メディアフォーカス

盗聴取材でマードック帝国に激震

~広がる波紋・メディア規制強化論も~

ルパート・マードック(Rupert Murdoch)氏率いる「メディア帝国」に激震が走っている。傘下のタブロイド紙が廃刊に追い込まれた盗聴事件をめぐり,マードック氏自身がイギリス議会に召喚されるなど,世界有数の複合メディア企業は,足元からぐらつく。

さらに事件が警察や政界をも巻き込む大スキャンダルへと波紋を広げる中,怒る世間は,不信の目をメディア全体に向けている。メディアは,市民の信頼を取り戻せるのだろうか。

盗聴が横行?市民の怒り爆発

発端は,2006年,イギリスの日曜大衆紙「ニューズ・オブ・ザ・ワールド」(NoW)の記者ら2人が,英王室関係者らの電話を盗聴したとして逮捕された事件であった。NoWは記者らの個人的な犯行と主張して幕引きを図ろうとした。それに対して,編集長が関わっていたとする内部告発があり,NoWによる組織的な盗聴疑惑がくすぶり続けた。

今回スキャンダルに再び火がついたのは,盗聴の被害者に,政治家や俳優など著名人だけでなく,一般人も含まれていることがわかったためである。2002年に誘拐され殺害された13歳の少女のケースでは,NoWは,少女の携帯電話の留守電メッセージを盗聴し,さらに伝言の削除まで行っていた。新たな録音を吹き込めるスペースを作るためだが,娘が生きて携帯電話を操作していると両親に間違った希望を抱かせ,警察捜査を混乱させたと指摘されている。

この他,2005年のロンドン自爆テロの犠牲者の遺族やイラクで戦死した兵士の遺族へも同様の盗聴が行われていたと報じられ,報道倫理のあまりの逸脱ぶりに市民の怒りが一気に爆発した。

盗聴事件で,これまでに,NoWの元編集長のアンディ・コールソン(Andy Coulson)容疑者ら10人が逮捕された。ロンドン警視庁が押収した資料により,NoWでは,私立探偵を使うなどして,4,000人の盗聴を組織的に行っていた疑いがあることがわかった。

この事態を受けて,イギリスで最多の発行部数を誇った日曜大衆紙NoWは7月10日,168年の歴史に幕を閉じ,廃刊に追い込まれた。NoWでは,最後の紙面で「私たちは道を誤った。盗聴を本当に申し訳なく思う」と謝罪したが,疑惑は収拾するどころか,さらに広がっていった。

マードック傘下の別のタブロイド紙「サン」や高級紙「サンデー・タイムズ」でも違法な取材が慣例化しているのではという疑惑が浮かび上がった。盗聴の他,声色を使って本人になりすまして個人情報を引き出す手口など,違法取材の例が次々に報じられた。

さらに取材過程での違法行為が,マードック系以外の新聞社でも横行しているのではとの疑惑も出ている。今回の事件で逮捕されたNoWの元編集長レベッカ・ブルックス(Rebekah Brooks)容疑者は,イギリス議会下院特別委員会での証言で,私立探偵を使って情報収集することがイギリス新聞業界では常態化していると語った。発行部数を伸ばすために取材モラルを顧みない英国メディアのあり方そのものに不信の目が向けられている。

ちなみに,NoWが盗聴のために私立探偵を雇っていたことを独自の調査をもとに報じたBBCに対して,マードック系のタイムズ紙の記者が質問したところ,BBCのマーク・トンプソン(Mark Thompson)会長はBBCも取材で私立探偵を使うことがあることを認め,「常に倫理規定に従い,責任者の監督下で行っており,違法なことはしていない」と述べた。BBCの取材ガイドラインに私立探偵についての記述は見あたらないが,雇うこと自体には,報道倫理上問題はないという姿勢である。

■ NoW をめぐる盗聴疑惑の経緯■
00年5月 ブルックス氏,NoW編集長就任
02年3月 少女誘拐殺人事件
03年1月 コールソン氏,NoW編集長就任
06年8月 盗聴疑惑で記者ら2人逮捕
10年5月 キャメロン連立政権発足
コールソン氏を官邸報道局長に任命
11年7月  
4日 少女誘拐殺人事件について盗聴疑惑報道
8日 コールソン容疑者,逮捕
10日 NoW廃刊
13日 BSkyB買収断念
17日 ブルックス容疑者,逮捕
警視総監辞任
19日 マードック氏議会へ召喚

