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峯トシ子さん(みね・としこ/当時93歳)福島県二本松市

原発事故で、新潟県長岡市の施設へ移動せざるをえなくなり、転居先で症状が悪化して亡くなりました。

震災から10年を迎えて

長男の峯勝美(みね・かつみ)さんより

震災から早いもので10年になりますが、生まれ育った故郷をはなれ、現在は隣町に自宅を建てて住んでいますが、近所の人達とはほとんど付き合いもなく話し相手もいなくちっと淋しい感じがします。

できれば震災時に住んでいた町に戻りたいと思います。

それと震災時に施設に入っていた母親の事が今でも残念でなりません。
まさか母親が新潟 長岡の施設に送られるとは思ってもみませんでした。
その時に一緒にいられなかった事が今でも悔やまれます。

次の年に母親は長岡の病院で亡くなりました。
最期も一緒にいる事はできませんでした。
10年たって震災が良かったか悪かったか
今だに判断がつきません・・・・・?
原発事故が余計でした

長男の峯勝美(みね・かつみ)さんからのメッセージ

地元浪江の施設に居た頃は、週に2~3度面会をしに行くと、「ありがとう」と時に笑顔を見せてくれていた。帰り際には、「気をつけて!」と言葉は少ないものの言ってくれていたのに・・・
この原発事故により、遠く新潟県長岡市の施設に離されてしまい、淋しい思いをさせてしまった。
おばあさんが亡くなる2~3日前にも面会したが、その時は話しかけてもうなずくだけだった。
今までに何度も何度も復活してきたおばあさんだったから、また復活出来ると信じていた。しかし今回は突然、危篤という電話があり、車で向かっている途中で死亡した・・・と知らせがあった。
東京に居る姉に、状況説明のため、いつも面会に行くたびに写メールやビデオで知らせていた。
おばあさんの最後、臨終に会えなかったことが残念で一番悔しい思いだ。
原発さえなければ、浪江町内の施設に居られて、臨終にも(家族がバラバラになる事もなく)皆が間に合い、死に水も取れていたかと思うと、情けなく口惜しい。家族の誰とも会わせる事が出来なかったのが本当に残念でならない。
が・・・長岡での施設の人達はとても親切で、家族のように接してくださり、おばあさんも手厚く介護されていて、幸せだったと今は思うようにしている。
この場を借りて、当時中ノ島の施設にお世話になった先生をはじめ、皆様に一言お礼申し上げます。
遠く福島から、押しかけ的な状況の中、本当に親身になってくださり、ありがとうございました。
また、仮通夜をした際にも、施設の一室を提供して頂き、代わる代わる皆さんが手を合わせに来てくれたりと、本当に心から感謝致します。
亡くなった夜は家族のみで過ごし、おばあさんも眠っているかのような安らかな顔で心穏やかに逝けたと思います。
おばあさん、これからはおじいさんと一緒に空の上から自分や家族のことを見守っていてくださいね。

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