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東日本大震災13年 「地震は時を選ばない」 津波に飲まれた語り部 今こそ伝えたい教訓 千葉・旭市

  • 2024年03月11日

「地震は人と場所を選ばず、突然やってくる」
「津波は音もなく、繰り返しやってくる」

東日本大震災で津波に巻き込まれ、一命を取りとめた男性のことばです。

震災から13年。各地で地震が発生している今だからこそ伝えたい教訓がある。
千葉県旭市で活動を続ける、ある語り部の思いに迫りました。

(千葉放送局記者・坂本譲)

楽しみにしていた「あの日」

東日本大震災が発生した2011年3月11日。

この日、旭市に住む宮本英一さんは、生後4か月の孫の「お食い初め」を行う予定で、準備を進めていました。

息子家族と宮本さん夫妻

船橋市に住む息子夫婦と、生まれたばかりの孫を迎えることを楽しみにしていた宮本さん。
刺身を近所の魚屋に注文し、海沿いの道路を車で帰っていた最中の午後2時46分、大きな揺れに襲われました。

揺れが収まって自宅に戻り、料理をしていた妻と母親の無事を確認。
その後、「地震で高速道路が大渋滞で、とても旭市には行けない」と息子からメールが届きました。

大津波警報が発表され、防災行政無線で避難が呼びかけられたものの、宮本さんは避難せず、海岸から100mほどの自宅にとどまりました。
過去の経験や子どものころ聞いた言い伝えから、津波は堤防を越えないと判断したのです。

小学生の時にチリ地震があり、そのときも津波が来ましたが海岸の堤防を越えなかったことや、旭市の浜は遠浅で、大きな津波は来ないと祖父や親にも言われ続けてきました。

荷物を持って避難していく人にも「大丈夫だよ。堤防は越えないでしょう」と話しかけていました。

油断した「第1波」

そして地震から約1時間後。
1回目の津波が押し寄せました。

旭市を襲った第1波 (提供:旭市観光写真ボランティア会)

予想通り津波は目の前の堤防を越えませんでしたが、離れた漁港側の方から水が押し寄せてきました。
自宅周辺の道路や庭先まで数10cm浸水しましたが、大きな被害はなかったといいます。

第1波後の宮本さん宅の庭(撮影:宮本さん)

津波が収まると、近所の人たちが次々と避難先から帰ってきました。
「もうこれで終わりだ。大きな津波でなくて良かった」といった表情で、もうこれ以上、津波は来ないと思ったといいます。

その後、第2波も到達しましたが、こちらも堤防を越えず、波が来たことにすら気づかなかったということです。

第1波後の宮本さん宅近くの道路(撮影:宮本さん)

家の前の道路には、津波によってさまざまなゴミが流れ着いていたため、宮本さんたち住民は掃除を行うことにしました。
清掃が一段落し、数人と堤防に上がって、海の様子を眺めていたといいます。

海を見るとやや沖合にある離岸堤の先まで潮が引いていました。すると、港のほうから「大きい津波がくるぞ!」と言いながら走ってくる人がいました。

それを聞いて、急いで妻と一緒に自宅に戻りましたが、防災行政無線では「大津波警報、緊急避難、緊急避難」という放送が何度も流れていて、これはただごとではないと思いました。

突然襲いかかった「第3波」

自宅に戻った宮本さん。
母親の姿が見当たらず、不安になりながら庭で妻と立ち尽くしていた、その時でした。

突然、「バリバリッ!」という音がしました。振り返ると、津波が海沿いの道路側の木の板の塀を壊しながら襲ってきて、アッという間に津波の激しい流れに巻き込まれて水の中に沈んでしまいました。塀に当たるまで津波は音もせず近づいてきていたんです。

