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こころフォト

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磯﨑咲子さん(いそざき・さきこ/当時90歳)岩手県釜石市

自宅にいたところを、津波に巻き込まれ亡くなりました。

震災から6年半PHOTO



震災から6年PHOTO



震災から4年PHOTO



震災から3年PHOTO




震災から6年半を迎えて

長女の髙井三千子(たかい・みちこ)さんより

日本で、いや世界各地で次々におこる災害。千年に一度!?起きるか否かといわれた東日本大震災で奪われた、かけがえのない多くの方々の命と生活。
そんな中に、まさか私の母が数えられるとは思ってもみないことでした。

「こころフォト」で、1年、3年、4年、4年半、5年半、6年・・・そして6年半を迎えて、毎日の生活の中で母に対する思いを綴ることができ、どうして?なぜ?という思いが癒やされることはないけれど・・・ごめんなさい・・・と感謝の言葉をもっと伝えたいと強く思います。

「思い出の場所」
昭和24年に生まれ、昭和34年10歳で父の転勤で室蘭へ。その後、昭和55年に定年退職して再び釜石に住むことになりました。
母は、結婚して親元を離れた私達に、以前から名前の頭文字をとって「か(長兄)き(妹)よ(次兄)み(私)便り」と近況を知らせるB4のミニ通信を毎月送り、昭和55年から「三陸かまいし便り」になりました。昭和56年2~3月、元の場所、被災した天神町に家を建て直し、9月完成。この時私は海外生活で、帰国してからは4人の子ども達と帰省した時には毎朝早く、魚市場や港に行きました。海の香りがなつかしかった。

「妹の話」
5歳で釜石を離れ、記憶にはないけれど、みんなが話してくれた花火大会・・・生まれた時、2階の窓から港の花火を見た。
その後の誕生日カードは花火の絵が多かったよ。いつか車イスを借りて見に行った花火大会が印象に残ってる。


それは2007年8月13日。私達が訪ねるお盆、花火大会はありましたが、母はいつでも皆で行っておいで、私はテレビで見れるから・・・と、帰釜してからは行ってないと。
そこでサプライズ好きの私達は、社協で車イスを借り、当日発表します!と言って、孫の秀雄くんの上手な車イスさばきで港まで見に行きました。
テレビとは違う大迫力、音、光。歓声をあげて楽しみました。その後、母の行きつけの店でおいしい料理とカラオケ・・・楽しかったね。この店のママも被災して亡くなりました。
2017年、今年は2年ぶりに花火大会があるそうです。
毎年行くお盆行事の1日前、釜石で、兄、お姉さん、私・・・と母。一緒に釜石の夜空の花火を見上げます。

(「思い出の場所」についてお聞きしました。)

次女の田中恭子(たなか・きょうこ)さんより

立ち上がるまで年月が必要でした。
しかし今、いつも前向きで明るい母が、そばにいるという感覚があります。
心配性で、どうしよう・・・という私を、いつも勇気づけてくれた母でした。
いつまでも下を向いている私を見たら、母はなんと言うだろうか?
明るく何かに向かって頑張っていることが、何よりの親孝行になるのではないだろうかと思うようになりました。

“いつからでも始められる”
“他人と比べない”
“今できることから”
“失われたもの(事)を嘆くより、今あるものに感謝して”等々、
母の言葉達が私の行動の力となっています。

お母さん、心配しないで、私は私なりに頑張っているよ!!と伝えたいです。

長女の髙井三千子(たかい・みちこ)さんより

お母さん、あのね・・・
震災から6年半が経つけど、ことし3月11日、釜石の追悼式に出かける直前に、お兄さんが帯状ほう疹になり入院したの。
「疲れが出たんだよ」と皆で慰めました。私1人で出かけましたが、帰りの電車で新幹線に乗り換える階段だけ荷物を持ってくれないかと車掌さんにお願いしました。

その後、しばらくして夢を見ました。
あの階段、「三千子こっち」とコロコロのついた荷物を持って立っていて、案内してくれました。
2段上がると踊り場があり、また2段上がると踊り場という、細く白いらせん階段でした。
お母さんは、白い地模様のある着物、式服のような立派な帯、丸い帯締めも輝いて見えました。
手に小箱を持っているので、「荷物を持つよ」と言っても、「大事な物だ」と言います。
階段を上がって地上に出ると、新幹線の高架の下はガラス張りの温泉?のようです。
「私が(咲子さんが)帰るまでお兄さんと待ってて」と言い、「どこに行くの」という私にニコッと笑い・・・
こんな階段、知らなかったよ・・・前からあったよ・・・という会話をして目が覚めました。

