだよ~。そこから見上げる所に建っている復興住宅に移り住んだ三味線の先生に電話した。何やってんの!すぐおいで!!という言葉に甘えておじゃました。暗くなる前に鵜住居に建った祈りのパークに行くと話したら、ご主人が送ってくださいました。祈りのパークの碑の中に母の名前を探す。友人の、おじさんの…と。そして5月、私は4年前の左膝に続き右膝も人工関節の手術を受けた。

長兄から、夏はラグビーで大混雑になるから釜石の秋祭見物も兼ねて祈りのパークに集合しよう!!というのを励みにリハビリを頑張ったよ。退院しても通院リハビリを続けながらだったけど10月19日(土)釜石に兄妹夫婦で集った。

着いたその日は又、雨模様だったけど宿に入る前にタクシーに分乗して鵜住居の祈りのパークにお参り、新しく又整備された名前の中に皆で母の名、知人、友人を見つけた。そばに建つ災害を伝える施設を見学した。展示された数々を見て駅の反対のラグビースタジアム。そこには津波被害があった学校があったことを知っている人はどのくらいいたんだろうか?この施設を見る余裕のある人はどのくらいいたのかしら?と思った。

悲しい辛いことばかりの釜石帰省だったけれど、夕方には雨が上がって、あちこちから虎舞の囃子太鼓が聞こえだし、ホテルの玄関にも虎舞が入って来るしで、興奮状態になった私達も街中へとくり出した。釜石を離れて、何十年も正月お盆しか帰ることがなかった私達にとって久しぶりの祭り。街角の釜石市歌の碑を見ては声に出して歌い、旧釜石小の校歌まで歌えることがわかった。明けた20日は、晴の祭り日より。幼い頃とは違い少し淋しい行列だったけどたくさんの元気をもらった秋祭りだった。10月18日父の生誕101歳。12月12日は母の生誕99歳。まだまだ元気だったから、どんな99才を迎えたのかなーと恭子(妹)とバースデーカードを贈れなくなって9年目、淋しいねえと話したよ。

2020年、父は23回忌だ(6月)。
兄の家の近くに墓を移したので、又語らう機会があるね。

その前に9回目の3月11日。墓は東京でも私はやっぱり釜石のお母さんがいつも座っていたリビングのあの場所にいたいなあ。

震災から8年を迎えて

長女の髙井三千子さんより

こころフォトに携わって下さって心より感謝しています。
両親の実家があり、その地で先祖代々生命を受け継ぎ、ずっとそこで暮らして行くものと信じていました。でも災害があり、お墓も転居せざるをえなくなりました。
今までよりはすぐ近くに来たとはいえ“ふるさと”と呼べるものがなくなったようでとても淋しいです。

復興とはなんなのかと考えることも有ります。オリンピックだラグビーだと、住む家も場所もおぼつかないのに、人材などがないと後回しにされ、東日本大震災にとどまらず日本全国まさかと思う所での災害のさなかで1人1人の思いは決して忘れたくても忘れられないものです。伝えることの大変さ大切さは理解できますが、もう表立って言わなくても毎日毎日の生活の中で忘れてはいませんし悔しさは増すばかりです。

12月12日は97歳の誕生日でした。3月10日は結婚記念日、11日が命日に。どんな97歳を迎えていたんだろうかと想いを馳せていました。(以前、NHKの番組で木村多江さんが“千の風になってのふるさと”を旅する番組をDVDにして贈ってくれたのを観て)どんなに形は変わっても私のふるさとは釜石です。昨年政府主催の追悼式に出席して、心は被災したあの釜石の家のリビングにお母さんが座っていた場所にいたい!!と切に思いました。

震災から7年を迎えて

長女の髙井三千子さんより

2018年3月24日 兄の家から近い霊園に納骨を無事 済ませました。
お天気も良く、桜も咲いて新しいお墓には青空や雲が映り、千の風になって父と母が大空を舞うようでした。
兄が読んだ追悼の言葉も一緒に入れて。
二人共いままでご苦労さんと言ってるよね?
改めてゆっくり休んでください。

