仙台空襲 防空壕は"命を守れなかった" 岩野吉樹アナが取材
(この記事は、2022年6~7月の取材、2022年7月13日に「てれまさむね」で放送した内容をもとに執筆しました)
【仙台空襲 防空壕での犠牲者 約3割】
「防空壕」。テレビや映画などでご覧になったことがあるかと思います。
第二次世界大戦中、空襲時には、その防空壕に多くの人が「命を守るために」逃げ込みました。
でも、仙台空襲では、その防空壕で多くの方が亡くなっているのです。
1945年7月10日の未明、123機のアメリカ軍B29による仙台空襲。
下の図のオレンジで塗られた場所では、ほぼすべての建物が全焼したとされています。
(『戦災焼失地域図』 仙台市史2 第2巻本編2 より)
今の地図に当てはめると、通りや地名は異なりますが、おおむね、
北は今の北六番丁通り、東は地下鉄五橋駅付近、西は東北大学川内キャンパス、
南は越路交差点付近にあたります。当時の仙台のまさに中心部を焼き尽くしました。
亡くなった方は “1000人余り” とも “約1300人” とも言われています。
仙台・空襲研究会のメンバー、新妻博子(にいつま・ひろこ)さんは、
犠牲になった方がどこで亡くなったのか、
現存する仙台市の資料などから独自に調べ、まとめました。
目立つのが、「防空壕」の文字。壕の中や周辺で亡くなった人たちです。
仙台市の戦災復興記念館によると、その数は犠牲者全体のおよそ3割にのぼります。
新妻さんは「国や県、市…指導者たちは『防空壕は安全だ』と言ってきた。
それならば、死ななくてもいい命、助かるべき命ですよね」と話します。
【国も市も奨励していた “防空壕づくり”】
(横穴壕)
仙台空襲の前までには、手掘りの簡素なものも含めて、
市内におよそ55000の防空壕があったとされています。
その防空壕には2つの種類があります。1つは、上の写真のような横穴式。
崖や丘などに穴をあけた洞窟のようになっていて、いまも一部は現存しています。
(危険ですので許可なく立ち入るのはおやめください)
(竪穴壕のイメージ ※仙台市戦災復興記念館展示資料より)
一方の「竪穴式」。多くの方が亡くなったのは、こちらの形式の壕です。
地面に穴を掘っただけの簡素なものが多く、約2時間で1万3千発ほども投下された焼夷弾の
直撃を受けたり、火が壕の中に入り込んだり、町中で起きた火災の煙に巻かれたりして
逃れられなかったのです。命を守るために逃げ込んだはずの壕なのに…。
ではなぜ、竪穴式の壕が多かったのか。県の公文書館に残る資料から探りました。
(『昭和二十年 土木 公共土木施設関係』 宮城県公文書館 所蔵 ※特別な承認を受けて撮影しています)
当時、国は各都道府県に対し、資金や資材の補助を出して防空壕を造るよう促していました。
上の図は、昭和20年の3月の報告書。国の補助を受けて作られた防空壕の位置が記されています。
青が横穴式、赤が竪穴式を作ったところです。よく見ると、横穴式は広瀬川沿いに集中し、
中心部はほぼすべて竪穴式だったことがわかります。
川沿いの断崖には横穴が掘れたものの、中心部は平地が広がり、建物も密集していたため、
竪穴式しか作れなかったのです。
(『仙台市公報 昭和16年8月』)
仙台市も、市民に対して防空壕作りを促していました。市の公報に、国から指導された防空壕の作り方を図解入りで示して、竪穴壕を造るよう、市民に指導していたのです。
(『仙台市公報 昭和17年1月1日』)
さらに市は、補助が無くても「自宅の庭などに自分たちで作るように」「焼夷弾が落ちたら
防空壕から出て直ちに駆け付け、全力で消火にあたるように」と市民に指導していました
【疑問の声が議会から上がっていた】
一方で、こんな簡素な壕で本当に命が守れるのか。疑問の声も上がっていました。
しかも、市議会議員からです。当時の仙台市議会の議事録を見てみると、
防空壕の安全性について、何度も議論になっていたことがわかりました。例えば…
議員A「あの待避壕(防空壕)は本当の爆弾を落とされたときに最も危険であるという風に
感ぜられるのでありますが、どういうものでありましょうか」
市職員「これは内務省の既定方針によりまして作ったのでございますから、
危険ではないと信じております」
議員B「軍の参謀の部員の方に、あの待避壕では何にもならぬと注意を受けた。
市の築造した待避所の中には不完全極まるものがある」
市職員「不完全なるものは、費用があまりましたならば、さらに増設しても良いということを
指示を受けております」
議員C「あまりにも後手ではないか。敵機はいま仙台に正にはいりつつあるのであります」
しかし、方針がすぐに変わることはありませんでした。
全国各地の空襲被害を受け、国が横穴壕の整備を強化するよう通知を出したのは、
仙台空襲の12日後のことでした。
仙台・空襲研究会の新妻博子さんはこう話します。
「通知は、仙台空襲の後だったわけですね。いろんな各地の空襲の事例がそれまでにもあったわけで、簡素な竪穴壕が命を守れるくらい堅固じゃないっていうことが認識されていれば、ここまで犠牲も広がらなかった。また繰り返さないようにと、切に思います」 |
当時、市民が懸命に整備し、助かることを願って逃げ込んだはずの防空壕。
それなのに、多くの人が、そこで命を落としてしまった。
国や行政の指導は“絶対”だった当時、市民はどうすれば良かったというのでしょう。
私はこれまで原爆の被爆者や各地の空襲体験者を数多く取材してきました。
みなさん、「戦争は嫌だ。子や孫にこんな思いをさせたくない」と言います。
いま、私たちは、ロシアによるウクライナの侵攻で、普通の街や市民が傷つき、
日常を奪われる姿を目にしています。78年前、日本・仙台でも同じようなことが起きていたのです。
ただ、日々のささやかな幸せを望んで暮らしていた人たちが狙われ、街や暮らしを奪われました。
考えたくはないけれど、いま、現代や未来の仙台で同じことが起きてしまったとしたら…。
二度と繰り返さないために。もっと多くの人に伝え、一緒に考えたい。そう思いを強くした取材でした。
(この記事は、2022年6~7月の取材、2022年7月13日に「てれまさむね」で放送した内容をもとに執筆しました)