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2023年 追悼 首都圏ゆかりの方々 下半期(7月~12月)

  • 2023年12月28日

2023年も多くの足跡を残した、さまざまな分野で活躍された方が亡くなりました。特に、東京・神奈川など関東にゆかりがあった方をご紹介します。2023年7月から12月に亡くなった方、もしくは明らかになった方々を掲載しています。
上半期についてはこちらからお読みいただけます。

 

東京出身 指揮者・作曲家 外山雄三さん(92)

外山さんは、東京音楽学校、いまの東京芸術大学で作曲を学び、1952年、NHK交響楽団に打楽器の練習員として入団しました。その後、指揮者としてデビューしてからは、NHK交響楽団の海外演奏旅行に同行するなど、世界各地で演奏活動を行ってきました。
1979年にNHK交響楽団の正指揮者に就任したほか、大阪や京都、名古屋など全国各地にあるオーケストラの指揮者や音楽監督を歴任しました。
また、作曲家としても数多くの楽曲を発表し、日本人が作曲した優れたオーケストラ作品に贈られる尾高賞を1964年に「バイオリン協奏曲第1番」で、2000年には「交響曲第2番」で受賞しています。所属事務所によりますと、外山さんは、7月11日、慢性腎臓病のため長野県の自宅で亡くなったということです。

 

台東区出身 日本舞踊 人間国宝 西川扇藏さん(95)

西川さんは1936年、7歳のときに十世 西川扇藏を襲名して宗家を継承しました。
その後、日本舞踊の五大流派のひとつ、西川流の伝統技法の習得に努め、古典作品の表現力を磨きあげるとともに、みずからが振り付けした新作の上演にも力を注いできました。
1990年には、子どもや外国人など幅広い人たちに日本舞踊に親しんでもらおうと「日本舞踊振興財団」を設立し、2019年まで理事長を務めて流派を超えた普及活動に尽力しました。また、NHKの古典芸能の番組にも、日本舞踊の第一人者として数多く出演してきました。こうした業績が評価され、1999年には人間国宝に認定されたほか、2021年には文化功労者に選ばれています。家族によりますと、西川さんは7月14日、肺炎のため都内の病院で亡くなったということです。

 

埼玉出身 「人間の証明」作家 森村誠一さん(90)

森村さんは大学卒業後、東京や大阪のホテルに勤務しながら執筆活動を始めました。1969年にホテル勤めの経験を生かしたミステリー作品、「高層の死角」が江戸川乱歩賞を受賞して人気作家となり、1973年には原子力をめぐる研究者や企業による利権争いを題材にした「腐蝕の構造」で日本推理作家協会賞を受賞しました。
敗戦後の混乱に端を発した殺人事件を通じて人間の本性を描いた作品「人間の証明」や、自衛隊を題材にした意欲作、「野性の証明」は、映画にもなって大ヒットしました。
また、ノンフィクション作品「悪魔の飽食」では、細菌兵器の開発にあたった旧日本軍の「731部隊」について描きました。
出版社の「KADOKAWA」によりますと、森村さんは、7月24日、肺炎のため都内の病院で亡くなりました。90歳でした。

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茨城「布川事件」再審で無罪確定 桜井昌司さん(76)

桜井さんは昭和42年(1967年)、茨城県利根町布川で男性が殺害されたいわゆる「布川事件」で無期懲役の判決を受け、44年後の平成23年(2011年)に再審=やり直しの裁判で無罪が確定しました。
その後、えん罪被害者を支援する団体「冤罪犠牲者の会」を立ち上げたり、再審に関する法律を改正するよう集会を開いたりするなどえん罪事件を無くすための活動を続けてきました。
桜井さんの妻によりますと、桜井さんは8月23日の午前10時半ごろ、水戸市内の病院で直腸がんのため亡くなったということです。

 

自民党参院議員 島村大さん(63)

島村さんは歯科医師で、日本歯科医師連盟の理事長を務めたあと、平成25年の参議院選挙で神奈川選挙区から立候補して初当選しました。令和元年の選挙で2回目の当選を果たし、これまでに厚生労働政務官や参議院厚生労働委員会の委員長などを務めました。
島村さんの事務所によりますと、2年ほど前からがんの治療を受けながら議員活動を続けていましたが、8月30日の午後、都内の病院で多臓器不全のため亡くなりました。

 

千葉出身 法相など歴任 元自民党衆院議員 中村正三郎さん(89)

中村さんは千葉県出身で、昭和54年の衆議院選挙で初当選し、9回続けて当選しました。
この間、宮沢内閣で環境庁長官として初入閣し、小渕内閣の法務大臣などを務めました。
法務大臣在任中には死刑の情報公開のあり方を見直し、「執行の有無を国民に知らせるべきだ」として執行した人数を発表しました。
また、平成17年には、衆議院本会議で行われた郵政民営化関連法の採決を欠席し、その年の衆議院選挙には立候補せず、政界を引退しました。

 

