『二十四の瞳』の「絶望名言」後編

絶望名言

放送日:2024/02/26

#絶望名言#文学#映画・ドラマ

『二十四の瞳』はとても素直で難しいところがない文章で、簡単に書けそうで書けない。私の憧れ、と頭木弘樹さんは言います。また、身近なものを使って時代の変化を表現することが巧み、だから人の立場や戦争の影響などがわかりやすく伝わってくる、と考えます。(聞き手・川野一宇)

【出演者】
頭木:頭木弘樹さん(文学紹介者)

泣くべきことをちゃんと泣く

「泣きたい時は、何時でも先生の所へいらっしゃい、先生も一緒に泣いてあげる」

『シナリオ 二十四の瞳』木下惠介 新潮文庫

――頭木さん、これは映画の『二十四の瞳』に出てくる言葉なんですね。

頭木:
はい。脚本と監督は、名匠・木下惠介です。

――『二十四の瞳』は小説がベストセラーになり、2年後の1954年にはもう映画が公開されました。

頭木:
木下惠介監督は、まだ単行本が出る前の雑誌連載の段階で読んで感激して、すぐに「エイガニシタシ」という電報を壺井栄に送ったそうです。実際、この作品を映画化するなら、これほどぴったりな監督はいないと思います。

――映画の『二十四の瞳』も大ヒットしたわけですね。

頭木:
この1954年というのは、他の映画もすごいんですよ。黒澤明の『七人の侍』とか、『ゴジラ』の第1作目とか。

――ああ、そうだったんですか。

頭木:
いろんな種類の名作が出た年だったんですけれども、それらをおさえて、しかも圧倒的な差をつけて『二十四の瞳』が「キネマ旬報ベスト・テン」で第1位になっています。壺井栄はすでに人気作家でしたが、この映画によって、本を読まない人たちにまで名前が知れ渡ったそうです。

――高峰秀子さんが主演ということはご存じの方も多いと思いますが、田村高廣、笠智衆、月丘夢路、浪花千栄子さんなども出ていらっしゃいますね。
で、壺井さんはこの映画を気に入っていたのでしょうか?

頭木:
気に入っていたみたいですね。「『二十四の瞳』ほど原作者の意図を考えに入れて作ってもらえた映画はないと思って感謝している」『シナリオ 二十四の瞳』より「あとがき」 木下惠介 新潮文庫)と。木下惠介監督というのは原作を大切にする人なんですよね。

――木下惠介監督の言葉です。

私が原作を脚色する場合、いつもそうであるが、原作を尊敬し、原作者の思いをどうやって映画という、小説とはまったく違ったジャンルのものに表現できるか苦心する。小説と映画とは違うのだから、小説よりもいい映画を作ってやろうとか、小説の弱点をこう直してやろうとか、原作を敵にまわして勝負しているような不遜な思いは私にはない。

『シナリオ 二十四の瞳』より「あとがき」 木下惠介 新潮文庫

この木下惠介監督の言葉は非常に含蓄に富んだ、内容のある言葉ですね。
原則として、映画は原作そのままというわけではないですよね。

頭木:
変えてある所もあります。ただ、原作の意図や思いを監督がちゃんと理解しているので、変えても世界が壊れないわけですね。「完全な意見の一致」という言い方を壺井栄もしています。
変えてある重要なポイントの一つとしては、映画では、泣くシーンがかなり多いんです。

――ほう、泣くシーンが多い。

頭木:
小説でも泣くシーンは多いです。大石先生は、小石先生というあだ名のあとは「泣きみそ先生」というあだ名をつけられるくらいです。でも、映画のほうはもっと泣きます。戦争の影響はまず不況という形でやってきます。もともと貧しい人の多い村ですから、そこに不況がやってくると大変なんですね。親が娘を売るしかなくなるようなことも起きてきます。大石先生の生徒も売られてしまいます。

――小説のほうにも、こういう一節がありますね。

「今日の一家のいのちをつなぐために、富士子は売りはらわれたのだ」

頭木:
そして、授業で「将来への希望」という作文を生徒たちが書くときに、どうしても書けなくて涙を流す生徒もいます。その生徒に大石先生がかける言葉がこれです。

「泣きたい時は、何時でも先生の所へいらっしゃい、先生も一緒に泣いてあげる」

自分のために一緒に泣いてくれる人がいるというのは、すごくありがたいことですよね。不幸は人を孤独にしますから。その孤独だけでも癒やしてもらえたら、どれほど助かるか。でも、このシーンを見たアメリカ兵が大笑いしたそうです。

――それはなぜですか?

