シラベルケーネ! 江田島市なぜ1つの島に2つの名前?
- 2024年03月06日
今回の「シラベルケーネ!」は、広島市西区にお住まいの「イケおやじ」さんからの質問について調べてきました。
「1つの島なのに江田島と能美島と名前が2つに分かれているのはなぜですか?」。
江田島市の地名には確かに江田島も能美島もあります。いったいなぜでしょうか。
(NHK広島放送局記者 福田諒)
なぜ2つの名前?まちの人は
2つの名前がなぜあるのか、江田島市でまちの人に聞いてみました。
「よく分からないです。不思議に思ってはいたんですが」
「その由来は分からないですね。そう言われてみれば謎ですよね。掘っていくとおもしろいかもしれませんね。住んでいながら知らないんですけど」
元は別々の島だった
なぜ1つの島に、2つの島の名前があるのか。詳しい人がいると聞き、江田島市にある「学びの館」を訪ねました。
市の文化財保護委員長を務める宇根川進さんです。
謎を解くヒントになる、ある絵図を見せてくれました。
「三島水軍村上党城塞図」。戦国時代の様子を、軍学者が後の江戸時代に描いたものの写しとされます。
宇根川さん
「城塞図。瀬戸内海の島の状況を描いている地図と言われている」
このなかに、現在の江田島市の部分もありました。2つの島に分かれています。1つが「江田シマ」、もうひとつが「能美嶋」と記されています。
宇根川さん
「もともとですね、江田島と能美島は別々の島だったようなんですよ」
なぜ1つの島になったのか?
2つの島として描かれた場所が、なぜいまは陸続きの1つの島になったのか。その謎に答えてくれる公文書がありました。
それがこちら。「明治19年公文備考土木巻四」。当時の海軍省が明治19年にまとめたものです。「新開(しんかい)」。「築調耕地(ちくちょうこうち)トナセシモノナリ」。新開とは、新田開発のこと。築調耕地とは、土地を造成して農地にしたことを意味します。
こちらが、その資料に添付された地図です。
右が江田島。左が能美島。真ん中の部分は、当時、海だったそうです。それが、江戸時代初期から順番に埋め立てられていきました。資料から、2つの島をつなぐ埋め立て事業はおよそ250年かけて行われたことが読み取れます。およそ13万平方メートル。大規模な造成事業でした。
宇根川さん
「一番には人口の増加に伴い、昔は収入というのはお米の石高でいうから、お米の耕作地を増やすというのが一番の課題ではなかったかという思いでいる」
写真の左が江田島、右が能美島。その間が埋め立てられてできたということが公文書から分かったんです。調べてみるとおもしろいですね。
実は、先ほどの当時の海軍省の資料には続きがあります。
「舟路ニ復スハ容易ナル事業(しゅうろにふくすはよういなるじぎょう)」。「通船セシムルニ至ルヘシ(つうせんせしむるにいたるべし)」。埋め立てられた海峡をもとに戻そうという案があったことが分かります。海峡に戻したうえで江田島に軍港を築くという選択肢もあったそうですが、結局、この事業は行われませんでした。
理由ははっきりとは分かりませんが、宇根川さんは、当時の江田島での慢性的な水不足が要因ではないかと話していました。公文書が残っているといろいろなことが分かりますね。
🔍🔍🔍質問募集!🔎🔎🔎
「シラベルケーネ!」では皆さんからの情報や疑問を募集しています。
🔽投稿はこちらから🔽
https://www.nhk.or.jp/hiroshima/okonomi/shiraberukeene/
「こんなこと聞いていいのかな」なんて思わず、まずは投稿してください。
お好みワイドが調べるけぇね!