お母さんが教えてくれたこと。見つかるまではガレキや泥で寒い思いをしたけど、大好きな温泉で温まって、今は天国にいるよ。
ありがとうお母さん??
夢を見た日3月27日はお母さんが見つかった日でした。

ことしのお盆には、少し元気になったお兄さん、テイちゃんと一緒です。
雨続きで心配した2年ぶりの花火もあがって、終わりは土砂降り・・・お母さんの涙雨だと話したよ・・・
今度はお兄さんのところにも行ってあげてね。

震災から6年を迎えて

長女の髙井三千子さんより

12月12日 私たちの愛する母 咲子さんの生誕96年。
毎年兄嫁さんがプレゼントしてくれるシクラメンンと2010年12月12日、90歳のショット。
前年大病を経験して、その後仕事に復帰したよーと大好きな佐香さんの美容院‘くれいる‘からの写メールがきました。

津波は母だけでなく大勢の方々の生き方を変えてしまいました。
We Love You ForeverとFBに投稿しました。長男と妹は見ることができないのでメールで知らせました。
兄から思いがけない返信がきて、私は余計な事をしているのかと絶句してしまいました。
兄は何事もなければその年から一緒に住む計画をしていましたので、「震災がなければ母と3人でお祝いメールや電話を待っていたのに、毎日一緒に住めなくてごめんなさいと仏壇の母に言ってます。
又誕生日には朝一番に母にメールしている」と私以上に3月11日その日を迎えるのが辛く、悔しい思いをもって過ごしていたんだと改めて知りました。涙、、、

兄や妹、私の中に父や母を見ることがあります。
常に前向きな姿勢でいた母に似てきたねーと言われるといつでも一緒にいる。と思い、嬉しい気持ちになります。
元気で、明るく、仲良く、、、それが今できることかなと思っています。
今年は父の生誕100歳、母の七回忌などそれらを相談しながら又3月、会いに行きますね。

震災から5年半を迎えて

長女の髙井三千子さんより

母への思い。
震災5年目という今年各方面で5年目…5年目と報道され、忘れてはいけない、大切なこと、教訓を生かす、あの時はこうだった、今はここまで復興した…と。
私は逆の方をむいてしまい、思いはいっぱいあったのに、どうしても書くことができなくなってしまいました。

膝の手術をして3月1年ぶりに訪ねた慰霊行事、少なくなった列席者の数に皆、前にむいていて思い出したくもないのかな?と淋しい気持ちでした。
毎年、3月、8月と墓参りに出かける兄と、何百人もの人が一度に回忌行事などしないだろうから皆が集まることができる日にやりましょうと話した。
仮設にいたいとこは亡くなり今夏やっと仮設から復興住宅に入る知人、工事が遅れて秋ではないと入れ高齢のおばさんは、生きているうちに入れるのかと心配している。

私は震災後始まった六魂祭をめぐり、足が痛くてもイスをかついででも毎年元気をもらいに出かけた。今年青森(6県目)北海道にいる妹に呼びかけその後8年ぶりに母と妹と3人で旅行した大沼の地を再び訪ねました。
沼のほとりで、雲の流れをみつめ、木々のそよぎにあの時の風を感じ、ここではこんな話をしたね…と静かな時を過ごした。
3人で来た時も母の願いで父との思い出の地に行きたいという旅でした。
同じペンションに泊り私達は知らなかったが母はペンションのオーナーと亡くなるまで交流があり、オーナーは8年前、玄関前で撮った写真のアルバムを見せて下さいました。
何年たっても母の香りが消えることなく、さまざまな所で生きていると思いました。まだまだ語りつくせないことがたくさんあるのに…
これからは、こんな時どうするの…と聞くことができないので
お母さんならこうするよね…と生きていくんだね
変わらずに話しかけるよ お母さん

震災から4年半を迎えて

長女の髙井三千子(たかい・みちこ)さんより

震災4年半。
変わったこと。帰る家がなくなった。いまだに心の隙間が埋まらない。3月・・・お盆の帰省。虚しい気持ちは増すばかり・・・
当初、全壊といわれた家の解体にあたり、思い出は、目の前で崩れ落ちた。
かさ上げしなくては、家は建てられない・・・それから道路1本目の前は助成区域。更地にする人、補修し住み始めた人・・・しかし我が家は対象外!
昨年、住宅再建はご自由にどうぞの回答。方針が変わっても自己資金はなし。帰りたいけど帰れない・・・そんな近況です。