水中に巻き込まれた私たちは、何回も沈んだり水を飲んだりを繰り返しました。
「離れるなよ!」「私はもうだめ!」「俺が助けるから!離れるな!」と妻に呼びかけました。

怖いとか、そういう意識はあまり浮かばず、頭の中は「何とかしなきゃいけない」。それだけでしたね。

宮本さん夫婦は、家の裏側の道路に押し出され、約100m流され続けました。
流されながら、何かつかまる物はないか探していた矢先、古い屋根が目に入ったといいます。

古い屋根に流れ着いた現場

流されながら近くにいる妻に「あそこに行こう」と言いながら、屋根に向かって体を斜めにすると、うまい具合にその屋根にたどり着きました。

私は必死に古いビニールトタンの屋根の上に登り、海岸方面を見ると、トラックが横倒しで流れているのが見えました。

妻も引き上げようとしましたが、首まで水に浸かっていてなかなか引き上げることができませんでした。どうにかして妻を助けたい思いから、壊れそうな屋根をつたってコンクリート塀に乗り、隣の家の2階によじ登りました。

ロープなどが見当たらず妻を引き上げられないままで心配していましたが、しばらくすると水が引いて足が着くようになったようで、屋根に上ることができ、同じ住宅の2階に移動することができました。

波に流されてずぶ濡れになり、気づくと寒さで体が小刻みに震えていました。

もし地震の発生が遅れていたら…

津波に流されている間、携帯電話に息子などからメールや着信が入っていたといいます。

宮本さんが息子に送信したメール

家一階ため(だめ)。ながさ、れた。けがなし。●●さんの二階にたどりついた

たどり着いた住宅の2階から、宮本さんが息子に送信したメールです。

もし地震の発生が遅れていたら、お食い初めに来ていた息子家族までも被災していたかもしれない。
宮本さんは当時をこう振り返ります。

津波の被害を受けた宮本さんの自宅(撮影:宮本さん)

初めてできる孫が来るよっていうことで、みんなもう楽しみにしてね。何もその時に来なくてもいいのにと思うのですが、まさかこんな日に地震が来るとは思わなかったですね。

津波っていうのは、頭の中では完全に1回で終わりだと、ずっと思い続けてきました。また、遠浅だから大きい津波は来ないんだよと、ずっと伝えられてきました。

そんな中で、津波は音もなく突然、繰り返しやってくるんだと。

津波で流されたことを思うとね。大津波警報が出ても避難しなかったことが、一番の反省です。

経験を伝える「語り部」に
地元で語るにはためらいも

宮本さんと同様に旭市では第3波に巻き込まれるなどして多くの犠牲が出ました。災害関連死を含めると14人が死亡、2人が行方不明となっています。

宮本さんは助かった身として、津波による同じ悲劇を繰り返したくないと、震災の体験や教訓を伝える取り組みを10年以上続けてきました。
県内各地の小学校や、依頼があれば県外にも訪れて、語り部活動を続けています。

しかし、亡くなった方には知り合いもいる中で、震災から10年間は地元では経験を語ることを控え続けてきました。

防災資料館の管理人に

転機は3年前。
昔からの知り合いに頼み込まれ、市の防災資料館の管理人になったことをきっかけに、地元でも、訪れた人に経験を語るようになりました。

資料館で小学生に説明(撮影:旭市立中和小学校)