頓挫したマードック帝国のメディア戦略

NoWの収益はマードック率いるニューズ・コープの事業全体の1%に満たないが,事件でマードック氏が払った代償は大きい。

ニューズ・コープは7月13日,傘下の衛星テレビ大手BSkyBの完全子会社化計画を撤回すると発表した。

この計画は,2010年6月,ニューズ・コープがBSkyB社のすべての未所有株61%を取得すると発表したもので,メディアの寡占などを理由に主要メディアから猛烈な反対にあった。イギリス政府では1年余り検討の末,2011年6月,最終承認を出す意向を示した。あと数日で承認が下りるとみられていたところに盗聴スキャンダルが発覚し,一転,ニューズ・コープはBSkyB買収計画からの撤退を余儀なくされることとなった。

BSkyBは契約数が1,000万人を超えるイギリス有料放送最大手で,今年3月までの9ヶ月間の売上高は48億3,300万ポンドに達する。ニューズ・コープでは,新聞に比べ収益率の良いBSkyBの完全子会社化で衛星放送事業をグループの事業の柱の一つにする計画だった。

マードック氏は,1931年オーストラリアに生まれ,父の跡を継ぎ地元の新聞社社長に就任した。その後,イギリスの大衆紙サンを買収したのを足がかりに米英の新聞,テレビ,出版,映画会社といったメディアを手に入れ拡大し続けてきたが,盗聴事件でマードック氏のメディア戦略は大きくつまずいた。

問われるメディアと政治の距離

事件は,メディア界から政界に飛び火し,キャメロン政権を揺さぶった。

保守党キャメロン首相が,2010年5月就任直後,最初に官邸に招待したのがルパート・マードック氏だ。その後も,首相はマードック氏や同系列新聞の幹部とたびたび面会していたことが発覚した。イギリスで販売される新聞の4割がマードック系で,労働党,保守党に関わらず,過去30年マードック氏の支持のない政治家は首相になれないとまでいわれるほどマードック氏は政界に強い影響力を持つ。

キャメロン首相への批判の焦点となったのが,元NoWの編集長アンディ・コールソン氏を,今年1月まで首席報道官として起用していた点で,首相の任命責任が問われた。また,元編集長のレベッカ・ブルックス氏が,閣僚でもめったに招待されないロンドン郊外の別邸に招かれるなど,首相と頻繁に接触していたことがわかり,BSkyBの買収をキャメロン政権が承認するに当たって背後で影響力を行使していたのではないかと疑われた。

これまで表立ってマードック氏を敵に回すのを避けていた政界も,今回ばかりは,世論の怒りを背景に追及の手を緩める気配はない。

イギリス議会下院文化メディア・スポーツ特別委員会は7月19日,ルパート・マードック氏と次男でイギリス子会社ニューズ・インターナショナル社会長のジェームズ・マードック氏を召喚し,疑惑に関する質問を行った。英メディア界に進出して40年,マードック氏が議会で直接証言するのは初めてである。

委員会の冒頭,ルパート・マードック氏は「人生で最も謙虚な気持ちになった日だ」と述べ,誘拐殺人事件の被害者の少女の携帯が盗聴されていたことについて,「2週間前に初めて聞いたときは本当に衝撃を受け,恥ずかしく思った」と語り,謝罪した。しかし,事件の責任については,「一部の社員に信頼を裏切られた」との認識を示し,責任を負うべきは裏切った社員だとして,辞任する考えはないと強調した。

2時間を超える今回の証言で疑惑が晴れたわけではなく,マードック氏のいう信頼を裏切った「一部の社員」が具体的に誰を指すのかなど,さらなる追及が続く見込みである。

警察にまで不法な影響力行使

この事件では,警察との癒着も表面化した。マードック・グループでは,情報入手のため警察関係者に違法な謝礼を払っていたとされるほか,盗聴事件に関与したと疑われるNoWの関係者が,高額の給与をもらって警察の広報担当として雇われていたことが発覚した。こうした責任をとってロンドン警視庁の警視総監らが辞任した。

このような取材する側とされる側の癒着を背景に,盗聴事件に対する警察捜査が不十分だったとの批判も強い。NoWが広範で組織的な盗聴を行っているのではとの疑惑に,警視庁は新たな証拠がないとして,捜査の再開に消極的だった経緯がある。