頭木:
いっしょに泣いているだけでどうするんだ、と。何にもならないじゃないか、解決しようとしなければダメじゃないか、と。

――そういう反応ですか。

頭木:
今の人も、そう思う人が多いかもしれません。でも“ギリシアの七賢人”にこんな話があります。七賢人の一人が子どもを亡くして、いつまでもずっと泣いている。それを見かねた人が「あなたは賢人なのに、どうしていつまでも泣いているんですか。泣いていたってどうしようもないじゃないですか」。
すると、賢人はこう答えたそうです。「どうにかできるんなら、している。どうしようもないから、泣いているんだ」。

――んん、それもわかりますね。

頭木:
どうにかできることなら、もちろん、どうにかするほうがいいですよ。でも、人生にはどうしようもないことがありますよね。そういうときには、泣くことがすごく大切だと思うんです。
深沢七郎の『楢山節考(ならやまぶしこう)』という小説がありますよね。

――ありますね。お年寄りを山に捨てるという、姥(うば)捨て山を描いた小説ですよね。

頭木:
あの小説のどこが恐ろしいかというと、姥捨てをすることを誰もが当然と思っていて、捨てられる当人さえ当然と思っていることなんですね。誰も泣かないわけです。残酷なことを残酷と感じなくなる、これほど残酷なことはありません。その恐ろしさを描いているところに『楢山節考』の衝撃があります。木下惠介監督は、この『楢山節考』も映画化しています。

――あ、そうだったんですね。そうか……。

頭木:
だから、泣くべきことをちゃんと泣くというのは、まず、すごく大切なことだと思うんです。木下惠介監督もこんなふうに言っています。

沖縄の惨劇にも、広島、長崎の原爆にも、渦中にいなかった日本人は他人(ひと)事のように涙を流さなかった。涙がたりなかったのである。それほどざらざらした世相だった。

「涙がたりなかった」と木下惠介監督は言っているわけです。まず、泣くべきことをちゃんと泣く。世の中を変えていくにはまずそれが大切だと思います。泣いてもしかたないとか、そういうのは全く違うと思います。映画の『二十四の瞳』は先にも言いましたように大ヒットして、空前の観客動員数を記録して「全国が泣いた映画」と言われたんですね。日本人にちゃんと涙を流させたわけです。これは大きなことだったと思います。

――ああ、そうだったでしょうねえ。

【絶望音楽】唱歌「故郷」

――頭木さん、これは有名な曲ですね。

頭木:
今回は唱歌の「故郷(ふるさと)」です。
映画『二十四の瞳』にも唱歌がたくさん使われていて、この「故郷」も出てきます。

♫「故郷」 NHK東京放送児童合唱団

――高野辰之作詞、岡野貞一作曲、伊藤幹翁編曲「故郷」、NHK東京放送児童合唱団の歌でお送りいたしました。

頭木:
これは、日本の豊かな自然を歌っていて懐かしい歌なんですが、実はこの「故郷」の「兎追いしかの山」という歌詞は、ただのどかなものではないんだそうです。

――ほう。

頭木:
『内山節(たかし)のローカリズム原論』(農山漁村文化協会)という本によると、日清、日露の戦争以降、寒い所に行く兵士のために毛皮の襟巻きが必要になって、子どもたちがうさぎを捕ってお国のために奉納するという運動が全国的に展開されたんだそうです。小学校の軒先にうさぎの死体がたくさんぶら下がっていることが子どもたちがお国のために頑張った証明になって、その前で子どもたちが並んで撮った記念写真が残っているそうです。ですから、当時の人たちにとって「兎追いしかの山」というのは、今の私たちが抱くイメージとはかなり違っていたんではないかと。

――ああ、それは知りませんでした。

頭木:
私も全然知らなかったんで、びっくりしました。ですから戦争ということも関係している歌のようなんですね。歌詞に「志(こころざし)を果たして/いつの日にか歸(かえ)らむ」とありますから、うさぎを追っていた子どもたちは大人になって、今はもう故郷にいないわけです。
そういうふうに聴くと、また違って聞こえてきそうですね。

