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沖縄戦の記憶を後世に 夫の連載を書籍化

  • 2023年7月10日

毎年6月23日は沖縄県出身の私にとって特別な日です。
太平洋戦争末期、1945年(昭和20年)の沖縄戦では、激しい地上戦の末、20万人以上が亡くなり、沖縄県民の4人に1人が命を落としました。
沖縄県は旧日本軍の組織的な戦闘が終わったとされる6月23日を「慰霊の日」と定めています。
あれから78年。戦争体験者の高齢化が進み、その記憶を次の世代にどう継承していくのかが課題となっています。
こうしたなか、新聞記者の夫が取材した沖縄戦の兵士たちの証言を後世に残そうと、書籍化を目指す女性が北海道の月形町にいます。その思いを取材しました。(旭川放送局  山口琉歌)


“兵士たちの声を後世に”  記者の思い

「母親が腰を撃ちくだかれて絶命。赤ん坊が火のついたように泣いている」「死んでもいい…たのむから水をくれ、たのむ…」

1964年(昭和39年)、北海道の地元紙「北海タイムス(廃刊)」で連載された沖縄戦の特集「あゝ沖縄」の記事です。
沖縄戦では北海道から多くの兵士が派遣され、沖縄県の出身者以外では最も多い1万人あまりが命を落としました。
連載では、北海道の兵士たちの手記をもとに悲惨を極めた戦闘の様子を9か月、267回にわたって伝え続けました。

連載を担当した記者の清水幸一さんは戦時中、旭川市の旧陸軍第7師団で、予備役の兵士の教育を担当していました。

17年前に亡くなった幸一さんについて、妻の清水藤子さん(78)は「生き残った者としての後ろめたさと、仲間の証言を後世に伝えなければという使命感が取材の原動力だったのではないか」と振り返ります。

清水藤子さん
「夫は人を傷つける軍隊に入るのが嫌で、自殺をはかったそうです。そして、自分が訓練した人たちが沖縄に行って多数亡くなった。終戦後、その人たちの慰霊のための仕事をしようと考えたそうです。それが生き残った者の責任だと思ったのではないでしょうか」

“証言を後世に” 夫の連載の書籍化を決断

幸一さんが手がけた連載記事を大切にとっている藤子さん。戦争体験者も自身も年を重ねた今、夫が残した兵士の証言を後世に伝えたいという思いが強くなり、「あゝ沖縄」の書籍化を決意しました。必要な資金はクラウドファンディングで募ることにしています。

清水藤子さん
「連載では戦場に送られた庶民がどんなに苦労するか、生身の人間の体験がそのまま書かれています。また、とにかく人の名前がいっぱい出てきます。この重さというのがね、年をとるにしたがって、ずしずし重く感じるようになりました。彼らの証言を世の中に出さなければならないと思うようになったんです」

「あゝ沖縄」が縁で遺族とつながる

苛烈を極めた沖縄戦。誰がどこでどのように亡くなったのか、ほとんど分からず、戦没者の遺骨の多くが家族のもとにかえっていません。こうしたなか、「あゝ沖縄」の記事が遺骨の身元を特定する手がかりになることもあります。

沖縄戦 当時の映像より

北海道砂川市に住む木川邦明さんは沖縄戦で伯父を亡くしました。
祖母なよさんは、戦死した息子の英明さんの部隊の戦闘の様子を連載の記事で初めて知り、感謝の気持ちを寄稿していました。

木川なよさん 投稿
「戦死した状況が分かりませんでしたが、涙にむせびながら読ませていただきました」

それから半世紀以上。2017年(平成29年)に遺骨収集を行っている団体がなよさんの記事を見つけ、孫にあたる邦明さんと連絡を取ることができました。邦明さんは、沖縄県糸満市で見つかった英明さんの可能性がある遺骨の身元を特定するためにDNAを提供。現在、鑑定の結果を待っています。

木川邦明さん
「なよおばあちゃんは、なぜ息子が帰ってこないのか、ずっと考えていたと思います。国から死亡通知書が届いても、遺骨が戻ってこなければ、どこでけじめをつけていいか分からないですよね。それが、新聞に木川なよの名前が載っていて、住所も書かれてあって、たまたまつながりができた。『ばあちゃん、よかったねえ』と思います。大きな縁のようなものを感じます。もし鑑定が一致して伯父の遺骨が戻ってくることがあれば、おばあちゃんのお墓に入れてあげたいです」

平和な世界求め… “今こそ多くの人に読んでほしい”

戦没者と遺族をつなぐ「あゝ沖縄」。本の表紙絵は画家でもある藤子さん自身が描きます。

表紙絵 下絵のスケッチ

描くのは北海道に咲く清らかで冷たい水を連想させる白い花「エゾノコリンゴ」です。その理由は…。

「北海道の冷たい水が飲みたいなあ」「俺んちの井戸の水は夏でも手がしばれるくらい冷たいぞ」 (「あゝ沖縄」より)

暑さや渇きに苦しんだ兵士たちの魂を癒やそうと、鎮魂の思いを込めて筆を執ります。

清水藤子さん
「記事の中に『死体が浮く泥水も飲んだ』という証言が出てくるんだよね。それで、6月の末、雪解け水が澄んで、山野を流れる水がきれいになる時期に咲くエゾノコリンゴの花を描こうと思ったの。この花はわっと咲いたら、あとはパラパラと散るんですよね。それを北海道の戦没者に見立てて魂を鎮めようと思って」

表紙絵を描く藤子さん

沖縄戦から78年。藤子さんが平和を願う一方で、世界を見ると、ロシアによるウクライナへの軍事侵攻が続いています。国際情勢が緊迫化するなか、藤子さんは今こそ沖縄戦の兵士たちの声に耳を傾けるべきだと強く訴えます。

清水藤子さん
「北海道の庶民の兵士が苦労して悲惨な目に遭う。連載には目を背けたくなるようなことが克明に書かれています。読んだ人がどういう感想を持つかは分かりませんが、その情報を提供するのは私たち年配の人間の責任だと思うんです。『あゝ沖縄』をきちんと出版して、兵士の目線で見た戦争がどういうものであったか後世に残したい。多くの人に読み継がれる本になってほしいです」

取材後記

以前、取材のため、日本兵の陣地として使われた自然洞窟「ガマ」を訪れる機会がありました。不発弾の破片や人骨のかけらがあり、時が止まっているように感じました。訪れた「ガマ」がある地域で出会った人の多くが、遺骨が戻っていない戦没者の遺族でした。沖縄戦はまだ終わっていない、そう思いました。
「あゝ沖縄」の記事は、残酷でむごい戦争の描写のほかに、兵士たちが見た“夢”の話も多く出てきます。「夢でお母さんに会った」「白いめしと湯気の立つみそ汁の夢を見た」。過酷な戦地で兵士たちが見た“夢”は、いつかの平和な日常。その“夢”に触れたとき、私は彼らが自分と同年代の普通の青年だったこと、その一人ひとりの人生を戦争が奪ってしまったこと…。証言の重みを感じました。
清水幸一記者は、戦場でのつらく悲惨な経験について多くは語ろうとしない兵士たちに粘り強い取材を続け、「あゝ沖縄」の連載につなげました。それがなければ、兵士たち個人の生の声が世に出ることはなかったかもしれません。私も一記者として、沖縄戦体験者の思いや記憶を後世に伝えていく。その覚悟を新たにしました。

「あゝ沖縄」書籍化のクラウドファンディングは、150万円を目標に8月16日まで「READYFOR」のサイトで受け付けています。

2023年7月10日

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