そんな時、以前、実家から移植したアジサイが4年ぶりに咲きました。
母が身につけていた泥まみれの衣類を持ち帰り、家でザブザブ洗い、アジサイの根元に、お父さん、お母さんを見つけたよ、と、何杯も何杯もそそぎました。
その年、次の年・・・アジサイは、葉を少しつけただけで、花は咲きませんでした。
それが今年2015年、みごとに咲いたのです。
考えてもみなかったけど、津波の水は、塩分、ドロ、油などが混ざっているので、その影響なのでしょうか?
それとも、前へ進め・・・というメッセージなのでしょうか。

震災から4年を迎えて

長女の髙井三千子さんより

12月12日は、母の誕生日です。
2014年、紅白が終わり、新しい年を迎えた今年、母へ電話をかけてみました。
知らない人が出たらどうしよう・・・と思いながら。“現在使われていません・・・”と流れてホッとしたのと同時に、もう声を聞くことはできないんだと・・・
気持ちの上では納得できたはずの日々でしたが、誕生日が近づくにつれモヤモヤして、携帯の画面、ベッドの傍ら、リビング等あちこちにいる母の笑顔に、私も笑顔で頑張るよ、と言ってたのに、堂々巡りでした。

みんなはどうなんだろうと、兄、妹に、あの時言えなかったこと、今伝えたいことをメッセージ集としてみたいと呼びかけました。
そして「生誕94年」としての、小さな記録集がまたできました。

そんな時、星野富弘さんのサンガイグサ(仏の座)の“別れ”という詩画に出会いました。私の心境にぴったりでした。
「あなたが最後に見た季節がまた巡ってきて、幽霊になってでももう一度逢いたい、詫びることもお礼をいうことも出来なくなる別れがある」という詩画です。

妹からJR室蘭本線にある、私達が住んでいた近くの「母恋(ボコイ)駅」の切符など、皆の思いがつづられた手紙集です。
「三陸の幸送られし年末の 今はかなわぬ夢のまた夢」

息子の結婚によせて「もう二度と笑うことなどないものと思ったけれど 幸せはくる」と歌を詠む妹の中に、旅の思い出や13回忌などアルバムにして届けたとき、私も若い時に同じようにやっていた、似たんだネ、と喜んでくれたり、助言が欲しいのにと言う孫、自慢のひいおばあちゃんと版画の力作を、結婚の報告と「ひ孫ですよ~」との数々・・・
もう知っているよね。
お母さん、みんなの心の中には、いまでも生き続けていますよ。

また逢える日まで少しのお別れだね。
他には、とっても元気なのに、膝が痛くて手術をしたりと、お母さん、ここにもあなたがいます・・・(笑)

長女の髙井三千子(たかい・みちこ)さんより

12月12日 誕生日だね…
米寿のお祝いに みんなのメッセージを集め届けた時の嬉しそうな顔…卒寿のお祝いを最高の想い出に突然の別れ…
笑顔で頑張ると言ったのに 堂々巡り…
ガレキの中から私の元に戻って来たメッセージ集を前にもう一度作ろうと皆んなに呼びかけあれからのことを話した生誕94年に寄せて…ができたよ。
仏前に置くから見てね。

震災から3年を迎えて

長女の髙井三千子さん(64)より

90歳。年令を聞かれ答えると皆同様に“まぁその年なら(あきらめもつくね)”と言った。
会ったとたん、“なんだ元気じゃん”と言い放った人もいた。
1年目、2年目と慰霊の旅は、あの時と同じように厳しい寒さで、来るのを拒んでいるかの様な気候でした。
1年目は茫然と、ただただ悲しく、悔しくて、札幌から東京、千葉、埼玉から盛岡に集合し、バスで釜石へ。途中見る雪景色は、母が作った盤景の世界を見ているようでした。翌年の慰霊行事、母が以前泊まってみたいと言っていたフォルクローロ遠野に宿した。そこで私と妹は折り紙に、いまの気持ち、母に話したいこと、これからのこと等をつづり、折り鶴にして、顕花とともに供え、祈りました。

“折り鶴に、託した思い 風にのり 二人に届けと 祈る二年目”
次女恭子作

遠く離れている分、電話で、メールで、手紙でと、毎日のようによく話しました。
2011年12月、万全の準備をして出席するはずだった8番目の孫の2012年5月には5番目の孫の結婚式がありました。もちろんテーブルには祖父母の写真がありました。昨年はひ孫がそれぞれ生まれました。

