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JR苗穂駅になぜ萩原朔太郎の詩が?

  • 2024年2月22日

今回は、仕事でJR北海道を利用していた視聴者の方からの投稿です。

 室蘭市の70代男性からの質問
「JR苗穂駅に萩原朔太郎の『旅上』の詩があるのはなぜ?」

 萩原朔太郎といえば、主に大正時代に活躍し、日本近代詩を確立した詩人といわれています。一体誰がどのような理由で設置したのか、そもそも朔太郎は北海道にゆかりがあるのか?調べてみました。(札幌局記者 関口祥子)  

投稿してくれたのは室蘭市に住む西畑常夫さん(77)です。

投稿者の西畑常夫さん

西畑さんは、2014年からおよそ1年半、東室蘭駅から札幌・小樽方面まで仕事でJRを利用していました。JRに乗るといつも決まって進行方向左側の座席に座り、山を眺めるのがささやかな楽しみだったといいます。苗穂駅を通過するあたりで、その左側の車窓から萩原朔太郎の詩が見えたということです。

西畑さんの投稿を受けて、その当時、駅舎のどこに詩があったのか、JR北海道に取材しました。すると2018年にJR社員が撮影した写真を提供してくれました。写真からは苗穂駅の当時の駅舎の壁に、青色の横長の看板が掲げられているのが確認できます。

JR苗穂駅(2018年撮影)

この写真を西畑さんにも見てもらい、当時を振り返ってもらいました。

西畑さん
「苗穂駅のあたりから列車がスピードをゆるめるわけですよ。ふっと見ると改札口の上の方に看板が掛けてあったので、こんな所に、萩原朔太郎の詩がかいてあることに不思議に思いました。どんな人が発案して、どんな思いで、いつつけたのかなと、ずっと気になっていた」

西畑さんは朔太郎のこの詩を高校生のときに読んでいて、いわば青春時代の思い出。苗穂駅で目にしたときは、とても懐かしい気持ちになったといいます。

西畑さんの思いのこもった質問になんとか答えたいと取材をスタートさせました。

西畑さんが見ていた看板はもうない しかし・・・

現在のJR苗穂駅

苗穂駅は2018年に駅舎の場所が変わり新しい建物になっています。JR北海道の提供写真に写っていた駅舎は、現在は取り壊されています。
朔太郎の詩が今も残っているのか、苗穂駅の改札に行ってみました。

現在のJR苗穂駅に掲げられた朔太郎の詩

朔太郎の詩は駅舎の中の券売機の上に掲げられていました。色も青色ではなく、白色に変わっています。
苗穂駅に掲げられていたのは、萩原朔太郎の「旅上」の前半部分。

「ふらんすへ行きたしと思へども
 ふらんすはあまりに遠し
 せめては新しき背広をきて
 きままなる旅にいでてみん。」
(岩波書店『萩原朔太郎詩集』より)

詩には、遠い国へ旅に出ることはできなくても、おしゃれをして旅に出たいという気持ちが込められています。

そもそも朔太郎と北海道にゆかりはあるのか?
日本近代詩の専門家で朔太郎にも詳しい愛知大学短期大学部の安智史教授に話を聞きました。

愛知大学 短期大学部 安智史教授

安教授
「実家がお医者さんで長男だったものですから、医者を継ぐように求められていた。でもうまくいかず、いろんな学校に入っては退学したり、受験しようとしてやめたりするんです。実はその最初が札幌農学校なんですね。受験者名簿に名前があったけれど、受験を欠席したというのが10年ぐらい前にわかったんです。朔太郎は北海道には行ったことはないんですね」

朔太郎の意外な事実を知れたものの、苗穂駅とのかかわりがわかる手がかりを見つけることはできませんでした。

浮かび上がってきたある人物

頼みの綱は、苗穂駅の駅員からもらった資料。詩の設置の経緯が書かれています。

朔太郎の詩に関する資料

この資料にとある人物の名前を見つけました。旧国鉄の苗穂駅の駅長を務めた福原年一さん。こうなったら、福原さんを探しだして直接話を聞くしかありません。

苗穂駅の元駅長 福原年一さん

取材を重ねて、ようやく福原さんにたどりつきました。現在90歳です。福原さんに初めて連絡を取ったときには、「よく私にたどりつきましたね」と驚いた様子でしたが、快く取材に応じてくれました。詩を掲げることを提案したのは、当時、駅長だった福原さんだったと答えてくれました。乗客の旅情を誘いたいと設置したといいます。

苗穂駅の元駅長 福原年一さん
「駅が殺風景なものですから、詩の一つでも載せてお客さんの募集に役立てたらいいんじゃないかと思ったのです。それならこの萩原朔太郎の『旅上』がいいのではないかと私が提案すると、みな賛同してくれて作ることが決まりました。お客さんの見えるところと言ったらちょうど線路の横があいていたものですから、一緒にいた助役さんに習字を習っているものがいたので書いてもらって、大工をやっていて手先が器用な職員に看板をつくってもらって、みんなであげたっていうのがそもそもの始まりです」

駅長時代の福原さん

福原さんが苗穂駅の駅長を務めていたのは1986年2月から1年間。翌年の4月に旧国鉄が分割民営化する直前まで駅長を務めました。

苗穂駅(1978年撮影)

福原さんによると、当時の苗穂駅は一般の利用者は少なく、駅周辺にある鉄道関連施設で働く旧国鉄の職員などが大半を占めていたといいます。そこで、通過する列車の車窓から一般の利用者の目につくように、あえて駅舎の外側に看板を設置したということです。

駅長の帽子をかぶる福原さん

なぜこの詩を選んだのかも聞いてみました。福原さんは少し照れながら、「言い過ぎかもしれませんが、詩が好きだったんです。小説よりも詩が好きで、そこまでたくさん読んだわけではないですが石川啄木とかの詩を読んでいた」と話してくれました。ちょうど旧国鉄の職員になった10代後半のころ、学校の教師をしていた姉から、詩が好きならと萩原朔太郎の詩を紹介されたといいます。鉄道関係の職に就いた福原さんは、旅への思いをつづった「旅上」の詩が印象に残っていたということでした。

福原さんによると、看板を設置した後、乗客から何度か投書をもらったり、新聞で紹介されたりと好意的な反応があり、駅員みんなで喜んだといいます。さらに、福原さんが駅長を辞めた後、看板が一時的に取り外された際にはお客さんから反対の声が上がり、再び設置し直した話を耳にしたということです。
およそ40年たったいまも駅に詩が残されていることについては、「まさかここまで残っているとは思わなかった」と顔をほころばせながら話していました。

苗穂駅の元駅長 福原年一さん
「ほんとうにね、嬉しいですよ。懐かしいなというか、よくここまでもたせてくれたなと。そんなんだったら俺も汽車に乗ってみるかなんて思ってくれたら100点満点だろうけども、そこまでいかなくとも、ああいい詩だなと思ってもらえたらうれしい。あとは駅を管理される駅長さんのご判断で決められると思いますけれども、あればあったでいいんじゃないかと思います」

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