番組研究

NHKアーカイブスの構成に関する研究(前編)

「ただの現在に過ぎない」―すなわち時間の流れと共にあることが、その存在理由であったテレビが、いよいよ完全デジタル化の時代を迎える。その時そこには、かつて依拠していた時間を相対化するように、新たな秩序原理が導入される(はずだ)。
仮にそれは、我々に「データ」の次元で思考することを要求するものである、としてみよう。「データ」を支える無時間・無空間的な情報の様態(デジタル化)が、既にテレビというシステムの輪郭を内外から激しく浸食していることに気づく。「番組(program)」はシームレスに録画されるかオンデマンドで呼び出されるものになり、「編成(programming)」の縦糸と横糸はほつれ、送出と視聴の閉じた回路から逃れて、「コンテンツ」として一人歩きを始めている。
新しい秩序原理は、おそらくテレビがテレビでありつづけようとする自意識を守ることはないだろう。かつてはテレビが「公共性を担保する」システムたらんと努力することこそ、テレビの自意識の一つの表れであった。自らの本質を問うことを十分しないままに、いったいどのようなプロセスを経て、我々は「この場所」まで来てしまったのか。
アーカイブが、その存在そのものに向き合うことこそが、この問いに手掛かりを与えてくれる。アーカイブが放送の歴史の記述に誘うことは、しかし自明のことではない。アーカイブには、アルケオロジー(考古学)との類語関係にあることが示すように、あらかじめ時間・空間が刻み込まれている。同様に「情報の倉庫」という物理的実態を表す語である「データベース」「ライブラリー」との違いはここにある。とするならば放送アーカイブの価値は、単に保存、分類、選択、利用に資することに止まることはない。
それは全体として「番組(いま)の地層」を構成してもいる。テレビはその全プロセスにおいてテクノロジーを不可避的に伴っているので、アーカイブもまたその一環に位置し、そこからの「蔵出し」も、同様の回路を経由する。テレビのシステムは常時、時間を空間化してきたのであり、その探索もまた専らその特質に依拠しているといえよう。番組制作素材の保管庫として始まったその機能は、テレビ放送そのものの自意識の成長とともに自らの足跡を蓄積するものとなり、そして今、デジタル化はもう一度アーカイブのあり方の再考=「初期化」を迫っているのである。
本稿は、「アーカイブを利用した番組研究」ではない。「番組が積み重なったアーカイブそのものを研究する」試みの入口に立つものである。その積み重なりは、番組という部分と放送という全体の相乗・相殺=相関関係を可視化することによって、消えかかった「放送なるもの」の再考を促す原理(「放送」とは「何」を「どのように」する“行為”なのか)を見出だすことができるのではないだろうか―――これが当面の仮説である。
「仮説」と述べたように、このアプローチはあくまで、現段階では手掛かりを示すことに止まるであろう。というよりむしろこの対象自体が時間的(歴史的)産物であるだけに、アーカイブ研究は、常に変化を後追いしながら漸近的に核心に迫ることしかできない。しかし「研究の成果」それ自体もテクストであり、積み重なることによってアーカイブを成すということを忘れてはなるまい。こうしたアーカイブ同士の対置の中に、あらたな「テレビについての研究」が形成される可能性を見ることはできないだろうか。本稿は、そうした迂回路を辿りながら「公共圏」を新たに構想する試みの一端に位置するものでもある。

メディア研究部 桜井均

東海大学教授 水島久光

東京大学情報学環助教 西兼志