放送史

放送制度の成立と犬養毅

~逓信省内部資料と帝国議会答弁の分析から~

本稿の目的は,戦前において放送事業の経営が“公益社団法人”の手に委ねられるようになった経緯を明らかにすることである。大正末期の激動する時代状況の中で,2度にわたって逓信大臣を務め,放送制度の成立に深く関与することとなった犬養毅に焦点を当て,放送誕生のプロセスを探ってみた。

犬養毅と放送制度との関わりは,彼が初めて逓信大臣を務めた1923(大正12)年12月に,放送事業の民営の可能性を明文化した「放送用私設無線電話規則」を公布したことに始まる。その後,逓信大臣に再び返り咲いた彼は,1924(大正13)年7月に,営利企業を前提として出願者の統合を進めていたそれまでの方針を変更し,放送事業の経営を公益社団法人に委ねるという決定を下した。

この唐突な変更については,これまで様々な見方がなされており評価が定まっていない。“見識”(『犬養木堂伝』),“先見の明を誇る”(『後藤新平伝』),“勇断”(『日本無線史』)という高い評価がある一方で,“出願者の競合による紛糾解決の方策”(『日本放送史(65)』),指導監督の強化という逓信省の“既存の方針を再確認した”にすぎない(向後2006)という冷静な受け止め方もある。

そこで,当時の逓信省の内部文書や彼の帝国議会での答弁の分析を通して,放送制度の成立過程で犬養の果たした役割について再検証を行った。その結果,彼の決定が,放送に対する統制を強化しようと考えていた逓信官僚の思惑や,利権亡者を毛嫌いしていた彼の公徳心などが相まって,出願者の合同作業の紛糾を解決する当面の手段として行われた可能性が高いことが明らかになった。また,根本的な政策転換に基づいたものではなく,放送事業の統制強化という逓信省の既存方針を踏襲したものであったことも指摘できる。

犬養の決定は,放送の公権力からの独立をうたった現在の公共性の概念とは全く相反するものであった。しかしながら,放送を利潤獲得の手段としてしか考えていない当時の出願者たちの実状などをみると,創成期における放送が疑獄事件の発生などで混乱に陥るのを防ぎ,堅実で節度ある発展を促す上で一定の役割を果たしたとみることができる。

メディア研究部(メディア史) 加藤元宣