震災当時を知らない子どもたちが資料館を訪れることも多い中で、次の世代に経験を伝え続ける意義を改めて感じているといいます。

震災のあとに生まれた小学生などは、津波の映像や説明に対してずいぶん驚きますね。

子どもたちから感謝の手紙などを受け取ると、話したことがちゃんと伝わってるんだなと感じ、やりがいを感じます。

自分の命は自分で守るんだよって言っても、ピンとこないかもしれませんが、子どもたちが大人になっていったときに、どこかで思い出してくれたらうれしいなと。

小学生から届いた手紙

今だからこそ伝えたいこと

そして今、宮本さんが改めて強く伝えようとしているのは「地震は時を選ばない」ということです。

ことし1月に起きた能登半島地震。
正月に集まった家族が被災している姿を見て、お食い初めで家族が集まる予定だった13年前の自分と重なりました。

地震はいきなりやってきます。
台風のように今から来ますという予報もありません。

能登半島の地震も、1月1日に来ました。何も1月1日に、皆さんが集まってる時に来なくて良いようなものの、やっぱり場所と時を選ばないんです。

来館者に当時の状況を詳細に伝えるとともに、防災につながる正しい知識を持ってもらいたいと、旭市で遠浅な地域でも波が重なり大津波となった仕組みなどを説明しています。

パネルを使って説明

また、突然起きる地震に対して正しい行動を取ることは簡単ではありません。
そのため、千葉県でも地震が相次ぐ中で、大きな揺れに見舞われたときに、どこにどのように避難すべきかなどを、周囲の人たちとあらかじめ考えておいてほしいと繰り返します。

正常化バイアスと言って、人間は何か起こっても自分だけは大丈夫と思ってしまうそうです。

皆さんや、皆さんのご家族が被災しないとは限りません。
どういった行動を取ったらよいか、日頃から考えておく必要があると思います。

伝えたいのは、地震は突然やってくること。津波は繰り返しやってくること。音がしないこと。
それと最後に、自分の命は、自分で守ることが大事です。

来館者

実体験を通した生のお話を聞くことで、臨場感といいますか、そういうのを持って受け止めることができたと思います。
実際に災害が起きたときの避難経路や連絡方法、備蓄などを確認したいです。

地震は時を選ばない。
そして、津波は繰り返し襲ってくる。

いざ地震が起きたときに自分のことばを思い出して、命を守る行動につなげてほしい。
これからも宮本さんは、経験と教訓を伝え続けます。

13年が経ち、記憶はだんだん薄くなってきますが、3月11日を機会に、また新たに震災のことを思い出します。

どういう地震や津波がいつ来るかというのは、これは誰もわかりません。突然やってきます。
でも備えだけは、皆さん一人ひとりにしておいていただきたいと思います。

こういう経験をしたよ。津波はいきなりやってくるから、早く避難しなさいよなどということは、助かった身だからこそ伝えられるのであって、伝えていく義務があると思うんですよね。

地震を、津波を経験したからこそ、言えることがある。

自分が生きてるうちはと言うと大げさになりますが、地震と津波、これはもう永遠に、皆さんに伝えていくことだと思いますね。

語り部として伝えたことば

今年3月上旬には、旭市と同じく海に面した神奈川県平塚市を訪れ、約60人を前に講演を行いました。

その講演の最後に、宮本さんが伝えたことばをここに記します。

被災して感じたことを話します。

津波に流されて、一番反省している点は、大津波警報が出ても、自分だけは大丈夫、と思って避難しなかったことです。

それと、津波は繰り返しやって来ること。
津波は堤防を越えるまで、音がしなかったこと。
そして「自分の命は自分で守らなければ」と思いました。

大きな災害が起きると、個人や地域に想定しなかった、様々な問題が起きます。
地震津波などの災害は、場所と人を選ばず、突然やってきます。

今まで津波が来たことのない場所でも、突然やってくるんですね。
100年に1回でも、それはあくまで予想であって、もしかしたら、何年後には来るかもしれません。それは誰もわかりません。

それに、皆さん自身やご家族の方々が被災しないとは限りません。
ここにいる皆さんは、災害が起きたときは、地域でそれぞれの役割を果たすと思います。

万が一、皆さんや皆さんの家族が被災した場合でも、自分の家族を守りながら、地域のためにどのような行動をとったら良いか、日頃から考えておく必要があると思います。

そんなことをお願いしまして、私の話を終わります。

  • 坂本譲

    千葉放送局記者

    坂本譲

    2020年入局。警察・司法・災害を担当。入局当初から、千葉県での震災や豪雨災害について取材を続ける。

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