東京出身 ダークダックス「ゾウさん」遠山一さん(93)

(左から)髙見沢宏さん 佐々木行さん 喜早哲さん 遠山さん

1951年に大学の仲間と結成した4人組の男声コーラスグループ、「ダークダックス」で低音のバスを担当し、「ゾウさん」の愛称で親しまれました。1956年にロシア民謡の「ともしび」で注目されると、幅広いレパートリーと美しいハーモニーが支持を集め、男声コーラスグループの草分けとして活躍しました。NHKの紅白歌合戦に15回出場したほか1993年にはグループとして紫綬褒章を受章しています。
「ダークダックス」は、2011年に「パクさん」の愛称で知られた髙見澤宏さんが、2016年には「ゲタさん」の喜早哲さんと「マンガさん」の佐々木行さんが亡くなりました。所属事務所によりますと、遠山さんはことし7月に体調を崩し、9月22日、慢性心不全と老衰のため、都内の病院で亡くなったということです。

 

東京出身 社会学者・評論家 加藤秀俊さん(93)

加藤さんは、一橋大学に在学中、哲学者の鶴見俊輔さんらが立ち上げた研究会に参加して評論活動を行いました。卒業後、京都大学で助手をしていた26歳の時に戦後の日本文化の担い手はサラリーマンなど社会の中間層だとする「中間文化論」を発表し、注目を集めました。
フィールドワークを通した徹底的な現場主義と政治や社会、歴史・文化に至るまでわかりやすく論じる文章が特徴で「整理学」や「取材学」、「独学のすすめ」など多数の著書を発表しました。また、学習院大学の教授などを歴任したほか国際交流基金日本語国際センターの所長も務めました。著書を多数出版した中央公論新社によりますと、加藤さんは9月20日の夜、都内の病院で病気のため亡くなったということです。

 

群馬出身 「BUCK-TICK」のボーカリスト 櫻井敦司さん(57)

群馬県で結成された5人組バンドの「BUCK-TICK」は1987年にデビューし、髪の毛を逆立て化粧をしたインパクトの強いビジュアルで注目されました。櫻井さんが作詞を手がけた「JUST ONE MORE KISS」や「悪の華」などのヒット曲で知られています。2023年はバンドデビュー35周年で精力的に活動を行っていて、9月には、ふるさとの群馬で35周年を締めくくるコンサートを行ったばかりだったということです。所属レコード会社によりますと、10月19日、横浜市内でのコンサート中に体調不良で病院に救急搬送されましたが、その日の夜、脳幹出血のため、亡くなったということです。

 

東京出身 クレージーキャッツ最後の1人 犬塚弘さん(94)

(左から)安田伸さん 犬塚さん ハナ肇さん 植木等さん 谷啓さん 桜井センリさん

貿易関係の仕事をしていた父親の影響で、幼いころから海外の音楽などに親しみました。
兄が組んでいたバンドでベーシストとして活動する中、1955年にハナ肇さんに誘われて、ともにバンドを結成しました。
その後、「クレージーキャッツ」としてハナさんをはじめ、植木等さんや谷啓さんらほかのメンバーとともに、本格的な活動が始まり、1961年にはサラリーマンの悲哀を歌った「スーダラ節」のヒットなどでたちまち人気を集めました。
その後、犬塚さんは音楽以外にも活動の場を広げ、コメディアンとしてテレビや映画などへの出演を重ねました。俳優としても、植木さん主演のコメディー映画「無責任シリーズ」や、
山田洋次監督の「男はつらいよ」シリーズなどでは、コミカルで味のある脇役として親しまれました。クレージーキャッツのほかのメンバーは、全員が亡くなっていて、犬塚さんはただ1人のメンバーとなっていました。

 

東京出身 創価学会名誉会長 池田大作さん(95)

池田さんは今の東京・大田区出身で、昭和22年、19歳の時に創価学会に入りました。教義を学ぶかたわら、布教活動と組織の拡大に努め頭角を現し、昭和35年に32歳の若さで第3代会長に就任しました。翌年、公明党の前身となる政治団体「公明政治連盟」を結成。
昭和39年に公明党が結党されて以降、中央の政界にも存在感を示すようになり、独自の地位を築くまでになりました。平和運動や国際交流にも積極的に取り組み、世界54の国や地域を訪れて指導者や文化人と対談を重ねるなどし、国連平和賞も受賞しました。
なかでも中国との交流に力を注ぎ、国交正常化後の昭和49年には北京を訪問し当時の周恩来首相や※トウ小平副首相と会談。平成19年には、来日した当時の温家宝首相と会談するなど、長年にわたって中国の最高指導部とのパイプを維持しました。昭和54年に会長を辞任したあとも、名誉会長としてカリスマ的な影響力を持ち続けていましたが、近年は、高齢などを理由に表舞台に姿を現す機会が減り、小説の執筆活動などにあたっていました。創価学会によりますと、池田さんは11月15日の夜、東京・新宿区の居宅で老衰のため亡くなりました。

 

