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川口重雄さん(かわぐち・しげお/当時82歳)登喜代さん(ときよ/当時80歳) 福島県浪江町

自宅周辺の片づけをした後、避難する途中で、津波に巻き込まれたと見られています。

震災から3年を迎えて

長男の登さん(64)より

東日本大震災発生から間もなく3年目を迎えようとしていますが、現地は今なお当時のままの状態にあります。

私の住んでいた地域は、避難指示解除準備区域に設定され、町の帰還計画では平成29年3月が帰還目標になっていますが、津波の浸水高さが2メートル超えということにより、昨年12月町議会で災害危険区域に承認されたため、新たに住宅を建築することが出来なくなり、戻りたいけれども戻れない状況にあります。

このような中にあって、遺体の捜索活動の遅れなどから精神的苦痛により、浪江町遺族会とADRとの和解仲介申立交渉を実施してまいりましたが、昨年和解が成立し両親に結果を報告しました。 
今年度中に町営墓地として地区内の高台に新たな墓地の敷地造成が実施されることになり、現在仮設住宅に安置してあるお骨を納骨してあげたいとこのように思っています。

3年目を迎えるにあたり、健康であった両親が大津波により突然逝ってしまったのは、今なお家族にとってポッカリ穴が開いてしまったようで忘れることができません。(病気により亡くなってしまったのであれば諦めもつくが、悲しみと苦しさの重さが違うように思えてなりません。)
今年は、早く新しいお墓を造って葬ってあげたいとこのように思っています。

長男の登(のぼる)さんからのメッセージ

両親は家族思いの大変仲睦まじい夫婦で、農作業や畑仕事を生きがいにしていたようでした。
また、毎日のように隣近所の高齢者たちと集まってはお茶飲みや世間話をしたりと和やかな時間を過ごしていました。
孫に対する愛情は特別で、今回の写真も、孫が震災の1か月前に食事に誘った時のもので、私たち家族にとっては唯一の写真です。
震災に関するこれまでの思いは、速やかに逃げていればと悔やまれるところですが、父の真面目で几帳面な性格、母の気丈さ頑固さが、津波に動じず、災いしてしまったのかなと察するところです。
さらに、原発事故による捜索活動の遅れで本人確認に相当の日数を要し、最終的にはDNA照合で判明しましたが、すでに火葬されていたことから、両親と対面できなかったことが今でも心残りとなっています。

こころフォトのページをご覧になった、孫の川口三和子(かわぐち・みわこ)さんより

じぃちゃん、ばぁちゃん。
私はずっと忘れない。
3年前の今日、助けに行けなくてごめんね。
ただ、会いたいです。

川口重雄さん、登喜代さんへのメッセージ・写真を募集しています。

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