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交流途絶えた稚内市 友好の絆の行方は

  • 2024年3月26日

稚内市はロシア極東・サハリン州との間で、半世紀前から交流を深めてきました。しかし、ロシアによるウクライナへの軍事侵攻の影響で、交流は途絶えています。事態の先行きが見通せないなか、稚内市では長年育んできた友好の絆を絶やすまいと、交流再開を見据えた動きが出ています。(NHK稚内支局  奈須由樹)

サハリンとは“隣町”の関係

国境の街、稚内市。宗谷海峡を挟んだ対岸にあるロシア・サハリン州との距離はわずか43キロと、旭川市や札幌市よりも近く、まさに“隣町”の関係にあります。旧ソビエト時代、1972年のネベリスク市との友好都市締結以来、1991年にコルサコフ市、2001年にはユジノサハリンスク市との間でも提携が結ばれ、文化や経済の交流が進められてきました。かつては市役所に「サハリン課」という、外国の地名を冠した、全国でも珍しい部署もありました。

人の往来も盛んでした。コルサコフ港との間ではフェリーの定期航路が結ばれ、サハリンのエネルギー開発などのビジネスに加え、観光でも多くの人が行き来しました。稚内市内では、道路の標識や店の看板など、あちらこちらでロシア語の表記が見られます。

交流をさらに深めようと、2002年にユジノサハリンスク市に開設されたのが「稚内市サハリン事務所」です。道内の市町村で初めてとなる事務所には市の職員が駐在し、現地の情報収集や行政機関や民間団体との交流などにあたってきました。

稚内市  工藤広 市長
「稚内とサハリンの間で多くの人が行き来したり、モノが動いたり、ちょうどその時期にわれわれとしても現地での生きた情報をつかまえながら人やモノの交流、情報も含めて拠点にしたいという思いで事務所をつくった」

 

ウクライナ侵攻で事務所は休止状態 廃止か存続か  市長の決断は

しかし、サハリンでのエネルギー開発が一段落すると、定期フェリーの利用客は減少。2015年に民間の運航会社が撤退します。その後、小型の旅客船が運航しましたが、利用客の減少には歯止めがかからず、2019年に休止になりました。いまも再開の見通しは立っていません。 
さらに、2022年2月、ロシアがウクライナへ軍事侵攻を開始。コロナ禍で帰国していた職員を現地に再び派遣するのが難しくなり、サハリン事務所は休止状態となりました。2年の月日がたっても事態の先行きが見通せないなか、事務所の更新手続きは2024年3月末に迫っていました。廃止か、存続か。稚内市の工藤広市長が下した決断は…。

稚内市  工藤広 市長
「サハリン事務所を継続する。いま、この状況のなかで事務所を無くすと、サハリンに住んでいる人たちに誤ったシグナルを送ってしまうことになる」

工藤市長は、事態が収束した後を見据え、サハリンとの交流拠点を維持する必要があると判断したのです。稚内市は2024年2月に担当職員をサハリンに渡航させ、現地当局と協議を行いました。その結果、新年度の4月からは、道のサハリン事務所を間借りする形で存続させることが正式に決まりました。市によりますと、移転先となる道サハリン事務所近くには日本の企業や団体が多く、これまで以上に情報の共有や連携が期待できるということです。一方、市の職員は当面、駐在させず、必要な業務は現地のロシア人スタッフがかわりに行うということです。

ウクライナ侵攻が続き、日本とロシアとの関係が停滞するなか、“サハリンとの交流再開は現実的ではない”という指摘もあります。それでも工藤市長は“次世代のために友好の絆を絶やすべきではない”と考えています。

稚内市  工藤広 市長
「いまは正直、ロシアと日本の関係は好ましくないが、長く続けてきた交流でいうと、サハリンの人に悪い感情は持っていない。非常に悲しい状況にあることは確かだが、続けてきた交流をなんとしてもこの先に結びつけたい。それが次の世代にまたつながっていくのかなと思う。サハリンに住んでいる人たちの心を信じながら、かつての交流に戻りたい」

 

事務所存続へ  経済関係者も期待

交流再開を見据えた行政の動きを経済関係者は歓迎しています。
地元の経済界が1992年に立ち上げた「稚内日ロ経済交流協会」は、サハリンの情報をまとめた月刊誌をおよそ20年間発行し続けています。

現地からの情報では、稚内との交流を希望する人たちが多くいるということです。

稚内日ロ経済交流協会  伊藤裕 事務局長
「少しでも、細くてもいいので、なるべく交流を続けられるような形にしたい。サハリンの人たちも交流したいという気持ちはあるので、個人としてもこの仕事をしている間にもう1回交流が再開できるようになればと思う」

稚内市では経済交流の一環として1994年から民間企業がロシア人を研修生として受け入れてきました。稚内商工会議所の中田伸也会頭は「大きなインパクトのある事業だった」と振り返ります。

稚内商工会議所  中田伸也 会頭
「サハリンから“いろいろな企業で学びたい”という意向があった。建設や金融、自動車関係などさまざまな業種で研修生を受け入れた。日ロの友好的にも人的にも経済的にも大きなインパクトのある事業だと思っている。研修では常にメモ帳を持って日本語とロシア語を訳してみたり、技術的な専門的なこともいろいろと学んだり、皆さん本当に真面目だった」

コロナ禍の前、2019年までの25年間に企業が受け入れた研修生の数は109人に上っています。経営のノウハウを修得してもらい、サハリンに戻ったあとは稚内との交流のかけ橋になってほしいという願いが込められていました。

稚内商工会議所  中田伸也 会頭
「サハリンに戻った研修生たちが『稚内クラブ』という団体をつくっている。稚内側でも『サハリンクラブ』という団体をつくり、お互いに交流をしてきた。向こうに行けば歓迎してくれる。多くの人がサハリンに残って、いまも経済活動をしている。その人たちとの個人的な関係はこれからもずっと続くだろう。現地ではガス開発もあり、研修生の受け入れが始まった30年前に比べると、経済的に活気ある街になっている。昔は稚内から学ぶことが多かったが、いまはわれわれがサハリンから学ぶことも多いのではないか。これからもパーソナルコネクション(人脈)を大事にしながら、稚内とサハリンの経済発展ができればと思う」

“隣町”のサハリンが遠い存在になりつつあるなか、交流を再開できる日は来るのか。稚内市はともに育んできた友好の絆を信じ、その日を待ちます。

 

取材後記

稚内支局に着任してから半年ほどが過ぎました。毎日のように目にする宗谷海峡の奥に、うっすらとサハリンの島影が見えることもあります。初めて見たときは、こんな近くに外国が存在するのかと驚きました。稚内市民が“隣町”と感じるのもよく分かります。しかし、近いはずのサハリンとは定期航路もなくなり、交流も途絶えたままで、遠い存在になりつつあります。今回、稚内の行政や経済界を取材して印象的だったのは、次世代を見据えた交流再開への期待です。工藤市長は「人口減少に伴う人手不足で、稚内市では、いま、外国の人たちがたくさん働いている。今後は多文化が共生する街になるだろう。それを考えると、サハリンと長年交流を続けてきた私たちの経験は必ず生かされると思う。多文化共生を軸にしたまちづくりを、これからの人たちに担っていってもらいたい」と話していました。日本とロシア、国家間では厳しい関係にあっても、地方都市どうしの国際交流を続けてきた稚内市。交流再開を望むメッセージは“隣町”に届くのか。引き続き国境の街で取材を続けます。

2024年3月26日

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