震災から7年を迎えて

長女の髙井三千子さんより

2017年3月、突然の帯状ほう疹のため、今まで行っていた釜石での追悼式に出られなかった兄。それでもお盆には、兄夫婦と3人で行かれるまでに回復しました。
(薬は、これから生涯、飲み続けなければならないそうです)

滞在中は、雨・雨・雨で、どこにも行くことができずに時間をつぶして過ごすこと、お母さんの涙雨かなぁと言いながら見た花火など、むなしさを痛いほど感じました。
そしてすぐに、残された跡地などをどうするのかと、兄の心情が書かれた手紙を私たちは受け取りました。

10月27日(金)母・咲子の7回忌、父・實の23回忌を行うことなど、釜石にお墓がなくなるのはとてもさびしいけれど、兄たちの負担を考えると誰も異論はありませんでした。
親戚や知人にも墓の移転についても知らせ、了解を得ることができました。
11月18日(土)兄夫婦とおばさんと私で、墓納めを済ませました。
骨拾いをし、父と母と一緒に宿で一晩を過ごし、新幹線で帰宅。兄の所に。
私はその場所の土を少し分けてもらい、私のもとにも2つの小さな小瓶が並んでいる。

釜石の跡地には、あのとき以来、毎年実を結ぶ柿の木が残っています。
10月、法事のあと、まだ木に残っていた柿の実を、妹は干し柿にと持ち帰りました。

暖かくなったら、兄たちの散歩コースにある新しい墓地に落ち着きます。
これからは、いつでも会いにいけると少しほっとしています。

震災から6年半を迎えて

長女の髙井三千子(たかい・みちこ)さんより

日本で、いや世界各地で次々におこる災害。千年に一度!?起きるか否かといわれた東日本大震災で奪われた、かけがえのない多くの方々の命と生活。
そんな中に、まさか私の母が数えられるとは思ってもみないことでした。

「こころフォト」で、1年、3年、4年、4年半、5年半、6年・・・そして6年半を迎えて、毎日の生活の中で母に対する思いを綴ることができ、どうして?なぜ?という思いが癒やされることはないけれど・・・ごめんなさい・・・と感謝の言葉をもっと伝えたいと強く思います。

「思い出の場所」
昭和24年に生まれ、昭和34年10歳で父の転勤で室蘭へ。その後、昭和55年に定年退職して再び釜石に住むことになりました。
母は、結婚して親元を離れた私達に、以前から名前の頭文字をとって「か(長兄)き(妹)よ(次兄)み(私)便り」と近況を知らせるB4のミニ通信を毎月送り、昭和55年から「三陸かまいし便り」になりました。昭和56年2~3月、元の場所、被災した天神町に家を建て直し、9月完成。この時私は海外生活で、帰国してからは4人の子ども達と帰省した時には毎朝早く、魚市場や港に行きました。海の香りがなつかしかった。

「妹の話」
5歳で釜石を離れ、記憶にはないけれど、みんなが話してくれた花火大会・・・生まれた時、2階の窓から港の花火を見た。
その後の誕生日カードは花火の絵が多かったよ。いつか車イスを借りて見に行った花火大会が印象に残ってる。


それは2007年8月13日。私達が訪ねるお盆、花火大会はありましたが、母はいつでも皆で行っておいで、私はテレビで見れるから・・・と、帰釜してからは行ってないと。
そこでサプライズ好きの私達は、社協で車イスを借り、当日発表します!と言って、孫の秀雄くんの上手な車イスさばきで港まで見に行きました。
テレビとは違う大迫力、音、光。歓声をあげて楽しみました。その後、母の行きつけの店でおいしい料理とカラオケ・・・楽しかったね。この店のママも被災して亡くなりました。
2017年、今年は2年ぶりに花火大会があるそうです。
毎年行くお盆行事の1日前、釜石で、兄、お姉さん、私・・・と母。一緒に釜石の夜空の花火を見上げます。