■マードック・メディア帝国■
アメリカ
本  社 ニューズ・コープ
ルパート・マードック会長(80)
・ウォールストリート・ジャーナル
・FOXテレビ(ネットワーク)
・FOXニュース(ケーブル)
・20世紀フォックス映画
・ハーパーコリンズ(出版)
イギリス
子会社 ニューズ・インターナショナル
ジェームズ・マードック会長(38)
・サン(大衆紙)
・タイムズ(高級紙)
・サンデー・タイムズ(日曜高級紙)
・ニューズ・オブ・ザ・ワールド (7月10日廃刊)
・BSkyB(衛星テレビ,株式39%保有)
その他
・オーストラリア 約150メディア
・スター・インディア(インド最大のケーブル局)
・スカイ・イタリア(イタリアの衛星放送局)など

アメリカにも広がる波紋

NoWの親会社ニューズ・コープの本社があるアメリカでも疑惑追及の動きが始まっている。FBI・アメリカ連邦捜査局は,NoWの記者らが,2001年の同時多発テロの被害者らの携帯電話を盗聴しようとした疑いで捜査に着手した。さらに,米国企業による外国政府関係者への贈賄行為を禁じる海外腐敗行為防止法に違反しているのではと,民主党の有力議員らが,証券取引委員会に調査を求めている。

ニューズ・コープは,アメリカで新聞の「ウォールストリート・ジャーナル」や「FOXテレビ」などを持つ。特に「FOXテレビ」は共和党支持を明確に打ち出し,オバマ政権に批判的な報道を繰り返してきただけに,来年の大統領選挙を控え,民主党が攻勢を強めることも考えられる。

メディア規制強化の動き

報道倫理に端を発した今回のスキャンダルの影響は「マードック帝国」にとどまらず,このスキャンダルを連日大きく報じている他のメディアにも波及しそうな様相である。

キャメロン首相は,7月20日の下院議会で,盗聴など報道関係者の不正行為について幅広く調査するため,控訴院判事のレベソン(Leveson)氏をリーダーとして元ジャーナリストや放送関係者で構成する調査委員会を設置したことを明らかにした。そして,メディア業界の倫理基準を高めるための新たな制度や規制を設けるための提言を示すよう同委員会に要請した。また,首相は,単一の組織によるメディアの寡占防止のためメディアの所有規制を改正する可能性に触れ,今後,メディアの買収や勢力拡大の判断はOfcom(放送通信庁)に委ねるのが望ましいとの見方を示した。

キャメロン首相の設立した調査委員会では,公共放送BBCも調査の対象に入る。Ofcomの2009年の調査によると,イギリスで,新聞でニュースを知ると答えた人は7%に過ぎない。一方で,テレビがニュース源だと答えた人は73%に上り,テレビのシェアのうち70%をBBCが占めている。このことを受けて,キャメロン首相は「左派の人たちがルパート・マードック氏の力を強大すぎると主張している反面,右派の人はBBCに対して同様に感じている」として,メディア環境が変わる中で,BBCニュースの優位性がさらに高まる危険性を指摘し「ニューズ・コープやBBCも含めて,一つの組織の声があまりに強大にならないようにするべきだ」と語った。

ミリバンド労働党党首やクレッグ自由民主党党首も,メディア規制は必要だと発言している。

こうした動きをけん制するように,BBCのマーク・トンプソン会長は,「ジャーナリストはルールを破ることを許されるべきだ」と題した意見文を7月22日付けのタイムズ紙に投稿した。その中で,最近BBCが介護施設での虐待を暴き高い評価を得たドキュメンタリーでは,隠し撮りを行ったり,BBCの関係者が施設の職員に扮したりしていたことを紹介し,政府が設置した委員会の調査結果がどうであれ「調査報道の能力が削ぎ落されたり,不必要に抑制を受けたりしないことが大切だ」と釘をさした。そして,今必要なのは「いい調査報道と悪い調査報道の境界は何なのか,どんな取材方法であれば許容されるのかを真剣に考えることである」と締めくくった。

報道倫理をなおざりにしてきたことで,磐石と思えたマードック氏のメディア帝国でさえ土台から激しく揺さぶられる事態に陥った。その波紋を受け,イギリスのメディア業界全体が,報道倫理の問題にどう向き合い,どう市民の信頼を回復できるのか,厳しく突きつけられている。

田中孝宜