東京出身 芥川賞作家で詩人 三木卓さん(88)

三木卓さんは旧満州で過ごしたあと引き揚げを経験し、大学卒業後、東京の出版社に就職してロシア文学の翻訳を手がけるかたわら、詩や小説の執筆を始めました。
1973年には少年時代の体験をもとに描いた小説集『砲撃のあとで』の中の短編「鶸」(ひわ)で芥川賞を受賞し、それ以降、本格的に作家としての道を歩み始めた三木さんは、生々しい人物描写を特徴とした作品を次々と発表して多くの文学賞を受賞しました。
また、児童文学や絵本など幅広い分野で作品を書き続け、アメリカやロシアなど海外の児童文学の作品の翻訳も手がけてきました。芸術の分野で優れた業績が評価され、2007年の
日本芸術院の恩賜賞を受賞したほか、幅広い分野にわたる長年の功績から2011年には旭日中綬章を受章しています。出版関係者によりますと最近まで執筆活動を続けていたということですが、11月18日、老衰のため神奈川県鎌倉市の自宅で亡くなりました。

 

浅草出身 脚本家 山田太一さん(89)

山田太一さんは早稲田大学を卒業後に松竹に入り、木下恵介監督の助監督として映画作りに携わりました。そして、1965年には脚本家として独立し、1976年からNHKで放送された「男たちの旅路」は、鶴田浩二さん演じる元特攻隊の警備員と戦後生まれの若者が世代間のギャップから激しくぶつかり合いさまざまな社会問題を浮き彫りにした作品で、大きな反響を呼びました。
また、学歴や容姿に劣等感を抱く若者たちを描いた「ふぞろいの林檎たち」をはじめ「岸辺のアルバム」、「早春スケッチブック」など数多くの名作ドラマを手がけました。山田さんのシナリオはすべてオリジナルの作品で、同時代の倉本聰さんや向田邦子さんとともに、それまで地位が低かったシナリオライターの社会的地位を高めました。
近年は東日本大震災をテーマにしたドラマを手がけるなどしていましたが、2017年に脳出血で倒れたのをきっかけに執筆活動をやめていました。
その後は、川崎市内の施設で過ごしていましたが、11月29日、老衰のため亡くなりました。

 

神奈川出身「THEE MICHELLE GUN ELEPHANT」のチバユウスケさん(55)

(左から)ウエノコウジさん チバユウスケさん クハラカズユキさん アベフトシさん

チバさんは4人組のロックバンド、「THEE MICHELLE GUN ELEPHANT」として1991年から都内のライブハウスを中心に活動を始め、1996年、「世界の終わり」でデビューしました。独特のしゃがれ声とバンドの重厚なサウンドが人気を集め、シングルやアルバムがたびたびチャートインしたほか、海外でも公演を行うなど活躍を続けました。バンドは2003年に解散しましたが、チバさんは2005年に新しいバンド「The Birthday」を結成して音楽活動を続け、去年公開された映画「THE FIRST SLAM DUNK」ではオープニングの主題歌として「LOVE ROCKETS」が使われ話題を呼びました。
レコード会社によりますと、チバさんはことし4月に食道がんと診断されたことを公表していて、治療を続けていましたが、11月26日に亡くなったということです。

 

群馬前橋出身 日本を代表するSF作家の1人 豊田有恒さん(85)

豊田有恒さんは大学在学中の1961年、「時間砲」で第1回空想科学小説コンテストに入賞し、そのよくとし、「火星で最後の……」でSF作家としてデビューしました。
その後、モンゴル帝国の支配が続く架空の世界を描いたSF小説「モンゴルの残光」や神話の時代を舞台にした「火の国のヤマトタケル」などの作品で人気を博したほか、歴史小説や社会評論など幅広い分野で活躍しました。
また、アニメの脚本家として「エイトマン」や「鉄腕アトム」などの人気作品を手がけたほか、「宇宙戦艦ヤマト」の原案にも携わりました。
家族によりますと豊田さんは、11月28日、食道がんのため東京都内の自宅で亡くなりました。

 

東京出身 元ニュースキャスター 磯村尚徳さん(94)

磯村さんは、父親の仕事の関係で幼少期を主にトルコで過ごし帰国後、学習院大学に入学しました。大学卒業後はNHKに記者として入局し、中東やヨーロッパなどの特派員を経て、1974年からNHKのニュース番組「ニュースセンター9時」の初代キャスターを務めたうえ、報道局長や特別主幹などを歴任しました。
1991年にはNHKを退職して東京都知事選挙に立候補しましたが、当時現職だった候補者に敗れました。
その後は外交評論家として活動し日本の文化をヨーロッパ向けに発信する「パリ日本文化会館」の初代館長に就任したほか、1998年の長野オリンピックでは開会式の総合司会も担当しました。家族によりますと、入退院を繰り返しながら最近までフランスとの文化交流活動を続けていましたが、12月6日に骨髄異形成症候群のため、都内のホスピスで亡くなったということです。

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