(「思い出の場所」についてお聞きしました。)

次女の田中恭子(たなか・きょうこ)さんより

立ち上がるまで年月が必要でした。
しかし今、いつも前向きで明るい母が、そばにいるという感覚があります。
心配性で、どうしよう・・・という私を、いつも勇気づけてくれた母でした。
いつまでも下を向いている私を見たら、母はなんと言うだろうか?
明るく何かに向かって頑張っていることが、何よりの親孝行になるのではないだろうかと思うようになりました。

“いつからでも始められる”
“他人と比べない”
“今できることから”
“失われたもの(事)を嘆くより、今あるものに感謝して”等々、
母の言葉達が私の行動の力となっています。

お母さん、心配しないで、私は私なりに頑張っているよ!!と伝えたいです。

長女の髙井三千子(たかい・みちこ)さんより

お母さん、あのね・・・
震災から6年半が経つけど、ことし3月11日、釜石の追悼式に出かける直前に、お兄さんが帯状ほう疹になり入院したの。
「疲れが出たんだよ」と皆で慰めました。私1人で出かけましたが、帰りの電車で新幹線に乗り換える階段だけ荷物を持ってくれないかと車掌さんにお願いしました。

その後、しばらくして夢を見ました。
あの階段、「三千子こっち」とコロコロのついた荷物を持って立っていて、案内してくれました。
2段上がると踊り場があり、また2段上がると踊り場という、細く白いらせん階段でした。
お母さんは、白い地模様のある着物、式服のような立派な帯、丸い帯締めも輝いて見えました。
手に小箱を持っているので、「荷物を持つよ」と言っても、「大事な物だ」と言います。
階段を上がって地上に出ると、新幹線の高架の下はガラス張りの温泉?のようです。
「私が(咲子さんが)帰るまでお兄さんと待ってて」と言い、「どこに行くの」という私にニコッと笑い・・・
こんな階段、知らなかったよ・・・前からあったよ・・・という会話をして目が覚めました。

お母さんが教えてくれたこと。見つかるまではガレキや泥で寒い思いをしたけど、大好きな温泉で温まって、今は天国にいるよ。
ありがとうお母さん??
夢を見た日3月27日はお母さんが見つかった日でした。

ことしのお盆には、少し元気になったお兄さん、テイちゃんと一緒です。
雨続きで心配した2年ぶりの花火もあがって、終わりは土砂降り・・・お母さんの涙雨だと話したよ・・・
今度はお兄さんのところにも行ってあげてね。

震災から6年を迎えて

長女の髙井三千子さんより

12月12日 私たちの愛する母 咲子さんの生誕96年。
毎年兄嫁さんがプレゼントしてくれるシクラメンンと2010年12月12日、90歳のショット。
前年大病を経験して、その後仕事に復帰したよーと大好きな佐香さんの美容院‘くれいる‘からの写メールがきました。

津波は母だけでなく大勢の方々の生き方を変えてしまいました。
We Love You ForeverとFBに投稿しました。長男と妹は見ることができないのでメールで知らせました。
兄から思いがけない返信がきて、私は余計な事をしているのかと絶句してしまいました。
兄は何事もなければその年から一緒に住む計画をしていましたので、「震災がなければ母と3人でお祝いメールや電話を待っていたのに、毎日一緒に住めなくてごめんなさいと仏壇の母に言ってます。
又誕生日には朝一番に母にメールしている」と私以上に3月11日その日を迎えるのが辛く、悔しい思いをもって過ごしていたんだと改めて知りました。涙、、、

兄や妹、私の中に父や母を見ることがあります。
常に前向きな姿勢でいた母に似てきたねーと言われるといつでも一緒にいる。と思い、嬉しい気持ちになります。
元気で、明るく、仲良く、、、それが今できることかなと思っています。
今年は父の生誕100歳、母の七回忌などそれらを相談しながら又3月、会いに行きますね。