毎年紅白が終わったあと、時報と同時に電話して新年の挨拶をしてから眠りにつく。うれしい報告、新しい発見、料理の味付け、相談事、おけいこの日程、などなどいつでも、お母さんあのね…と話していた。そんなことがプッツリと出来なくなってしまいました。
電話しても“現在使われていません…”と流れてくる空しさ。いつも笑っている写真に、なんで?本当に亡くなったの!と声をかけ、思いは募るばかりです。
何度も釜石を訪ねては、家がない自宅周辺は変化なし。仮設にいる知人の好意に甘えて泊めていただき、夏、冬とそれぞれに仮設の生活の厳しい現実を体感しました。
2度の大津波をのりこえて、今回もその体験を私達に備えとして伝えてくれたはずだったと思い、聞きたい事はたくさんある。
思い出すと憎い、悔しいと前に進まない。
でも日々の生活の中で、母の願いは、私達が同じ所にとどまっていることではなく、今までどおりに皆仲良く、釜石に逢いにおいで、待ってるからねと笑顔の写真は言ってる。そう思う。

3年目。お母さんあのね…きっと又会えると信じているから、乗り越えられない試練はない。
あなただからできると言ってくれたお母さん。
笑顔で頑張るよ。みていてね。

長女の髙井三千子(たかい・みちこ)さんより

私達の愛する母、咲子は折に触れて歌を詠む人でした。父の7回忌の時は、兄妹4人に手書きの歌集を。13回忌の時には、成人した子供や孫にも今までに綴った歌集を冊子にまとめて下さいました。詩吟、三味線と趣味の仲間も多くいました。13回忌、この年までは、なんとしても頑張ろうと元気で迎えられるよう、努力していました。
母が87歳の時には、父との思い出の地(大沼・室蘭・札幌・旭川)を巡る旅もしました。
88歳の米寿の年には、孫、ひ孫からのも含め、家族皆からメッセージを集め、一冊のアルバムにして、サプライズ訪問として妹と釜石を訪ねました。
このアルバムが奇跡的に震災をくぐり抜け、手元に戻ってきました。
父の13回忌では、サプライズ計画で卒寿のお祝いを、いつも使っていたシーガリアマリンホテルで行いました。この時は19人しか来ることができませんでしたが、いつものように記録をDVDに残し、みんなとハグをして写真に収めました。幸せの絶頂でした。

その年、初めて受けた検診で母は大腸がんが見つかりました。それでも、本人にも告知をし、先生方の献身的な看護で克服し、100歳までOKと太鼓判を頂いたほどでした。
父が亡くなって以来、盆と暮れには帰省していた兄夫婦に「今年は来なくていい。私の反省会とこれからのことを考えたい」と断り、最後となった年賀状には、書き初めとして、私と妹宛てに言葉をしたためて送って下さいました。

3月9日、大きな地震があった時も大丈夫、これからお稽古に行くとメールが来ました。
この次は絶対に逃げてね、と念を押した電話の後でした。10日は父と母の68回目の結婚記念日でした。
妹と長電話をした後、私は母と、いつでもぎゅっと父にハグされたいというメールを交わしました。

11日。いつもなら忙しくお稽古のはずが、この日は2週間に1度の訪問パン屋さんがやってくる日で、14時30分頃パン屋さんと話していました。
その後激しい揺れが襲うも、母はきっと逃げる準備をしていたはずです。けれど、余震が続き、足の自由がきかない母は・・・。
最後まで悔やまれます。いつものようにお稽古の日だったら・・・。せめてガラス1枚割れていない2階に上がれたら・・・。津波は憎い!!
兄妹4人で毎日盛岡のいとこが送って下さって、釜石まで通い、17日目にとても綺麗な状態で自宅から500メートルほどの所で母は発見されたと連絡を受けました。
母は全部自分の歯だったので、「70代ではないの?」と間違えられるほどでした。そして、安置所へ向かう途中に、奇跡は起きました。
兄の携帯電話に母の咲子と着信があったのです。その時に絶対にこれから対面するのは、お母さんだ!と確信しました。

毎年3月11日はめぐってくるけれど、私達はいつまでもいつまでも忘れないからね。
大好きなお父さんと会えましたか?
お父さん、お母さんの子供として生まれて、本当に良かったよ。ありがとう。
たくさん楽しい思い出ありがとう。でも本当は、会いたいよ・・・。

長女の髙井三千子(たかい・みちこ)さんより追加のメッセージ

お母さん、あのね。
5月31日、お父さんの17回忌をしました…
13回忌の時、元気で迎えられて良かったと言ってたけど、津波がなかったら楽々この日を迎えていたはずと思いましたよ。
今年は22人。
まだ逢っていなかったひ孫の茉奈ちゃん、来月にはもう一人生まれます。
いつまでも忘れないでこうして集まり伝えていきます。

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