昼夜を問わず鉄路を走り続け、高度経済成長期の輸送を支えた特急型車両「583系」。その貴重な食堂車が、昔のままの状態で青森県八戸市に保管されています。
引退後30年以上がたって老朽化が進み、解体も検討されていましたが、貴重な車両を残したいと立ち上がった人々の力で、来春、千葉県いすみ市の鉄道公園にやってくることになりました。
食堂車に関わってきた人たちの思いを取材しました。
(千葉放送局記者・渡辺佑捺)
長い鉄道旅の中で温かい食事を提供してくれる食堂車。現在は一般的な特急や新幹線ではほとんど姿を消してしまいましたが、かつては多くの列車に連結されていました。
昭和から平成にかけて活躍した特急型車両「583系」、通称「ゴッパーサン」。1967年から1972年にかけて製造され、青森駅と東京・上野駅を日中に走った「特急はつかり」や夜行の「特急はくつる」などに投入され、昼も夜も乗客を運び続けて日本の高度経済成長を支えました。
その583系の食堂車が「サシ581形」です。現役車両は1986年に引退しましたが、現存する貴重な1両が青森県八戸市に保管されています。
車両の中は当時のまま。テーブルやブラインドのほか、調理に使われていた厨房の電気コンロや冷蔵庫もそのまま残っています。
食堂車を保管している豊山信子さん(58)と、兄の吉岡正樹さん(60)です。
もともと食堂車を手に入れたのは、信子さんの母・くにさんでした。
くにさんは大の旅行好きで、夫・千蔭さんとともに日本全国のみならず、ヨーロッパやアジアなど世界各国を旅していました。千蔭さんは目が不自由だったため、くにさんがつえのようになっていつも一緒だったといいます。
明るくて、楽しいことが大好きでした。有言実行、思い立ったらすぐやる、行動する、そういうタイプでした。軟式テニスの国体選手でしたから、体を鍛えていたからかしっかりしていて、90歳までは旅行していたと思います。愛情にあふれていて、情にもろい母親でした。
国鉄がJRに変わり、古い車両の民間への払い下げが進んでいたころ、くにさんは旅行中にも親しみのあった食堂車を買い上げることにしました。
鉄道好きだった吉岡さんは、くにさんが食堂車を購入するときにある相談をされたといいます。
急に電話がかかってきて、「食堂車買いたいんだけど、2種類ある。青いのと赤いのあるけどどっちがいい」って。当時は「青いのがいいんじゃない」って言いました。当時の東北の人からするとやっぱ「青いの」が特急列車だったんですよね。本当に買ってくるとは思いませんでした。
『赤いの』とは昼に走る特急列車として活躍した「485系」のこと、『青いの』とは「583系」のことでした。
新幹線がなかった時代ですから、在来線の特急で八戸から上野まで7時間から8時間くらいかかっていました。昼の時間が重なっているので、食堂車があると行きたいなってひとが多いですよね。若いときはお金がないからカレーライスとかしか買えないんですけど、家族と行くと父親にハンバーグを買ってもらっていたと思います。旅の思い出になりました。
こうして八戸市にやってきた583系の食堂車。くにさんはもともと、内部を改装して喫茶店にしようとしていました。しかし修繕が大変なことから断念し、倉庫として使っていました。くにさんはおととし93歳で亡くなり、食堂車は娘の信子さんに相続されました。
しかし食堂車は長年風雨にさらされていたため塗装が剥がれるなどしていて、維持することが難しくなっていました。ことし初め、信子さんは解体することを検討して業者に見積もりの依頼も行っていました。
思ったより老朽化が進んでいて、修理するのも難しいかなと思っていました。
そこで食堂車を救うために手を上げたのが千葉県いすみ市にある鉄道公園「ポッポの丘」の支援者でした。「ポッポの丘」は全国を走っていた昭和の時代の鉄道車両を中心に、28両が展示されている私設の鉄道公園です。
「ポッポの丘」を支援している団体の代表・梅原健一さん(52)です。
梅原さんは食堂車が解体されるという話を聞きつけ、「ポッポの丘」に移設するために「583系食堂車保存会」を立ち上げました。そして移設や修繕にかかる費用を募るため、ことし6月にクラウドファンディングを始めました。
開始しておよそ2か月で1264人からの支援が集まり、目標金額の2000万円を達成しました。
梅原さんは大の鉄道ファンでもあり、八戸市に現存する食堂車は「オリジナルで現存する唯一の車両」とその希少さを評価しています。
現存する車両は1両、2両あると聞いているんですけども、やはり改造されていたり、とても移動出来るような状態ではなかったりしています。八戸市にある食堂車というのは手の付いていないオリジナルの大変貴重な車両です。
食堂車は、「ポッポの丘」の敷地内にあるカフェの前に移設され、カフェで買った商品を食べることができるイートインスペースにするということです。
新幹線のない時代、上京する手段として東北から上野への輸送を担っていました。東北地方の人たちにとってはもちろん、団塊世代、集団就職の世代にとっては思い入れのある、大変人気のある車両でした。輸送にあたっては、青森からは700km前後ありますので、どうしても不可抗力によって車両が傷むこともあると思いますが、ここできれいに再生・活用して、全国の鉄道車両保存の見本になれればと思っています。きれいな姿にして早くお見せして、食堂車で皆さんに食事を楽しんでもらいたいです。
千葉県への安全な輸送を願って、10月23日には八戸市で「輸送安全祈願祭」が行われ、地元のひとたちや保存会の関係者およそ110名が参加しました。
食堂車はこの町に30年以上あったから、子どものころからあったという近所の方がたくさんいらっしゃるので、特別な存在というよりも普通にある風景として町の人は親しんでいました。「昔からあったけど何であるんだろうな」とは思ってたとおっしゃってました。
食堂車が第3の人生を迎えることを本当にみんな喜んでいます。いまは、ひとりぽつんとしてさみしそうだなと思っていましたが、千葉のほうでは子どもたちが遊びに来るようなところで楽しく過ごせると聞いたので、食堂車にとっても幸せじゃないかなってみんな思っています。新天地でも活躍してほしいです。
食堂車が現役で走っていたのは10数年間です。現役が終わって30数年、比較的原型のまま・元の色のままで残っています。そのころの状態を維持しながら、食堂車という文化があったことを千葉でいろんな人に見てもらえるといいなと思います。
「ポッポの丘」では11月中旬から受け入れのための整地作業が始まり、車両の移設は青森県の雪どけを待った2024年の春を予定しているということです。