震災から5年半を迎えて

長女の髙井三千子さんより

母への思い。
震災5年目という今年各方面で5年目…5年目と報道され、忘れてはいけない、大切なこと、教訓を生かす、あの時はこうだった、今はここまで復興した…と。
私は逆の方をむいてしまい、思いはいっぱいあったのに、どうしても書くことができなくなってしまいました。

膝の手術をして3月1年ぶりに訪ねた慰霊行事、少なくなった列席者の数に皆、前にむいていて思い出したくもないのかな?と淋しい気持ちでした。
毎年、3月、8月と墓参りに出かける兄と、何百人もの人が一度に回忌行事などしないだろうから皆が集まることができる日にやりましょうと話した。
仮設にいたいとこは亡くなり今夏やっと仮設から復興住宅に入る知人、工事が遅れて秋ではないと入れ高齢のおばさんは、生きているうちに入れるのかと心配している。

私は震災後始まった六魂祭をめぐり、足が痛くてもイスをかついででも毎年元気をもらいに出かけた。今年青森(6県目)北海道にいる妹に呼びかけその後8年ぶりに母と妹と3人で旅行した大沼の地を再び訪ねました。
沼のほとりで、雲の流れをみつめ、木々のそよぎにあの時の風を感じ、ここではこんな話をしたね…と静かな時を過ごした。
3人で来た時も母の願いで父との思い出の地に行きたいという旅でした。
同じペンションに泊り私達は知らなかったが母はペンションのオーナーと亡くなるまで交流があり、オーナーは8年前、玄関前で撮った写真のアルバムを見せて下さいました。
何年たっても母の香りが消えることなく、さまざまな所で生きていると思いました。まだまだ語りつくせないことがたくさんあるのに…
これからは、こんな時どうするの…と聞くことができないので
お母さんならこうするよね…と生きていくんだね
変わらずに話しかけるよ お母さん

震災から4年半を迎えて

長女の髙井三千子(たかい・みちこ)さんより

震災4年半。
変わったこと。帰る家がなくなった。いまだに心の隙間が埋まらない。3月・・・お盆の帰省。虚しい気持ちは増すばかり・・・
当初、全壊といわれた家の解体にあたり、思い出は、目の前で崩れ落ちた。
かさ上げしなくては、家は建てられない・・・それから道路1本目の前は助成区域。更地にする人、補修し住み始めた人・・・しかし我が家は対象外!
昨年、住宅再建はご自由にどうぞの回答。方針が変わっても自己資金はなし。帰りたいけど帰れない・・・そんな近況です。

そんな時、以前、実家から移植したアジサイが4年ぶりに咲きました。
母が身につけていた泥まみれの衣類を持ち帰り、家でザブザブ洗い、アジサイの根元に、お父さん、お母さんを見つけたよ、と、何杯も何杯もそそぎました。
その年、次の年・・・アジサイは、葉を少しつけただけで、花は咲きませんでした。
それが今年2015年、みごとに咲いたのです。
考えてもみなかったけど、津波の水は、塩分、ドロ、油などが混ざっているので、その影響なのでしょうか?
それとも、前へ進め・・・というメッセージなのでしょうか。

震災から4年を迎えて

長女の髙井三千子さんより

12月12日は、母の誕生日です。
2014年、紅白が終わり、新しい年を迎えた今年、母へ電話をかけてみました。
知らない人が出たらどうしよう・・・と思いながら。“現在使われていません・・・”と流れてホッとしたのと同時に、もう声を聞くことはできないんだと・・・
気持ちの上では納得できたはずの日々でしたが、誕生日が近づくにつれモヤモヤして、携帯の画面、ベッドの傍ら、リビング等あちこちにいる母の笑顔に、私も笑顔で頑張るよ、と言ってたのに、堂々巡りでした。

みんなはどうなんだろうと、兄、妹に、あの時言えなかったこと、今伝えたいことをメッセージ集としてみたいと呼びかけました。
そして「生誕94年」としての、小さな記録集がまたできました。