――印象がずいぶん違いますね。

頭木:
作詞した方は生前、モチーフを明言しなかったそうですから本当のところはわからないのですが、当時のそういう、うさぎと子どもたちの写真が残っているのは事実のようですね。

「医者も薬も戦争にいっていたのだ」

病気になっても村に医者はいなかった。
よくきく薬もなかった。
医者も薬も戦争にいっていたのだ。
おばあさんの亡くなったときには、
村の善法寺さんまでが出征して留守だった。

『二十四の瞳』壺井栄 角川文庫

――これは小説のほうの一節ですね。

頭木:
そうですね。先ほども言いましたように、戦争の影響はまず不況として島にまでやってきます。海に囲まれた島なのに、魚さえ手に入らなくなるんです。

海べにいて、魚さえ手に入らないのだ。魚はありませんか。卵はありませんかと、一匹のめばる、一つの卵に三度も五度も頭をさげねば手に入らなかった。そのために母がひとりでかけまわった。

そして、成長した生徒たちは、徴兵されて戦場に行きます。で、戦死したり、大けがをして戻ってきたりします。
村に残っている人たちも、お医者さんやお坊さんまで戦場に行ってしまって、困ってしまいます。
大石先生には子供が生まれているんですが、幼い子どもも急性腸カタルで亡くなってしまいます。でもその病気になったのは、食べるものがないせいで飢えて、まだ青い柿の実を食べてしまったからなんです。

近年、村の柿の木も、栗の木も、熟れるまで実がなっていたことがなかった。みんな待ちきれなかったのだ。
子どもらはいつも野に出て、茅花(つばな)をたべ、いたどりをたべ、すいばをかじった。土のついたさつまをなまでたべた。

ですから、病気で死んだといっても、それも戦争の影響なんですね。その八津(やつ)という子どものお葬式をするにも、お棺を作ることができないんです。

ものがとぼしく、八津のなきがらをおさめる箱も、材料をもってゆかねば作れないといわれ、少しこわれかけていた昔のたんすでつくることにした。

それほど物資も不足していたんですね。

――うーん……。

戦争を、小さな視点で、庶民の生活に何が起きたのか見る

一家そろっているということが、
子どもに肩身せまい思いをさせるほど、
どこの家庭も破壊されていたわけである。

『二十四の瞳』壺井栄 角川文庫

――この「一家そろっているということが、子どもに肩身せまい思いをさせる」というのはどういう意味なんでしょうか?

頭木:
大石先生には大吉という男の子もいるんですが、生まれたその夜も防空演習で真っ暗だったということで、平和な時代を全く知らないんですね。

――んん、なるほど。

灯火管制のなかで育ち、サイレンの音になれて育ち、真夏に綿入れの頭巾をもって通学した彼(中略)。どこの家にも、だれかが戦争にいっていて、若い者という若い者はほとんどいない村、それをあたりまえのことと考えていたのだ。学徒は動員され、女子どもも勤労奉仕に出る。(中略)それが国民生活だと大吉たちは信じた。

田舎の隅ずみまでゆきわたった好戦的な空気に包まれて、少年たちは英雄の夢を見ていた。

頭木:
ですから、戦争で死んだ人がいる家のほうが名誉なわけです。一家全員元気でそろっていると肩身が狭かったわけですね。

――そういうわけなんですね。

となり村のある家などでは、四人あった息子が四人とも戦死して、四つの名誉のしるしはその家の門にずらりとならんでいた。大吉たちは、どんなにか尊敬の目でそれをあおぎ見たことだろう。それは一種の羨望でさえあった。

頭木:
戦死した人のいる家は、門のところに「門標(もんぴょう)」というのを飾ったんだそうです。名誉なことだったわけです。
ところが、戦後になると、今度はそれを隠すようになります。

永久に戻ることのない父や夫や息子や兄弟たちの、かつての名誉の門標は家々の門から、いっせいに姿を消し、ふたたび行方不明になった。それで戦争の責任をのがれられでもしたかのように。

戦争で家族が亡くなったことが、名誉になったり、隠さなければいけないことになったり。どちらもおかしなことですよね。
大石先生の夫も戦死してしまいます。それなのに、驚いたことに戦後、母子家庭だと就職で不利だったらしいんです。母子家庭で不利、ということ自体ものすごくおかしいですが、母子家庭になったのは父親が戦争に行って戦死したため、ということも多かったんですよね。それでさらに子供が就職で不利になる、というのはわけがわかりませんよね。

――理不尽な事柄ですね。

頭木:
戦争を、大きな視点ではなく小さな視点で、庶民の生活にどういうことが起きたのか、というふうに見ていくと、私などは知らなかったことばかりで驚かされました。
川野さんは戦後を体験しておられるわけですが、『二十四の瞳』を読まれていかがでしたか?

