自動車学校の送迎バスで帰宅中に津波に流されて亡くなりました。高校を卒業後、外食チェーンに就職することが決まっていました。
娘「薫」がいなくなってから、しばらくは泣いてばかりの日々・・・しかし、下の弟(当時、小6)から「お母さん、いつまで泣くの?」と言われ、ハッと気づきました。
長男(当時22歳)と弟がいると・・・
日々の中で思うのは、今、元気なら、どんな娘になっていたか?
成人の晴れ着姿も、お化粧した姿や、娘の赤ちゃんや・・・想像するだけですが、今も、そんな毎日です。
でも、娘からは「笑顔でいて」と言われる気がして、努めて明るく過ごしています。
昨年、長男が結婚し、子どもも生まれ、薫おばちゃんだよ・・・弟は、高校卒業して、社会人で頑張ってるよ・・・
まわりは、どんどん変わっていきますね。しかし、何年経っても、家族を亡くした者の気持ちは、きのうの事のように、いつまでも変わらないでしょう。
メディアで紹介されるのは、岩手、三陸、福島原発が多いですが、亘理山元の震災後の復興はイチゴばかり。
大川小も出ますが、同じ「学校」がついた「自動車学校」での出来事も忘れないでください・・・
薫には、今でも、どうしてあんな自動車学校に通わせてしまったのだろうと・・・自責の念が消えません。
まして、どうして、かわってあげられなかったか。
自宅にいれば何事もなかったのに、あの日わざわざ午後から学校の教習車に送り、あの自動車学校が50分近くも待機させていたのか?
裁判でも、最終的に和解勧告となり、仕方ない結果に終わりました。相手の謝罪らしい本当の言葉もなく、あきらめに変わりました。
25名の遺族の親もバラバラになり、今も連絡がとれるのは数名程度です。当初は慰霊碑建立の話もありましたが、色々あり立ち消えに・・・と現在に至っています。
しかし、その数か月通った自動車学校で、娘は、好きな男の子ができ、嬉しい気持ちで行っていた、思い出の場所だったようです。
昨年7回忌でしたが、まだお墓もなく、仏壇もなく、娘、薫はまだ家におり、部屋もそのままです。
また、いつでも「ただいま!」と帰ってくるようです。まだ高3のまま。
いまだ行方不明の方もおります。周囲は、毎月11日も、何事もなく過ぎますが、遺族にとっては我が事なのです。
家、建物、直せますが、人間は戻ってこないのです。
いまだに信じられません。
いまでも「ただいまぁ!」と帰ってくるようです。
薫は遠くで一人暮らしをしている…そんな感じです。
あの当時、震災の日のことは、夢だったんではないか?そうも思います。
しかし、現実はなぜか、祭壇に飾られた薫の写真があり、お骨があり、という、生活の中で普通通りに毎日の暮らしがあり、上のお兄ちゃんは今年26歳に、下の弟は春に高校生になります。3年前は小学6年生でした。
それなのに、薫はまだ18歳です。
待望の女の子でした。娘でした。
やっと女同士の楽しみが一緒にできるようになったと思った矢先でした。
自動車学校へ入校させなければよかったと、後悔ばかりです。
自宅も他の家族も無事なのになぜ?
私の実家は流失しましたが、親たちは避難して無事でした。
当時は実家(ふるさと)どころではありませんでした。
まして、順番が逆だと、私と主人は嘆きました。
神も仏も無いと思いました…
娘が成人式の昨年は、友人に写真だけでもと一緒に参加させてもらいました。
正直辛かった。
着物姿の友達は、きれいに着飾り、娘だけが取り残された感がありました…
でも、少しずつでも明るく過ごさねば、薫に怒られるかなと思い、徐々に前向きにと考えています。
いつまでも、娘のことを忘れないでほしい…
家を失った人たちは再建できますが、人は戻ってこない…
最近、娘が幼かったころの夢を見ます。
現実を受け入れている部分と、まだ受け入れぬ部分があります。