そんな時、星野富弘さんのサンガイグサ(仏の座)の“別れ”という詩画に出会いました。私の心境にぴったりでした。
「あなたが最後に見た季節がまた巡ってきて、幽霊になってでももう一度逢いたい、詫びることもお礼をいうことも出来なくなる別れがある」という詩画です。

妹からJR室蘭本線にある、私達が住んでいた近くの「母恋(ボコイ)駅」の切符など、皆の思いがつづられた手紙集です。
「三陸の幸送られし年末の 今はかなわぬ夢のまた夢」

息子の結婚によせて「もう二度と笑うことなどないものと思ったけれど 幸せはくる」と歌を詠む妹の中に、旅の思い出や13回忌などアルバムにして届けたとき、私も若い時に同じようにやっていた、似たんだネ、と喜んでくれたり、助言が欲しいのにと言う孫、自慢のひいおばあちゃんと版画の力作を、結婚の報告と「ひ孫ですよ~」との数々・・・
もう知っているよね。
お母さん、みんなの心の中には、いまでも生き続けていますよ。

また逢える日まで少しのお別れだね。
他には、とっても元気なのに、膝が痛くて手術をしたりと、お母さん、ここにもあなたがいます・・・(笑)

長女の髙井三千子(たかい・みちこ)さんより

12月12日 誕生日だね…
米寿のお祝いに みんなのメッセージを集め届けた時の嬉しそうな顔…卒寿のお祝いを最高の想い出に突然の別れ…
笑顔で頑張ると言ったのに 堂々巡り…
ガレキの中から私の元に戻って来たメッセージ集を前にもう一度作ろうと皆んなに呼びかけあれからのことを話した生誕94年に寄せて…ができたよ。
仏前に置くから見てね。

震災から3年を迎えて

長女の髙井三千子さん(64)より

90歳。年令を聞かれ答えると皆同様に“まぁその年なら(あきらめもつくね)”と言った。
会ったとたん、“なんだ元気じゃん”と言い放った人もいた。
1年目、2年目と慰霊の旅は、あの時と同じように厳しい寒さで、来るのを拒んでいるかの様な気候でした。
1年目は茫然と、ただただ悲しく、悔しくて、札幌から東京、千葉、埼玉から盛岡に集合し、バスで釜石へ。途中見る雪景色は、母が作った盤景の世界を見ているようでした。翌年の慰霊行事、母が以前泊まってみたいと言っていたフォルクローロ遠野に宿した。そこで私と妹は折り紙に、いまの気持ち、母に話したいこと、これからのこと等をつづり、折り鶴にして、顕花とともに供え、祈りました。

“折り鶴に、託した思い 風にのり 二人に届けと 祈る二年目”
次女恭子作

遠く離れている分、電話で、メールで、手紙でと、毎日のようによく話しました。
2011年12月、万全の準備をして出席するはずだった8番目の孫の2012年5月には5番目の孫の結婚式がありました。もちろんテーブルには祖父母の写真がありました。昨年はひ孫がそれぞれ生まれました。

毎年紅白が終わったあと、時報と同時に電話して新年の挨拶をしてから眠りにつく。うれしい報告、新しい発見、料理の味付け、相談事、おけいこの日程、などなどいつでも、お母さんあのね…と話していた。そんなことがプッツリと出来なくなってしまいました。
電話しても“現在使われていません…”と流れてくる空しさ。いつも笑っている写真に、なんで?本当に亡くなったの!と声をかけ、思いは募るばかりです。
何度も釜石を訪ねては、家がない自宅周辺は変化なし。仮設にいる知人の好意に甘えて泊めていただき、夏、冬とそれぞれに仮設の生活の厳しい現実を体感しました。
2度の大津波をのりこえて、今回もその体験を私達に備えとして伝えてくれたはずだったと思い、聞きたい事はたくさんある。
思い出すと憎い、悔しいと前に進まない。
でも日々の生活の中で、母の願いは、私達が同じ所にとどまっていることではなく、今までどおりに皆仲良く、釜石に逢いにおいで、待ってるからねと笑顔の写真は言ってる。そう思う。