――私も知らないことばかりでした。戦後、といいますが、昭和25年に小学校へ上がって、平和な時代しか知りませんから。頭木さんと私はずいぶん年が違いますけれども、私などでもこの壺井栄さんが描くような実態は、小説で読んで、映画で見て、ああ、そうだったのかと思い至るぐらいですね。

頭木:
だからやっぱり、こういう村の人々の姿をちゃんと書いて残しておくというのは大事なことですね。

――本当ですねえ。

みんな大変なら大変でいいのか、我慢していいのか

じぶんだけではないということで、
人間の生活はこわされてもよいというのだろうか。

『二十四の瞳』壺井栄 角川文庫

――今でもよく言いますよね。大変なのはあなただけじゃないんだから、みんな大変なんだから、だから我慢しなさい、ということ。よく言われましたし、今も言われているようですよね。

頭木:
そうですね。みんな大変なら、大変でいいのか、我慢していいのか、という問いかけですよね。とても大事な問いかけだと思います。
さらにこういう一節があります。

いっさいの人間らしさを犠牲にして人びとは生き、そして死んでいった。おどろきに見はった目はなかなかに閉じられず、閉じればまなじりを流れてやまぬ涙をかくして、何ものかに追いまわされているような毎日だった。

大石先生の生徒も何人も戦死してしまいます。生きて戻ってこられた磯吉も、目が見えなくなっています。磯吉は会う人ごとに「死んだほうがましじゃ」と口にします。それに対して「いっそ死ねばよかったのに」と口にする生徒を、大石先生はたしなめます。

「死にたいということは、生きる道がほかにないということよ。かわいそうに。そう思わないの。」

「かわいそう」という言い方は、今はよくないように言う人もいますけれど、かわいそうと思う気持ちはとても大切だと思います。

――その磯吉が写真を見るシーンが有名になりました。

頭木:
はい。これは小説にも映画にもあるシーンですが、大石先生と生徒たちが久しぶりにみんなで集まったときに、子どもの頃にみんなで一緒に撮った写真を目の見えない磯吉も手にして、一人ひとり指さしながらこう言うんですね。

「それでもな、この写真は見えるんじゃ。な、ほら、まん中のこれが先生じゃろ。その前にうらと竹一(たけいち)と仁太(にた)が並んどる。先生の右のこれがマアちゃんで、こっちが富士子じゃ。マッちゃんが左の小指を一本にぎり残して、手をくんどる。それから──。」

こんなによく覚えています。磯吉は、つらいときに何度も何度もこの写真を見ていたということですよね。

――うーん……。
では、最後にご紹介する『二十四の瞳』の絶望名言をお話しください。

頭木:
はい。最後はまた木下惠介監督の言葉です。木下惠介監督は『二十四の瞳』の映画を撮るにあたって、小豆島の自然を単なる背景としてではなく、人間と同じくらいしっかり撮ろうとして、何か月もロケをして撮影したフィルムはついに10万フィートに達したそうです。完成フィルムは約1万4,000フィートなので、7倍以上です。普通は2倍程度だそうですから、すごいですよね。
なぜそんなに自然の美しさをフィルムに捉えようとしたのか、それを語っている言葉を最後にご紹介したいと思います。

――じっくりとお聴きくださいませ。
頭木さん、今回もどうもありがとうございました。

頭木:
ありがとうございました。

悠久の天地、自然の中で、
何故人間は愚かな戦争を始めるのであろうか。
何故いじらしい命を捨てさせるのであろうか。

『シナリオ 二十四の瞳』より「あとがき」 木下惠介 新潮文庫


【放送】
2024/02/26 「ラジオ深夜便」


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