3年目。お母さんあのね…きっと又会えると信じているから、乗り越えられない試練はない。
あなただからできると言ってくれたお母さん。
笑顔で頑張るよ。みていてね。

長女の髙井三千子(たかい・みちこ)さんより

私達の愛する母、咲子は折に触れて歌を詠む人でした。父の7回忌の時は、兄妹4人に手書きの歌集を。13回忌の時には、成人した子供や孫にも今までに綴った歌集を冊子にまとめて下さいました。詩吟、三味線と趣味の仲間も多くいました。13回忌、この年までは、なんとしても頑張ろうと元気で迎えられるよう、努力していました。
母が87歳の時には、父との思い出の地(大沼・室蘭・札幌・旭川)を巡る旅もしました。
88歳の米寿の年には、孫、ひ孫からのも含め、家族皆からメッセージを集め、一冊のアルバムにして、サプライズ訪問として妹と釜石を訪ねました。
このアルバムが奇跡的に震災をくぐり抜け、手元に戻ってきました。
父の13回忌では、サプライズ計画で卒寿のお祝いを、いつも使っていたシーガリアマリンホテルで行いました。この時は19人しか来ることができませんでしたが、いつものように記録をDVDに残し、みんなとハグをして写真に収めました。幸せの絶頂でした。

その年、初めて受けた検診で母は大腸がんが見つかりました。それでも、本人にも告知をし、先生方の献身的な看護で克服し、100歳までOKと太鼓判を頂いたほどでした。
父が亡くなって以来、盆と暮れには帰省していた兄夫婦に「今年は来なくていい。私の反省会とこれからのことを考えたい」と断り、最後となった年賀状には、書き初めとして、私と妹宛てに言葉をしたためて送って下さいました。

3月9日、大きな地震があった時も大丈夫、これからお稽古に行くとメールが来ました。
この次は絶対に逃げてね、と念を押した電話の後でした。10日は父と母の68回目の結婚記念日でした。
妹と長電話をした後、私は母と、いつでもぎゅっと父にハグされたいというメールを交わしました。

11日。いつもなら忙しくお稽古のはずが、この日は2週間に1度の訪問パン屋さんがやってくる日で、14時30分頃パン屋さんと話していました。
その後激しい揺れが襲うも、母はきっと逃げる準備をしていたはずです。けれど、余震が続き、足の自由がきかない母は・・・。
最後まで悔やまれます。いつものようにお稽古の日だったら・・・。せめてガラス1枚割れていない2階に上がれたら・・・。津波は憎い!!
兄妹4人で毎日盛岡のいとこが送って下さって、釜石まで通い、17日目にとても綺麗な状態で自宅から500メートルほどの所で母は発見されたと連絡を受けました。
母は全部自分の歯だったので、「70代ではないの?」と間違えられるほどでした。そして、安置所へ向かう途中に、奇跡は起きました。
兄の携帯電話に母の咲子と着信があったのです。その時に絶対にこれから対面するのは、お母さんだ!と確信しました。

毎年3月11日はめぐってくるけれど、私達はいつまでもいつまでも忘れないからね。
大好きなお父さんと会えましたか?
お父さん、お母さんの子供として生まれて、本当に良かったよ。ありがとう。
たくさん楽しい思い出ありがとう。でも本当は、会いたいよ・・・。

長女の髙井三千子(たかい・みちこ)さんより追加のメッセージ

お母さん、あのね。
5月31日、お父さんの17回忌をしました…
13回忌の時、元気で迎えられて良かったと言ってたけど、津波がなかったら楽々この日を迎えていたはずと思いましたよ。
今年は22人。
まだ逢っていなかったひ孫の茉奈ちゃん、来月にはもう一人生まれます。
いつまでも忘れないでこうして集まり伝えていきます。

磯﨑咲子さんへのメッセージ・写真を募集しています。

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